天下統一をなしとげ江戸幕府を開いた徳川家康は、慶長十年(1605)に二代将軍秀忠に将軍の座を譲ったが自らは駿府にあって院政をひいていた。元和二年 (1616)駿河へ鷹狩りに出かけ発病、四月に病状悪化をさとった家康は数々の遺言を残している。本田正純、南光坊天海、金地院崇伝に死後の処置についてのこしている。
遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂をたてて勧請そして八州の鎮守になろうと指示した。
そして死後一年後に東照大権現として祀られた。

日光山に祀られた説は多くあり、日光山は古代から関東隋一の山岳信仰の霊場である。家康が個人的にも尊敬し、また同族の祖先でもある源頼朝が篤く信仰していた。家康が信任する天海が日光山の貫首であり、彼は日光の繁栄を望んでいた。征夷大将軍の官職名は、東北の鎮定をその本務とするもので、日光山は東北の押さえとして意義をもっていた。戦略的にも、日光は西国に遠く、戦術的にも日光山は要害の地であった。などと言われている。

もとへ。

参考文献:日光東照宮の謎 高藤晴俊著 講談社現代新書 ¥720