誓いのミュージカル
誓いは守られたか・・・もし現代の街に「走れメロス」のような男が現れたら?
12/22(水)〜26(日)新宿シアターブラッツ
YOKOHAMA KID BROTHERS
新宿シアターブラッツ。初めて来るこの劇場の向かいに、かつてあった厚生年金会館の跡が見える。
そう、かつて「街のメロス」も厚生年金会館で公演していたのである。そして、32年の時を経て、再び・・・
幕が開く。スクリーンに映像が流れる。大勢のメイドと執事の倉田。メロスの豪邸である。
そういえば当時は「女中」であった。現代版は「メイド」なのか。ノートパソコンを持ったメイドもいる。経理秘書といっていいだろう。
メロスの妹江利加が現れる。続いてメロスが起きてくる。大財家の朝の光景だ。
トイレに入り出てきて「黄金色だった」と言って新聞を命令し逆さまに読んでいるシーンは、当時とまったく同じ。
馬にチップを1万円あげたという話も同じ。恭兵さんの演じていたキザでお金持ちのお坊ちゃん、メロス役が甦ってくる・・・
やはりKIDの芝居の主人公は、こうでなくっちゃいけない!
「マネー」が流れる。お金の大切さ。軽快なオープニングコーラス。
倉田と女中頭のトミの「おかまは生きろ」のシーン。峰さんと国谷さんの有名シーンだ。倉田役のホリベンさんが峰さんのように、おかま疑惑をやっている。
長ゼリフも基本は当時と同じだ。ただ、「おかまは生きろ、豚は死ね」のセリフは、今でも石原慎太郎さんと関連付けられて見えるだろうか・・・
暗転し、スクリーンに夜の観覧車の影絵が映る。
「メロス、下界を覗いてごらん。いろんな人たちが小さく見えるだろう。人を見かけで判断してはいけないよ。いい人も悪い人も、同じ小さな蟻さんなんだよ」
メロスの母!?からの天の声が聞こえる・・・
メロスと純との出会いのシーンに入る。ハンバーガーショップに勤める純。その弟修一郎がメロスの妹江利加の家庭教師(大学生)という設定である。
江利加の家庭教師の先生を偵察するために、下界の街のハンバーガーショップに繰り出すメロス。
純を一目見て体が固まってしまう。衝撃的な出会いだ。文字どおり固まってしまう小松さんが面白い。
このあと当時では、店の従業員の一人、町子の長ゼリフがあった。恋をすることを夢見る少女のせつない気持ちを、北村さんが切実に話し、とても印象的だった。
メロスと倉田が帰り、今度は純とオサムのシーン。飯山さん演じたサブは今回名前がオサムに変わっていた。太宰治から採っているのだろうか。
サブと同じく貧乏を強いられている自動車修理工員のオサム。設定は同じだ。
その貧乏ゆえ、長らく恋人の純にプロポーズができない。そこでオサムは、一人前になるまで待ってほしいと、婚約代わりに手作りのネックレスを渡す。
そう、このネックレスこそ、当時飯山さんがアリスさんに渡していた「ブリキの鳥」の代わりの品である。たしかに「ブリキ」自体、現代にミスマッチであろう。
ここでデュエット「約束ということ」が流れる。ただし、これはBGMであった。
さらに「もうひとつのラブソング」のBGMに乗って、メロスが純のハンバーガーショップにやってくる。メロスが純に告白する「街に響く銃声」の有名シーンだ。
「ヒモつきだって構わない、コードつきだって構わない」のあたり、二人のセリフは当時とほぼ同じ。
しかし告白の瞬間、ここで当時恭兵さんが出演中だったテレビドラマ「俺たちは天使だ!」の主題歌が流れ、メロスがDARTSの格好に変身する。
黒い服に黒い帽子赤いネクタイ。「俺天」での恭兵さんの役DARTSそっくりである!
DARTSいやメロスは、「俺のダーツが火を噴くぜ!」の名ゼリフとともにダーツを投げる。サービスシーンだ。
実はこのシーンまでにも「俺天」を彷彿とさせる言葉がいくつかあった。ハンバーガーショップで食べていた「アジサンド」、「リッチリッチャーリッチェスト」というセリフ・・・
「LOVE CONNECTION」が流れる。メロスのソロだ。小松さんがマイクを持って歌う。当時もこのような黒い衣装ではなかっただろうか。
メロスとオサムの取引のシーン。メロスはオサムに1億の小切手を渡そうとする。昭和54年公演当時、この金額は2千万であった。
「あんたにまんまとはかられて、俺は裏切りの暗い夜道を駆けてやらあ」という名ゼリフで小切手を受けてしまうオサム。
オサムが街から出て行ったと純に話すメロス。驚き激昂する純。もう二度と現れないでと絶交されるメロス。
ここで当時は、とぼとぼ帰るメロスに娼婦が声を掛けてくるシーンがあった。
取り返しのつかない過ちと絶望をさらに強調するような川船さん演じる娼婦の印象的なシーンだった。
このように東さんの作品では、先ほどの町子同様、脇役にもしっかりとしたメッセージ性のある長いセリフが必ず用意されていて、哀しみを増長させる意味合いを持たせている。
そして遊園地の観覧車に乗っているメロス。夜の観覧車の影絵が映る。「彼が殺した驢馬」の序曲が流れる。当時と同じだ。
亡くなった母さんに悲しみを報告するメロス。先ほどの下界から見下ろしていたような天の声は、このシーンの象徴だったようにも思える。
「俺はもう何年も寂しさと付き合って生きてきた。人間の世界なんて面白いことがあるはずもない。生きるということは、ただ束の間の戯れだと思い込んで生きてきた。
恋、たかが男と女が見つめ合い、悪趣味なコーヒーショップで語り合い、公園の片隅で抱き合い、そしていつかみじめったらしい生活の中で冷めていくまでの一時の幻想じゃないか。
俺はただ指をくわえて、あの二人が結ばれていくのを見てればよかったのか。誰か観覧車を回せ、そして俺をあの恐ろしい空へ連れて行け。
そうしてくれたら、俺の持っている金をすべてくれてやる。俺を空に放り出せ!」
前半幕前のメロスの絶叫。有名な長ゼリフである。
前半終了。気になるのは、メロスの亡くなった母と妹江利加の扱われ方である。
また今回飯原さん演じる熊田虎慈なる人物も新キャラクターだが、メロスと江利加の兄妹とどう関わっているのか、前半だけではよく分からなかった。
ただ、熊田虎慈は、昔、メロスの運転する車が事故を起こした際、妻を失っており、大財家を憎んでいる様子だ。
江利加は、妹といっても、当時の設定と同じで、義理の妹である。となると、メロスと父母は異なるはず。なんだかややこしい・・・
後半が始まる。5年後・・・一文無しになり、何もかも失ったメロス。執事の倉田が古いノートを開きながらしみじみと語る。
「この作文は、あの方(メロス)が小学校5年生、太宰治の「走れメロス」を読んだ感想を書いたものです。
あの方は非常に強いショックを受けたらしく、あるとき私に「倉田、友達とは何だい?僕の友達は誰だ?」とお尋ねになりました。
あの方には友達というものがいなかったのです。私は教えてあげることができませんでした」
このセリフは、のちの「ペルーの野球」にも出てくる少年期の孤独な思い、メロスの境遇に関しては「青春のアンデルセン」の孤独な育ち方にも似ていて、
せつなさを感じてしまう。聞いていて改めてジーンときてしまった。
オサムが街に戻ってきた。熊田虎慈の元、事業を行い、金持ちとなって大財家の資産まで乗っ取ることにも成功した。あとはただ一つ・・・
純と再会するオサム。オサムの後ろには派手な衣装の綺麗な女性、いわゆる取り巻きが3人立っている。
「二人でもう一度やり直すんだ。きれいさっぱり昔のことは忘れて、思い出したくねえあの日から、這い上がるんだ!」これがオサムの最後に残された希望だった。
純がメロスを訪ねてくる。メロスが落ちぶれてしまった原因を自分のせいか気にする純。メロスは、親の遺産が重苦しかっただけで今はせいせいしている、と否定する。
純は、自分が受け入れなかったことで落ちぶれてしまったメロスを思い苦しく、メロスは自分のしたことで純を不幸にしてしまったことを苦しく思う。
純が言う。「できることならこの街からいなくなってほしいわ。いいえ、あなたが遠い街へ行ってもダメよ。私はやはりあなたの苦しみを感じて、同じように生きていくことになる。
ね、結婚して、他の誰かと。お願い」
メロスは叫ぶ。「誰が走るというのか、このすべてが失われた虚しい荒野を。よし、走り続けてやろう。そして結ばれる二人にくれてやろう、俺の愛と友情を!」
メロスが犠牲的な決断をした瞬間、「心は孤独な」のイントロが流れる。クライマックスが近づく全体コーラスだ。
小松さんが後ろから現れて歌う。睨んでいるような悲しんでいるようなKIDのコーラス。これにいつも感動する。
今回横浜KIDは、本来歌われる「我らこの地にとどまらず」に替え「心は孤独なポアロ」の「心は孤独な」をここで使っている。
余談になるが、昭和57年、劇団ノニーの「街のメロス」でもここで「心は孤独な」を使っている経緯がある。ただの偶然でもないように思える。
ただ、「何ほどの富のために死ねるというのか君(メロス)。どれだけの希望を果たし死ねるというのか君(オサム)。どれほどの愛に出会い死ねるというのか君(純)。
与えられた舞台の上で君の役は何だ」という歌詞は、あくまで「街のメロス」の象徴であったため、ぜひとも歌ってほしかった。
「心は孤独な」のコーラスを聴いていて思う。メロスが行った人間の道から外れたような取り返しのつかない過ち。
そこまでして一人の人間を愛そうとする・・・それは純粋に、今まで友達さえも知らず生きてきた孤独な人間だからこそ・・・
そんな人間は世の中にはそういないだろうが、そこまでして一人の人間を愛せる人間も、果たして、いるだろうか。
一方、オサムと純のようにある程度貧しくても平凡に暮らそうとすること。これが我々観客の立場に近いとしたら、私はメロスのような愛し方ができるだろうか・・・
我々も実は孤独ではないのか?
そんなことを考えてるうちに、メロスが元女中頭のトミに告白するシーンだ。メロスは純に言われたとおり結婚しようとする。
「子供を生もう。僕たちも年老いていく。生まれ落ち、愛し合い、そしていつか死んでいく。僕たちは人生という名の舞台で精一杯生きていくしかないんだ。
いつか幕が下りる。どんなに悲しみに満ちた人生でも、歓びに満ちた人生でも、巻くが下りてしまえば跡形もなく消えていってしまうだろう。
だからこそ、僕たちは与えられた役を生きていくしかないんだ」
このセリフを合図に、メインコーラス「その蒼い手を」が流れる。
♪僕は君にこの蒼い手を差し出そう今 君は僕にその蒼い手をその蒼ざめた手を
手をつなげば幸せになるとは言わない 幸せがそんなにやさしいものとも言わない
ただ君は背負うべき荷物を投げ出してはいないか ただ君はどうでもいい人生を生きてはいないか
私がKIDの歌の中で1,2を争うほど大好きなメインコーラス。メロスの儚いセリフとともにジーンとくるではないか。
メロスの気持ちになればなるほど、優しい気持ちになれればなれるほど、この歌を聴いて涙が流れてくる。
「平凡な生活の中にこそ幸せはある」というシーンは、「失なわれた藍の色」の「次のページには」など、KIDの芝居の中にはたくさんあるが、
この「街のメロス」のラストシーンは特にせつない。
遊園地でアルバイトしているメロス。ゴミを拾っている。そこへ再度婚約をした純とオサムが現れる。最後のシーンだ。
小切手をメロスに渡そうとするオサム。しかしメロスは、
「僕は何も失っていない。むしろ感謝しているくらいです。あなたがたのおかげで、僕には生きるということの意味が少しだけわかるようになった」
と言い、オサムの小切手を受け入れようとしない。もつれ合う二人。メロスはオサムを殴り倒す。
「人はみんな傷つけ合いながら生きているんだ。俺にかまうな。みんながそれぞれの人生の糸を操りながら生きている。
さまざまな人生模様でこの世界を織り上げているんだ。だから自分の人生を必死になって生きていくしかないんだ」
去って行くメロス。メロスの最後のセリフであった。
純が凍るように立ちすくむ。「もしかしたら私をほんとうに愛してくれたのは、あの人かもしれない・・・・・・そして私も・・・」
ここで昭和54年当時の公演は幕が下りた。
しかし今回の横浜KIDの「街のメロス」は違った。
メロスを追いかける純。前に戻って、メロスはトミと婚約していなかった。なのでメロスは純と一緒になれたのだろう。
ショックを受けたオサムに、飯原さん演じる社長の熊田虎慈がなぐさめる。そこへ大財家の元執事の倉田が現れる。
メロスの代わりとばかりに倉田を罵る虎慈。倉田に近寄っていた虎慈の体がゆっくりと倒れる。倉田が刺したのだ。
倉田完治は、江利加の父であった。
と、このような終わり方だったのだが、ここで今回の横浜KIDのテーマを思い出す。「自分を犠牲にしてひとりの人間を愛(まも)れますか」
メロスの純に対する行為がこれに当たるのだが、倉田が江利加の父なら、もう一組当たることになる。
そしてこの完結編を見るなら、二組とも愛(まも)れた形になる。つまり、現代版「街のメロス」では、誓いは守られた。
54年当時の「街のメロス」では、メロスはトミと結婚する。つまり、メロスは愛の対象を変えることで誓いを守ることになる。
ただそこには哀しみが残った。純はメロスの愛に最後に気付くが結ばれず、メロスとトミも淋しい者同士が結ばれたにすぎない。
それだけにメロスの純に対する犠牲的な優しさにあまりにも感動してしまうのだ。そしてその分メインコーラス「その蒼い手を」が身に沁みて聴こえる。
横浜KID現代版では、自分を犠牲にして愛を貫くことで、家族愛の温かみがつながって見えてくる。つまり犠牲愛の悲しみを乗り越えて、家族愛につなげている。
昭和54年度版のほうは悲しみの余韻が残る。
KIDは、「青春のアンデルセン」もそうだったが、余韻だけ残し「どちらがよかったのか」を結論付けず終わってしまうパターンが多かった。
だからこそ、この完結、昔の時代と今の時代、違うようだが、
我々観客がメロスの立場になって自分の生き方に照らし合わせようとすることは、まったく変わらないのである。
(了)
YOKOHAMA KID BROTHERS
文責 イリちゃん(ENDLESS KIDBROS.)
横浜キッドブラザース
ENDLESS KIDBROS.
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