私が留学先にトスカーナの小都市モンテプルチアーノを選んだ理由、それはただ一つ、当時4歳だった息子と一緒に行けるからということだけでした。いつかイタリアに住んでみたいと長年思い続けてきたものの、仕事を中断する不安以上に、家庭の問題が目の前に大きく立ちはだかり・・、決断する勇気を持てないまま時が過ぎていっていました。夫は私の意志を尊重してくれ、イタリア行きに賛成でしたが、問題はまだ手がかかる4歳の息子。子供を残していくつもりは全くありませんでしたが、かといって慣れない環境で親子2人どうやって暮らしていくのか想像もつかず、当時はあきらめの気持ちのほうが先行していたのです。
でも、ふと、息子が小学校に入学する前のほうがまだ話は簡単ではないかと気づき、それならとりあえず受け入れてくれる場所があるかどうかだけでも調べてみようと思ったのです。万が一見つかれば、その段階でもう一度考えてみよう、という安易な発想でした。ところが、なんと地元の幼稚園と提携している語学学校が見つかり、早速問い合わせてみたところ、受入OKの返事! このときからすべてが動きはじめたのでした・・。
私が通った語学学校「IL SASSO」では、授業スケジュールは平日の朝8時45分から午後1時半までとなっていましたので、その間息子は家から歩いて5分ほどのカソリック系私立幼稚園に通うことになりました。幼稚園の名前は「FAUSTO FIUME」、3歳から6歳までの子供50名弱を3人のシスターとお手伝いの女性1人で世話していました。幼稚園といっても、ここのシステムは保育園に近いものがあり、基本的に朝8時から夕方4時まで開園し、給食のサービスもあります。当初、息子はほとんどイタリア語がわからなかったのですが、それでも快く受け入れていただき、最初1週間はとりあえず朝8時半から12時まで、その後は給食を挟んで午後2時まで、登園することとなりました。これで無事学校に通える、とほっとしたのですが・・、それもつかの間のことでした。
イタリアの子供たちは初めて見る日本人の子供に興味津々で、遠慮しつつも近づいてくるのですが、一方の息子は「大混乱状態」です。わずか4歳で、いきなりわけのわからない世界にほうり込まれたわけですから、それも当然といえば当然のことなのですが、絶対に私から離れようとしません。始業時間は近づいてくるし、息子は泣きべそをかくし、もうどうしてよいかわからず、私だって泣きそうでした。絵本で釣ったり、おもちゃで釣ったり、先生方には連日ご苦労をおかけし、私は毎朝逃げるように幼稚園を後にしていました。自分のわがままのために子供が犠牲になっている、私はなんて情けない母親なのだろう・・、頭に浮かぶのはそんなことばかり。今回のイタリア滞在で最も辛い時期でした。
でも、いつしか息子は新しい環境に慣れ、イタリア人の友達もできて、毎日幼稚園に行くのを楽しみにするようになりました。子供の遊びに言葉は必要ない、と言いますが、まさにその通り。彼は、身振り手振りと覚えたての片言のイタリア語でそれなりにコミュニケーションを取り始めたのです。やがて、お迎えに行っても「今遊んでいるから少し待って!」「まだ友達と遊びたいから家に帰りたくない!」と言いはじめ、ついに「先生やお友達がなんて言っているか、少しわかるようになったよ」という言葉が出たのでした。
幼稚園の保育時間は所定の範囲内なら、自由に親が選ぶことができます。もちろん、あらかじめ親と先生が話し合って基本的な送り迎えの時間は決めておくのですが、結構アバウトなので、多少の遅れや変更はほとんど問題なし! 給食に関しても、食べる食べないは親が決めることが出来、この日だけ、この週だけは給食なし、というのもOKです。また制服や帽子、決められたカバンもなく、みんな思い思いの格好にリュックを背負って通ってきていました。一応、幼稚園に着いたらスモックに着替えることになっているのですが、そのスモックも着ても着なくても自由、スモック自体も市販品から好きに選んで持っていくようになっていました。
どうやら、日本人が大好きな「みんな一緒に〜〜を」という発想はここにはあまりない様子! だからこそ全く言葉がわからない外国人の子供をすんなりと受け入れてくれたのかもしれませんね・・。
ちなみに、子供たちのご両親も見慣れない日本人の子供がいることに特に驚く様子もなく、私たちにとても好意的に接してくれました。送り迎えで顔を合わせると気軽に声をかけてもらいましたし、街を歩いていていきなり知らない方から「うちの子供も同じ幼稚園に通っているんですよ!」と話しかけられ、こちらが驚いたこともあります。のどかな田舎街だったおかげでしょうが、親も子も本当にのびのびと幼稚園ライフを楽しむことができたのでした。
ふつう子供たちは9時頃に登園し、まずホールで自由に遊びます。その後、10時から給食の時間まで、年長、年少の2クラスに分かれてカリキュラムにそった「活動」がスタート。それぞれの教室で絵を描いたり、プリントに色を塗ったり、言葉を覚えたりと、内容はその日によって変わり、「母の日」にはメッセージカードらしきものも作ってきました。また、ある時は「Mucca mangia l'erba(牛は草を食べます)」「Mucca produce latte(牛は牛乳を作ります)」といった短い文章や、自分の名前の書き方を覚えてきて、息子は家に帰ると得意げにそれを披露してくれました。
さて、こういった「活動」のなかで最も重視されているもの、それは「お絵描き」です。色鉛筆やマジック、クレヨンなどは幼稚園に備えてあり、書き上げた作品は自分のファイルに入れて学年末に家に持って帰る仕組みになっていますが、毎日のように花や木や鳥など様々な絵を描いて楽しんでいたようです。息子の話では、絵を描くときは最初に少し先生が見本を描いてくれ、それを見ながら仕上げていくそうなのですが、それがとってもカラフルで、まさに陽気なイタリアンカラー! もちろん太陽は黄色です。
お絵描きはどちらかというと苦手だった息子ですが、習慣とは恐ろしいもので、周囲に感化されてだんだん色使いが鮮やかになり、絵を描くこと自体も好きになっていきました。机に座っているよりは体を動かす方が得意だったのに、飽きずに画用紙に向かっている姿をみて、ちょっとびっくり! 親としては予想外のありがたい出来事でした。
イタリア人の色彩感覚の豊かさは世界でも定評がありますが、私は以前から、彼らはこのセンスをいったいどこでどうやって身につけるのだろうと不思議に思っていました。今回、イタリアの子供たちと話をして驚いたことのひとつに、みんなそれぞれ色の好みがはっきりしていて、おもちゃを選ぶにしても洋服を選ぶにしても、ちゃんと主張を持っているということがありましたが、もしかしたら小さい頃からのこんな「訓練」も多少は影響しているのかもしれません。色彩感覚というのは一朝一夕に身につくものではないですものね・・。
ちなみに、子供たちの人気カラーは、やはり黄色、オレンジ、赤、グリーンといった鮮やかな色ばかりでした!
息子が通った私立幼稚園は週休2日制で、保育料は月12万リラ(約9千円)でした。他に給食費が必要ですが、1食6千リラ(約450円)で食べた分だけ払う仕組みになっていますから、毎日食べたとしても保育料と合わせて合計約26万リラ(約2万円)、日本に比べると安いように思います。なお、モンテプルチアーノには公立幼稚園もあるのですが、そちらは保育料は無料なものの保育時間が午前中のみとなっているため、母親が仕事をしている家庭は私立幼稚園を選ぶケースが多いようです。かなり離れたところから車で通ってきている子供もおり、送り迎えもママだけでなくパパやおじいちゃん、おばあちゃんが手助けしていました。
当初は言葉も習慣もわからず戸惑うばかりだった息子ですが、1ヶ月もたたないうちにすっかり新しい環境になじみ、毎日元気に幼稚園に通うようになりました。お友達が出来、言葉がわからないなりにコミュニケーションを取れるようになったことが大きな理由ですが、実はもうひとつ彼がとっても楽しみにしていたことがありました。それは「給食」です!
先月号でも触れたように、息子の通った幼稚園では1食あたり6千リラ(約450円)で給食サービスを行なっていましたが、その「給食」というのがなかなか素晴らしく、なんとプリモピアット(第1の皿)、セコンドピアット(第2の皿)、デザートと、ちゃんと一皿ずつ順番に、熱いものは熱く冷たいものは冷たい状態で、食べられるようになっているのです。また、幼稚園内にはステージ付きの広いホールがあるのですが、普段はここに子供用の丸テーブルが7、8卓並べられており、12時になると子供たちみんながそこに集まってゆっくり食事をする仕組みになっていました。
給食のメニューは、1週間ごとに幼稚園の壁に貼りだされ、保護者にもすぐわかるようになっています。基本は、プリモピアットとしてパスタかリゾット、セコンドピアットとして肉料理か魚料理に野菜の付け合わせ、そしてデザートは季節の果物で、例えば「トマト風味のペンネ、豚肉のローストと炒めたほうれん草、西洋なし」「ラザーニャ、プロシュートとにんじんのソテー、すもも」といった具合、このほかにパンとミネラルウォーターがサービスされます。時々ピザやジェラートが出ることもありますし、夏休み前の最終登園日には特別にケーキも出され、子供たちをとても喜ばせていました。
息子が通った幼稚園には、3人のシスターとお手伝いの女性が1人いるだけですから、給食は基本的にはあらかじめ調理されたものを台所で暖めなおして出す仕組みになっていました。でもその後のサービスはなかなか本格的?! さすが「食の国、イタリア」という感じです。
食事の時間になると、まず給食用のナプキン(首からミニタオルをぶら下げるようになっている)を身につけた子供たちが、自分のコップを持って好きなテーブルに座わり、そこに年長の子供数人が食器を配ってくれます。その後、エプロンをつけた先生方が各テーブルをまわってプリモピアットを盛りつけ、さらに頃合いを見計らってまた各テーブルをまわり、おかわりがいるかどうかも聞いてくれるのです・・。
こうして子供たちがプリモピアットに満足したら、今度はセコンドピアット。また同じように一人一人に熱々の料理がサービスされます。そして最後に、適当な大きさに切った果物を直接手渡してもらって、ごちそう様、となるわけです。
イタリア料理が大好きで、とくにパスタなら大人と同じ量は食べる食いしん坊の息子は、給食でも毎回必ずおかわりをしていたようで、先生方からは「なんでもよく食べるね」とお褒めの言葉(?)も頂きました。息子いわく「アツアツで、どれもとっても美味しかった」とのこと、夏休みに入った後も「もっと給食を食べたかったなぁ!」としきりにつぶやいては残念がっていましたから、よっぽど楽しかったのでしょう。ただ、後日、私が夕食にトマトソースのパスタを作った時に「給食で食べたのとちょっと味が違うよ、これはイタリアのごはんじゃない・・」と言って、あまり食べなかったのにはちょっとムッとしましたけど!!
私が具体的に事情を知っているのは息子が通った幼稚園だけですし、当然ながら個々の幼稚園、学校によって違いがあるでしょうから、一概にイタリアの給食とは・・、などと語ることはできませんが、幼稚園児にもちゃんと一皿ずつ順番に料理がサービスされることといい、食堂に集まってみんな揃ってテーブルを囲むことといい、イタリア人の食事に対する思いはやはり特別なものがあるなぁ、と私は強く感じました。
彼らにとってはきっとごく当たり前のことなのでしょうが、子供だから、給食だから、と、適当にすませていないところが、とてもいいですよね! こういう環境で子供たちが育っていくからこそ、豊かな食文化が受け継がれてゆくのかもしれません。「食の国、イタリア」の奥深さを垣間見た気がしました・・・。
私と息子がモンテプルチアーノでの暮らしを満喫できた理由のひとつに、ご近所の方々ととても親しくなれたことがあります。私たちは学校から歩いて3分の旧市街にあるアパートで暮らしていましたが、お向かいに住むテルツォーリ家に偶然にも2歳、5歳、6歳の3人兄弟がいて、息子の遊び友達になってくれたのです。最初はお互いになんだか恥ずかしそうだったのですが、あっという間に仲良くなり、雨の日以外は毎日のように外で遊ぶのが日課になりました。ラッキーなことにアパートのすぐ側に小さな広場があり、ここでサッカーをしたり、鬼ごっこをしたり、自転車に乗ったり、葉っぱや花を集めて地面に絵を描いたり・・、ひなたぼっこをしながら一緒に折り紙をしたことも何度となくありました。
5歳のアンドレアと6歳のエロスは息子とは別の幼稚園に通っていましたが、保育は午前中だけなので12時過ぎには帰宅します。家族揃って昼食を取った後、午後3時頃からが子供たちの時間。私たちの部屋は2階にあり、台所と寝室の窓からちょうど広場が見わたせるようになっていたのですが、広場から子供の声が聞こえてくるや否や、息子は「イオ・スビト・ジュウ(僕、すぐ、下)」と片言のイタリア語で叫びながら飛び出して行きます。アンドレアとエロスにとっては初めて接する日本人の子供でしたから、最初は言葉が通じないこと自体が不思議だったようですが、それも慣れてしまえばどうってことない、といった感じで、息子は片言のイタリア語、彼らは聞き覚えの日本語を連発しながら、いつまでも飽きることなく遊んでいました。
といっても、男の子が3人集まって、もめごとがないはずはない! エロスは折り紙がお気に入りのどちらかというとおとなしい性格でしたが、アンドレアと我が息子はどちらも超腕白、超いたずら坊主で、あっという間にけんかが始まります。たたく、蹴る、噛み付くは日常茶飯事で、取っ組みあいになることもしばしば。エロスはそんな二人の様子を公平に見ながら何度も仲裁役を買って出てくれましたが、時には一緒になってけんかを始め(よく出来たことに、彼は弟を贔屓することなく必ず最初にやられたほうの見方をしてくれるのですが・・)、あたりはもう大騒ぎ! 最後は私か彼らのマンマ、パトリッツアかおばあちゃんが一喝してやっと事が収まり、仲良くおやつを食べて、その後は何事もなかったかのようにケロッとしてまた一緒に遊び始める、という毎日でした。「仲がいいんだか悪いんだか・・」私とパトリッツアは何度ため息をついたことか。結論は・・、2人は同じ気質だから仕方がない、まぁこれもいいでしょ! ということでした。
ところで、エロスとアンドレアには2歳のガイアという妹がいましたが、彼女はとてもおとなしく恥ずかしがり屋で、腕白な我が息子に恐れをなしたのか、最初は息子が近づくだけですぐ逃げてしまっていました。たいてい午後は、家事で忙しいママに代わって、おばあちゃんがガイアの世話をしていたのですが、おばあちゃんがいくらとりなしてくれてもなかなか馴染んでくれません。我が息子は、なんとかガイアの気をひこうと、折り紙で花を作ってプレゼントしたり、日本から送ってもらったお菓子をわけてあげたりと積極的にアプローチ。そのうちにやっと彼女も息子の名前を呼ぶようになり、手をつないでくれるようになり・・、すっかり舞い上がった息子は「大きくなったらガイアと結婚しようかな、日本に連れてかえろっかな〜〜」と一言。その頃には、挨拶代わりにキスを交わすイタリアの習慣にもすっかり慣れていたため、遊びおわって家に入る時には、必ずガイアのほっぺにキスをするまで(半ば強引にですが・・)になっていました。
今度、ガイアと会えるのはいつになるかわかりませんが、その時、息子はいったいどんなそぶりをみせるのやら・・。
一方、私はと言えば、そんな子供たちの様子を眺めながら宿題をしたり、一緒にサッカーや追いかけっこをしたり、パトリッツアやおばあちゃん、広場に集まってくるほかのご近所の人たちと世間話をしたり。こちらが多少イタリア語がわかると知ると、ものすごい速さで話しかけてくるので(もちろん、わかるはずはない!)内心冷や汗ものでしたが、それでもごく自然に接してくれる態度がどれだけ嬉しかったことか。特にパトリッツアとおばあちゃんには、いつも「学校の方はどう? 勉強は進んでる?」と心配してもらい、息子が熱を出した時は「困ったことがあったら、いつでもドアをたたいてね」と声をかけてもらい、私の具合が悪い時は「子供は見ててあげるから、少し休んでいたら」と気を配ってもらい・・、私にとっては本当に心強い存在でした。
今考えてみると、最初は確かにお互いに遠慮があり、当たり障りなく付き合っていたように思います。でも、子供たちが仲良くなるにつれて、だんだんその距離は縮まっていきました。子供がいると気取ってなんていられないし、自然と他の子供、他の家族と接する機会も多くなります。もし私一人だったら、ここまで彼らと親しくなれたかどうか・・。こんなに幸せな出会いがあったのも、子連れだったからこそかもしれません。
また、これは後でふと思ったのですが、私たちがテルツォーリ一家と出会ったのは決して偶然ではなく、きっと、アパートを探してくれた先生アルベルトが、近所に息子と同年齢の子供がいて遊び場になるような広場のあるところを、とあのアパートを選んでくれたのでしょう。本当に、皆様に心から感謝! です。
テルツォーリ一家とは、一緒に映画会に出かけたり、お祭りを見に行ったり、カレーライスを試食してもらったり、と本当にたくさんの思い出があります。親しい友人となった彼らから届いたクリスマスカードには「エロスもアンドレアも何か欠けていると感じているみたい」と書いてありました。
美しいトスカーナの景色を眺めながら、ゆったりとのどかな時間を楽しんだ半年間。ふと、昔は日本もこんな感じだったのかな、という思いが頭をよぎります。ご近所付き合いのほとんどない東京のマンション暮らし、わざわざ公園まで出かけないと遊ぶ場所がない環境、お稽古事をいくつも掛け持ちしその合い間をぬってしか遊べない幼稚園児、外を駆け回るよりテレビゲーム・・。やっぱり何かヘン!!
息子が「モンテプルチアーノに帰りたいな」とつぶやくたびに、「そうだよね」と私も小さな声でつぶやいているのです。
イタリア滞在中、最も驚いたことのひとつに、夜遅くまであちこちに子どもの姿が見える、ということがありました。例えばレストランに行っても、映画やコンサートに行っても、街の小さな広場でも、夜11時頃まで子どもがうろうろしていたりするのです。日本なら「早く寝なさい!」と親が怒っている時間なのに、イタリア人の親は全く平気。周囲の人も別になんとも思っていないようなのです。日本では考えられない状況に、最初は目が点になりました!
私が滞在したのが、春から初秋までのサマータイムの時期で夜9時過ぎまで明るいということもあったのですが・・、我が家の前の小さな広場では、毎日、夕食後にご近所の人たちが集まってきて、夕涼みがてらおしゃべりに花を咲かせるのが日常でした。そして、その横で子供たちも自転車に乗ったり、おもちゃで遊んだりしているのです。学校や幼稚園がある間は、それもせいぜい9時半頃までなのですが、6月末からの長いバカンスに入ってしまえば、もう子供たちの天下! 時間を気にすることもなく、延々と遊んでいるのです。
さらに、我が家の前に住んでいたエロス、アンドレア兄弟は、ひとしきり遊んだ後、夜10時頃にお父さんと一緒に近くのバールに出かけるのを習慣にしていましたし(もちろん彼らがコーヒーを飲むわけではなく、お菓子を買ってもらったり、ジェラートを食べたりしていたようですが)、たまに私たち親子も誘われるまま一緒にバールに出かけてみると、そこでまた別の子どもに出会ったりもしました。大人は大人同志、子どもは子ども同志で、またしばらく楽しい時間を過ごし、時にはそれから少し街を散歩して、家に戻ってみたら11時過ぎだったこともしばしばです。
最初は、さすがにこんな時間まで子どもを連れまわしていいのかな、と思ったりもしたのですが、あまりにもたくさんの子連れの人を見かけるので、だんだんイタリア流に慣れてしまい、気がつくと我が息子もすっかり宵っ張りになっていました。
ちなみに、こんな時間まで子どもが起きていていいの、と何人かに聞いてみたところ、「バカンスだから・・」と一言。私はその言葉に妙に納得し、ふと「人生は楽しむもの」というセリフを思い出しました。これだからイタリア暮らしは、楽しいのです・・!!
子どもがあたりをうろうろしているのはレストランでも同じです。イタリア人はゆっくりワインを飲みながら2時間位かけて食事をするのが当たり前ですから、当然ながら子供は途中で飽きてしまいます。そこで、隣のテーブルを覗きにいったり、あたりを走り回ったり、同じ店に来ていた他の子どもと遊び始めたり・・。それでも、嫌な顔をする人はほとんどいません。店の人でさえ、まぁ仕方ないといった様子で(内心は迷惑だと思っているのかもしれませんが)、文句を言うでもなく、上手に子供たちをよけながら料理を運んでいます。
実は、私が通っていた語学学校では、2週に1回のペースで小旅行が企画されており、その帰りはみんなでレストランで食事をすることになっていましたが、最初、私は子連れではみんなに迷惑だから、と参加を遠慮していたのです。でも、そんなこと気にすることないから子どもと一緒においで、と何度も声をかけてもらい、ある日思い切って出かけてみたら、この状況。なんだか拍子抜けでした。その日は、子どもが途中で飽きても間が持つように、と折り紙やら絵本やらお絵描き帳やらを山ほど抱え、寝てしまったときのために小さな毛布まで持って出かけたのですが、あまり出番はありませんでした。
ただ一つ、思わぬ活躍をしたのが折り紙。最初は息子のために鶴を折ったり、小箱を作ったりしていたのですが、いつのまにか近くのテーブルの人や店の人までが覗きに来て(もちろん相手は大人です)、私にも折ってほしいと次々とリクエストされ、そのうちに作り方まで教える破目になりました。特に鶴は大好評で、「ブラーバ!」の声に気をよくした私は、この日せっせと草の根文化交流に励みました。ちなみに子供たちに受けたのは紙飛行機。ただ、レストランのテラスや奥のスペースで、いくつもの紙飛行機が飛び交うことになってしまい、これはちょっとまずかったかな、と反省しましたが・・。
こういった様子は、さすがにミラノやローマなど大都市の超高級レストランでは見られないでしょうが、一般的なレストラン(といっても、イタリアにファミリーレストランはありませんから、ちゃんとコースで食事ができる、いわゆるレストランです)では、そんなに珍しくない光景だそうです。
そう言えば、何年か前、東京であるイタリア人の知人と「たまには美味しいイタリア料理を食べに行きたいけれど、子どもがいるから無理だわ」というようなことを話していたとき、彼女が「それはどこの店? 電話をして文句を言ってやる!」と息巻いていたことがありました。あの時は聞き流していたけれど、なるほどそういうことだったのね・・。
そうそう・・、レストランには、子供たちの様子を見て眉間にしわをよせていた人たちも若干いることはいました。バカンスでイタリアにやってきたドイツ人やスイス人です。学校の小旅行で一緒にレストランに出かけた生徒のなかにも何人かドイツ人がいましたが、彼らには大人のための場所であるレストランに子どもが居ること自体が信じられないそうです。きっと「だからイタリア人は〜〜」と思ったことでしょう。
でも、たとえ文句を言っても「ここはイタリアだ!」と言われるのがおちですから、我慢していましたけど・・。
昨年11月号から連載している「イタリア子連れ遊学顛末記」。今回もイタリアの子どもたちの素敵な生活ぶりをご紹介します。
先月号で、イタリアのレストランでは夜遅くまで子どもたちがうろうろしている、という話をご紹介しましたが、その状況はオペラやコンサートの会場でも同じことでした。
モンテプルチアーノには「テアトロ・ポリッツァーノ」という18世紀に建てられた4階建ての立派な劇場があり、そこでしばしばオペラやオーケストラの演奏会が開かれていましたが、いずれも夜9時過ぎの開演だというのに、子連れで来ている人たちが決して少なくないのです。
モンテプルチアーノで暮らしはじめて3週間ほどたった頃、テアトロ・ポリツァーノでオペラ「ラ・ボエム」が上演されることになったのですが、街でそのポスターを見かけたとき、私は結構複雑な思いでいました。せっかくのチャンスだから見に行きたいけれど、まさか子どもを一人でアパートに置いて行くわけにはいかないし、かといって連れていくわけにもいかないし、と「子連れ」の不自由さをひしひしと感じていたからです。
ある日、語学学校の先生に何気なくそんな愚痴をこぼしたところ、「連れて行けばいいじゃない!」とのセリフ。彼女は、なぜ私がそんなことを言うのかがよくわからない、という口振りで真面目な顔をして言うのです。もちろん彼女は、息子がまだ4歳であることも、彼が人並み以上に騒々しいこともよく知っていましたから、その発言に私は本当に驚きました。「だって、日本ではクラシックのコンサートに子連れで行くなんて、しかも4歳児を連れて行くなんて非常識だと非難されるわよ」と言い返したのですが・・、彼女は「ストラーノ(変じゃない)?」と一言、そして「せっかくだから一緒に行って来たら」と勧めてくれるのです。
その言葉にかすかな期待を持って、チケットの予約窓口に恐る恐る電話をし、4歳の息子と一緒に行ってもいいかと聞いたみたところ、返ってきた答えはなんと「チェルト(もちろん)」。私はまだ半信半疑で、本当に大丈夫? と何度も聞き返したのですが、答えは同じで「当日は少し早めに会場に来なさい」と告げられたのでした。
さて上演当日、実は私は「受け付けで入場を断られるのではないか」と不安だったためチケットは予約のみで購入していなかったのですが、受け付けで事情を説明すると、相手は「子どももチケットが必要なのだけど(といっても半額で、日本円で千円程度)」となんだか申しわけなさそうに言いながら、座席表を開いて「子どもと一緒なら、あまり舞台に近くないほうがいいのだけど、どこがいい?」とボックス席をいくつか指差します。そのなかから、ずうずうしくも4階の正面席を選び・・、私たちはウキウキしながら細い階段を昇っていきました。たどり着いたボックス席は2畳位の大きさで、中には赤いビロード張りのイスが6、7脚。他に誰かくるのかな、とちょっと気になりましたが、この日は多少座席に余裕があったせいか、結局、そのボックス席に座ることになったのは私たち親子と同じ日本人留学生の友人だけで、お陰で周囲に気を遣うこともなく、そのまますんなりと素敵な一夜を楽しむことができたのです。本当に、思いがけない展開でした。
息子には、上演前から「絶対に静かに聴くように」とこんこんと言い聞かせており、当日はキャンディと飲み物と子どもが途中で寝てしまった時のために毛布をもって出かけたのですが、息子自身も小さいなりにここは特別な場所だということを理解していたようで、特に騒ぐこともなく真面目に舞台を見つめ、周りに合わせて一生懸命拍手していました。上演は当然イタリア語ですから、息子にも、もちろん私にも全てが理解できるわけではなく「あの人なんて言ってるの? どうなったの?」「お母さんにもよくわかんない・・」という間抜けな会話も多々ありましたが、息子は息子なりに会場の雰囲気や音楽を楽しんでいたようです。
開演が9時半を回ってしまったこともあって、さすがに息子は途中で疲れて寝てしまい、夜11時半過ぎに、私は18キロの大きな赤ちゃんを背負ってアパートまで歩いて帰る破目にはなりましたが(といっても歩いて5分ほどですが・・)、心の中はなんだかぽかぽかしていて、この日はいつまでも幸せな雰囲気に酔いしれていました。
テアトロ・ポリツァーノに子連れで出かけていたのは、何も私だけではありません。さすがに赤ちゃん連れはいませんでしたが、4、5歳の子どもは他にも何人か見かけましたし、小学生くらいの子どもも少なからずいて、休憩時間には会場入り口のホールや階段を駆け回ったり、併設のバールでジェラートを食べたりしていました。
また、モンテプルチアーノでは、ドゥオーモ(大聖堂)や、夏場はピアッツア・グランデ(中心地にある広場)でも度々コンサートが催され、チケットが比較的安いこともあって度々私たちは足を運んでいましたが、そこでも同じような光景を見ることができました。偶然、息子の幼稚園の友達家族と出会い、並んで座ったりしたことも何度かありました。 会場では、イスに座っておとなしく聴いている子もいれば、指揮者の真似をして両手を振り回している子も、なかには途中で飽きて座席の後ろのスペースを走り回っている子もいましたが、だからといって特に文句を言うような人もなく、みんなそれがごく普通であるかのように、のんびりと楽しんでいたのです。
もちろん、これがミラノのスカラ座やローマのオペラ座など超一流の劇場だと、事情は違ってくるでしょう。また、イタリアの劇場にはたいていボックス席が造られていますから、そこなら周囲にそれほど気を遣わなくてよいし、野外コンサートならたとえボックス席はなくても最後列を選ぶか、イスが自由に動かせるところなら端の方に寄せたりして、回りにあまり迷惑をかけないように楽しめる、という恵まれた状況も関係しているでしょう。
でも、それ以前に、イタリア人の発想のなかには「子どもだって楽しまなけりゃ!」というのがあって、だからこそ、こういう環境ができあがったような気がするのです。
食事だってオペラだってコンサートだって、家族みんなで!
イタリアの子供たちは本当に幸せです。とってものびのびしています。こんな素敵な環境で育つのだから、彼らが「人生の達人」になるのも当たり前と言えば当たり前なのかもしれません・・。
ふと考えると、帰国してまもなく半年になるというのに、私たち親子はその後一度もコンサートらしいコンサートに出かけていません。コンサートはたくさん催されていても会場が遠いケースが多く、電車で行くにしても車で行くにしても結構大変であることや、見たいものほどチケットが高いということもありますが、それよりも「6歳未満は入場不可」という絶対に超えられないハードルがあるからです。
ラジオのクラシック番組を聞きながら、両手に箸を持って指揮者の真似をする息子をみながら、私はちょっぴり切ない思いを味わっています。
モンテプルチアーノ滞在中、私と息子はほとんど毎朝必ず、ある場所に立ち寄ってから幼稚園に出かけていました。それは、我が家のすぐ近くにあるバール「エボエ」、このバールで働いている女性マリアテレーザに朝の挨拶をするのが習慣のようになっていたからです。
一児の母でもあるマリアテレーザはとても子ども好きで、腕白な我が息子のことをいつも気にかけてくれていました。
私が息子を連れて家を出るのがだいたい8時半頃、バールの前を通りかかると彼女は必ず私たちを呼び止め(正確に言うと、我が息子を呼び止め)「KIRI(息子の名前)、IL MIO TESORO(私の宝物)!」と大袈裟に両手を広げます。そして、息子の前に小さなチョコレートを差し出して、ほっぺにキスしてちょうだい、と声をかけるのです。最初は恥ずかしがっていた息子ですが、チョコレートに釣られ、おずおずと・・。そのうちに、挨拶がわりにキスする習慣にも慣れて、毎朝、彼女に会うのを楽しみにし、彼女を見かけない時は自分からバールに入って、彼女を探すようになったほどです。
このバールでは、飲み物やピッツア、パニーニのほかにお菓子やジェラート、さらにバスのチケットや切手も取り扱っていたので、私たちは幼稚園の帰りにも、また夏休みに入ってからは学校の休憩時間にあわせて、毎日のように「客」としてもここに立ち寄っていましたが、店が込み合い、忙しく動き回っている時でも、彼女は必ず息子の姿を見つけると「KIRI!」と声をかけてくれ、たまに息子が覚えたてのイタリア語で話しかけたりすると、また「IL MIO TESORO!」を連発して、とても喜んでくれたのです。
ほかにも、彼女の息子も交えて一緒に公園に行ったり、お手製のケーキをもらったり、そのお礼に折り紙で花束を作ってプレゼントしたりと、彼女とはたくさんの思い出がありますが、そのたびに私は、息子に接する時の彼女の表情がとても優しくおおらかなことに気付き、また、その素直で豊かな愛情表現ぶりに接するたびに、なんだか幸せな気分を味わっていました。
日本人の感覚からするとなんだか恥ずかしくなるくらいストレートな表現「IL MIO TESORO!」。でも私は、ごく当たり前の顔をして、こんな風に愛情表現できる人たちをとても素敵だと思います。聞いた話では、イタリア人は絶対に自分の子どもを卑下したりしないとか。日本でよく耳にする「出来が悪い息子で・・」なんてセリフはまず耳にすることはなく、例えば他人に「いい息子さんね」と言われたら、なんのためらいもなく「そうなの、とってもいい子なのよ」と自慢するのだそうです。そんな「素直な」文化を、私は心からいいな、と思っています。
子どもに対する愛情表現の豊かさ、優しさは、何も彼女だけのものではありません。私が通った語学学校「IL SASSO」の先生方も御近所の人たちも、息子に対して本当に優しく、みんないつもさりげなく気遣ってくれました。ご近所の人たちとのエピソードは1月号で既に紹介しましたが、実は先生方ともこんな素敵な思い出があります。
先生方とはよく一緒にバールに出かけたり、食事をしたり、小旅行に参加したりしましたが、そんな時は誰かが必ず遊び相手を買って出てくれていました。人一倍元気で騒がしい息子ですから、私は相手をしてもらうたびになんだか申しわけない気持ちになり、すぐ「ごめんね、疲れるでしょ?!」を連発していたのですが・・、ある時「なんでそんなに謝るの? 私が遊びたいから遊んでいるだけなんだから。楽しいのよ。疲れたら止めるんだから心配しないで」と言われたことがありました。もちろん、私を気遣ってのセリフなのでしょうが、真面目な顔でそう言われた時は本当に嬉しく、気が楽になったことをよく覚えています。イタリア人が子ども好きで、子連れの人に対してもおおらかであることは感じていましたが、イタリアでよかった、とつくづく思ったのです。
そして、もうひとつ忘れられないのが、息子の誕生日のこと。イタリア滞在中に5歳になった息子のために、先生方はなんとサプライズ・パーティを開いてくれたのです。
その日、休憩時間に「ちょっと用があるから、事務所にきて」と声をかけられた私。さっそく階段を降りてゆくと、息子とベビーシッターのジェシカ(ちょうど幼稚園が夏休み中だったので、ベビーシッターをお願いしていました)の姿があります。私は、単に息子が休憩時間に合わせて遊びにきたのだと思ったのですが、先生方に促されて一緒に事務所の中に入ると、目の前のテーブルにはロウソクが5本たてられた大きなケーキとジュース、そして大きな紙包みが・・! 息子は全員に「TANTI AUGURI」(イタリアのハッピーバースディソング)を歌ってもらい、拍手に包まれてろうそくの炎を吹き消し、すっかり舞い上がっていました。全く予想もしなかった出来事に私も感激し、思わず涙ぐんでしまったほどです。
後で、ある先生から「KIRIの誕生日のことを知り、みんなでパーティを開こう、という話で盛り上がったのよ。それで、ジェシカだけに前もってそのことを伝えて、こっそり学校に連れてくるよう頼んだの」と教えてもらいました。そして「何をプレゼントするかしようか、とみんなで相談したのだけど、アルベルトはテディベアのぬいぐるみがいい、って言うし、ほかのみんなはそんなの5歳の男の子には似合わない、って言うし、アントネッラは私が買いにいく、って言い張るし、もう大騒ぎだったの」と。
息子がもらったプレゼントは、大きなリュックに入ったスポーツ用品セット。もちろん息子は大喜びで、すぐにリュックを背負ってあたりを歩き周り、中身をひとつづつ取り出して確かめ・・、先生方はそんな様子をにこにこしながら眺めていたのでした。
実は、この話にはもうひとつおまけがあります。その日の夜、息子はパーティのお礼にと、小さなカードに先生方一人一人の似顔絵を描きました。全員で11名、みんな髪の色も目の色も違いますから、5歳の息子がそれを描きわけるのはなかなか大変でしたが、ちょっぴり私も手伝ってなんとか仕上げ、翌日みんなにプレゼントしたところ、そんなささやかなお礼でも先生方はとても喜んでくれました。そして数日後、その全員の絵を並べて額に入れ、事務所の壁に飾ってくれたのです。それを見た時、私はまた先生方の優しさに感激して思わず泣き出しそうになり、息子はなんだか得意げな顔をしていました。
今もまだ「IL SASSO」の事務所には息子が描いた絵が飾ってあるそうです。みんな、時々、息子のことを思い出してくれているのでしょう、モンテプルチアーノから届く手紙やメールには、必ず「KIRIはどうしてる?」と書いてあります。
そして息子は・・、「大きくなったら僕もお母さんと同じ学校でイタリア語を習うんだ」と張り切っています。