古代ローマ帝国の復興とメディチ家

 古代ローマ帝国が東西に分裂したのが紀元395年。
その65年前キリスト教に帰依したコンスタンチヌス大帝が当時は異教都市であったローマから帝都をコンスタンティノープル(現イスタンブール)に遷都してから、東西分裂前の歴代皇帝は東方重視政策をとってきた。とりわけ帝国軍事機構の主力は東に移され帝都西部は蛮族の驚異にさらされ続けた。

 やがて親衛隊司令官をつとめるゲルマン・スキリオ族の族長オドアケルが宮廷クーデターを起こし西ローマ帝国は476年に滅亡した。滅亡した西ローマ帝国にたいする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の宗主権を認め、オドアケル自身は東ローマ皇帝により帝国西半分の総督に任じられた格好をとったが権力奪取ごまもなく古代西ローマ帝国機構とともに自壊していった。一方東ローマ帝国は繁栄を続け、帝都コンスタンティノープルはキリスト教世界の中心となり,最盛期の9−10世紀には人口40万擁すまでになった。これに比べ西ローマ帝国すなわち西ヨーロッパは混乱を続け乱れていった。

 そのころ現在のフランスを中心としてゲルマンの一部族フランク族がフランク王国を樹立した。ローマ帝国の東西分裂、西ローマ帝国の滅亡で東方でやがてギリシャ正教会に発展するコンスタンティノープル教会に比べローマ教会の地位の低下が明らかとなってきていた。このときアルプスの北、ゲルマンで一大勢力が勃興したことはローマ教会にとっても千載一遇のチャンスとみられた。ローマ教会はキリスト教による王権の拡大ということをちらつかせる。平定した地域の統治に手をやいているフランク王カールは統治手段として宗教的権威を利用しようとする。

 ビザンツ帝国(東ローマ帝国)との810年より2年間にわたる交渉の結果、ビザンツ帝国はカール大帝を皇帝として認知し、大帝のヴェネチアをのぞく北イタリア(トスカーナをふくむ)の支配権を承認する。南イタリアとシチリア島はビザンツ帝国の版図とする。中部イタリアはローマ教皇領として主権を維持することとなった。800年カール大帝の戴冠式が行われローマ教皇レオ三世により西ローマ皇帝戴冠の儀式が行われた。これは西ローマ帝国の復活とローマ教会の思惑通りの復活であった。

 これが後々の西ヨーロッパの歴史に大きくひびいてくる。カール大帝の戴冠式が古代ローマのように世界を統一し皇帝がこれをしめすという世界帝国理念を生み出した。かつてのパックス・ロマーナ(ローマによる平和)のさいらいで、帝国の中心はあくまでローマでなければならないということがドイツ・フランスがイタリアに触手をのばすということとなる。
(神聖ローマ帝国 菊池良生著 講談社現代新書)

 メディチ家以前のフィレンツェについて目を向けてみると、フロレンティアという名で古代ローマ時代からすでに存在し、カエサルが植民市として扱っていた。ローマ帝国の没落後、ヨーロッパで戦争が勃発し、イタリアがその舞台になったとき、フィレンツェは商業によって町を発展させようとつとめ早くから共和国の事業と商売を両立させた。

 フィレンツェが都市国家になったのは、1182年前後にポーニャ征服の記録に、自治都市(コムーネ)として設立承認されたフィレンツェの意志の代表者として行政官(コンソリ)のことが初めて言及されている時期と思われる。12世紀後半にはトスカーナのリーダーシップにおいてかつての侯領の首都だったルッカを追い越し、また天然の港によって外国との通商の窓口として栄えたピサ、歴史的ライバルであるシエナも凌駕し、トスカーナで最も繁栄した都市となった。

 フィレンツェでは早くから規範、規則、規律が整えられそれによって並はずれた効力と地域の競争相手に対する絶対的な競争力が保証されていた。中世の経済では産業活動は個人の場当たり的な仕事が大勢を占めていたが、フィレンツェでは活動を同業組合システムにより組織化し、それが市の組織の基礎となった。13世紀のフィレンツェはすでにイタリアだけでなくヨーロッパの他の都市を凌駕していたがそれは需要の多い洗練された製品、その仕上げの見事さによるだけでなくあらゆる種類の競争に勝利できるだけの精神的、知的、創造的、経済的な資源を有していたからだった。

 それはフィレンツェには最初から伝統的なローマ人を起源とする素晴らしい人々が集まっていたという状況のためでもあった。彼らは主として職人だったが団体精神と創造的本能を備えた独自の小さな家族企業の主としての素質にもめぐまれていた。

 フィレンツェの民衆は非戦略的な地域にあしを踏み入れる必要がないため市壁の外に留まっているゲルマン起源の貴族階級と敵対関係にあり、商業活動で不可欠な外部との道を包囲され圧迫、迫害されていた。経済的繁栄を維持しつつ生き延びようとする意志と、対神聖ローマ帝国との戦いで町をまもる必要からフィレンツェは自らの組織化を行うようになる。市民が様々なグループの構成員になることで行われた。

外国に対して正当な優越性を発揮するためには内部が同業組合という強大な組織であることが必要であった。その中でも織物業と両替商は発展も早く圧倒的な勢力を持った。
(メディチ家 マッシモ・ウィンスピア著 sillabe )

メディチ家とはなにか?

 メディチ家はイタリア・ルネサンス時代に栄華を極めた大富豪・大銀行家の一族で有名である。フィレンツェの一介の商人から身を起こしイタリアの有名な君主や教皇にまでのしあがった名門一族である。

メディチ家が現在でも親近感をもって語られる理由は1つはメディチ家の歴史が西欧の美術史・文明史の黄金時代のルネサンスという時代またフィレンツェという輝かしい都市の歴史とかたく結びついている。

 もう一つはメディチ家がもともと封建領主の出身でなく、商人(銀行家)の出身で、都市の市民から君主となり、また理想的な大パトロンとなりフィレンツェの芸術文化の発展に絶大な寄与をなしたことである。ヨーロッパのブルボン朝やハップスブルク朝などに比べて、君主となった以後もメディチ家の権力規模ははるかに小さく、その権力はフィレンツェと領国のトスカーナに限られている。




   

コジモ・デ・メディチ

メディチ家が関与し主導したイタリア・ルネサンス文化は、その質の高さと豊かさによってヨーロッパ文化を牽引する役割をになった。そこにヨーロッパの政治史においてよりその文化史において栄誉と名声を獲得してきた理由がある。

フィレンツェはメディチ家以前に中世以来長い都市形成の歴史があり、激烈な党派抗争・階級闘争のなかから生み出された強固な共和制の伝統があり、共和国政府やその母体であるアルテ(同職組合)、共和制を担ってきた多くの大商人=都市貴族達による活発な公私にわたるパトロネージの伝統があった。メディチ家は、こうした都市貴族の中でも13世紀以降にあらわれた新興一族で、15世紀にコジモ・イル・ヴェッキオやロエンツオ・イルマニフィコが都市政治の覇権を握ってからも、メディチ家一族がパトロン活動を独占したわけではなく、多くの家門の一つにすぎなかった。

フィレンツェのメディチ化が進んだのは明確な絶対君主的自覚をもったコジモ1世がフィレンツェ公(さらに初代のトスカーナ大公)となってからである。コジモ1世以降の時代に多くの建築物などが造られた。13世紀から18世紀まで続く500年間のメディチ家の歴史がある。


(メディチ家 森田義之著 講談社現代新書)

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