井伊直弼 (いいなおすけ) 近江彦根藩の第15代藩主。

幕末に「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国論を主張したといわれる。

彦根藩時代は藩政改革を行ない、名君と呼 ばれた。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー艦隊来航に伴う江戸湾(東京湾)防備に活躍したが、老中首座の阿部正弘がアメリカの要求に対する対策を諮問してきた時には、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国論を主張している(ただし、直弼の開国論を「政治的方便」とする説もある)。彼はもともとは鎖国論者であったという。

安政2年(1855年)12月16日、左近衛権中将に転任し、掃部頭は従前通り兼任する。

幕末期の江戸幕府にて安政5年(1858年)、江戸城では溜間詰(江戸城で名門譜代大名が詰める席)の筆頭として大老に就任した井伊直弼は、将軍継嗣問題と日米修好通商条約の締結し日本の開国近代化を断行するという二つの問題に直面していた。

当初、直弼は勅許なしの条約調印に反対であったが、朝廷の反対も国体を損わぬようにとの配慮からなされたものである、との認識が幕府の中で台頭しつつあった。こうした流れを受け、やむを得ぬ場合の調印を下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震に命じた。こうして、孝明天皇の勅許を得られぬまま、6月19日にポーハタン号上でハリスとの間に日米修好通商条約が調印される。

これが違勅調印であるとして、一橋派から攻撃を受ける家定の継嗣問題では同月25日に徳川慶福を後継に決定し、慶福は名を徳川家茂と改めて同年12月1日征夷大将軍(第14代)の宣下を受けた。

直弼の対応に憤った水戸藩士らが朝廷に働きかけた結果、幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇は、安政5年8月8日(1858年9月14日)、水戸藩に対して直接勅書を下賜するという異例の行動に出た(戊午の密勅)。

水戸藩に直接勅書(戊午の密勅)を下すということは、武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかけたことになる。また、若手の公卿たちが幕府に通じているといったことを拠り所に関白・鷹司政通を突き上げ、安政3年(1856年)8月8日、辞任に追い込んだ。

折しも将軍継嗣問題を巡って前藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し(一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。井伊は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下にも彼が関与していたとの疑いを強めた。

前代未聞の朝廷の政治関与に対して、幕府は態度を硬化させる。

<安政の大獄>

やがて井伊によって一橋派や尊攘派への大弾圧が開始され(安政の大獄)、水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて再び失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい処分を行った。

尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、井伊直弼は強権をもって治安を回復しようとした。さらに、水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じ、多数の志士(橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎など)や公卿・皇族(中川宮朝彦親王)らを粛清した。また、一橋派の一橋慶喜、徳川斉昭、松平慶永らを蟄居させ、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。そして、閣内でも直弼の方針に反対した老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にした。強権をもって国内の反対勢力を粛清した(安政の大獄)。安政6年(1859年)12月15日、正四位上に昇叙し、左近衛権中将掃部頭は留任。しかしながら、老中太田資始、間部詮勝両人も罷免、更に孤立した。しかし安政の大獄で死罪となったのはわずか8人だけである。

先に朝廷より水戸藩に下賜された勅書については幕府への返納が命ぜられるが、これへの対応を巡り、尊皇攘夷派は密勅返納に応じようとする鎮派と、あくまで密勅を奉じようとする激派に分裂した。翌年に斉昭らは勅書返納の方針を定めるが、激派の中にはこれに反発して実力行使を企てる者が現れた。

高橋多一郎ら水戸浪士は水戸街道の長岡宿(東茨城郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問を実施し、江戸への勅書搬入を実力で阻止しようとしたのである。後に「長岡屯集」と呼ばれるこの行動を鎮圧するため藩庁は部隊を派遣するが、斉昭による説得もあって屯集勢力は解散し、武力衝突はかろうじて回避された。

こうした独裁政治は、尊王攘夷派など反対勢力の怨嗟を受けた。

万延元年(1860年)3月3日5ツ半(午前9時)、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。供廻りの徒士、足軽、草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた時、関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士の有村次左衛門ら計18名の襲撃を受け暗殺された。この事件が桜田門外の変と呼ばれる。

<水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)が挙兵>

水戸藩尊皇攘夷派の活動が再び活発となるのは文久2年(1862年)である。この年、長州藩等の尊皇攘夷派の主導する朝廷は、幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった

元治元年(1864年)に幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。藤田は北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結した62人の同志たちと共に水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)が挙兵これによって起こされた一連の争乱を天狗党の乱(てんぐとうのらん)という。元治甲子の変ともいう。

水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)の藤田小四郎ら筑波勢は、京都上洛をめざし、元治元年4月3日(1864年5月8日)に下野国日光(栃木県日光市)へと進んだ。彼らは徳川家康を祀った聖地である日光東照宮を占拠して攘夷の軍事行動に踏みきる予定であったが、日光奉行・小倉正義の通報を受けた近隣各藩の兵が出動したため、天狗党は慌てて東照宮への参拝が目的であると弁解する。これに対して小倉は10名のみに限って参拝を許すと通告したため、天狗党は代表者数名が参拝を行うと日光から大平山へと移動し、同地に5月末までに滞在した。

天狗党のいわれは、保守派(門閥派)の中には代々名門の家を受け継いできた上級武士が多く、改革派の中には下級武士が多かった。その為、「成り上がり者が調子に乗っている(天狗になっている)」といった侮蔑の意味を込めて保守派が改革派を天狗党と呼んだところから来ているという説もある。

一方水戸城下においては、保守派(上級武士が多い)の市川三左衛門が鎮派の一部と結んで諸生党を結成し、藩内での激派排撃を開始した。これを知った藤田らは筑波山へと引き返すが、この間に挙兵勢力は約700人に達しており、軍資金の不足が課題となった.横浜鎖港は幕府にとっても受け入れざるを得ない情勢となったが、一方で老中板倉勝静・牧野忠恭らはこれが筑波挙兵の結果として受け止められることを回避するため、5月、家茂の江戸復帰を機に、水戸藩に対し筑波勢追討を命じた

水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争により人材をことごとく失った。

その後の水戸藩すなわち天狗党が去った水戸藩では,諸生党が実権をにぎり,武田耕雲斎の一族をすべて死罪にするなど,天狗党側の人々を次々と処罰していった。

降伏した天狗党の一行は,まず敦賀の寺に収容され,その後,肥料用のにしんを入れておく蔵に移された。火の気も
ふとんもないうす暗い蔵の中では,厳しい寒さと粗末な食事が原因で,20数人が病死していったという。

間もなく,幕府の若年寄の田沼意尊(たぬまおきたか,老中 田沼意次[おきつぐ]の子孫)による取り調べが行われ天狗党一行に対する刑が決められた。

それは,次のように非常に厳しいものであった。

・死罪…………352人。武田・藤田ら。
・島流し………137人。
・水戸藩渡し…130人。

あの安政の大獄でも,死罪となったのはわずか8人だけである。

この類を見ない大量処刑に驚いた薩摩藩の大久保利通(おおくぼとしみち)は,その日記に「このむごい行為は,幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」と記している。

しかし,時代は大きく動いていた。薩摩藩・長州藩は討幕への動きを強め,ついに幕府は滅亡する。水戸藩でも,天狗党側が実権を取り返し,諸生党側に対する血生ぐさい復しゅうが行われた。逃げ出した諸生党は,水戸城をめぐる戦いで敗れ,全滅してしまうのである。

こうして水戸藩では,幕末の激しい争いの中で多くの人材が失われ,創立当初の明治の新政府に,1人の高官も送り出すことができなかった。

参考:
Wikipedia 笹沼 一弘著

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