if もしも派遣となったら 〜日本に置いていく大切なもの〜 |
協力隊で派遣される2年間、基本的には日本に帰国することが出来ない。帰国出来るのは、「父母や妻子が亡くなった時」「本人が病気や怪我で、日本での治療・療養が必要と認められた時」「派遣国で内戦やクーデター等の緊急事態が発生し、危険と判断され国外退避命令が出た時」だけである。 また、原則として単身での派遣となるが、配偶者や子供がいる場合、一時呼び寄せ制度を利用することが出来る。その対象はあくまでも『配偶者及び子女』だ。 派遣先によって差はあるが、Eメールをやりとりしたり、国際電話ですぐに話すことが可能な地域もあれば、日本と簡単に連絡を取ることが出来ない地域も多い。 …協力隊に参加するということは、そういうことなのである…。 一次選考に合格した時には特別反対しなかった母親であるが、二次選考で登録となり、派遣されるチャンスがきたら行きたいと告げると、色々理屈をこねて反対し始めた。 「あんたに出来るわけがない」「もしも私達(両親)に何かあって、親の死に目にも会えなかったらどうするの?」「嫁にも行かないで…(これが1番こたえました・爆)」などなど…。時には泣かれ、時には怒り、時にはネチネチ…と毎日のように言われ続けると、結構のんびりでいい加減な性格の私も、ぶち切れそうになった。(爆) 母の言い分は十分わかっている。社会的には独立した大人とは言え、親から見たら立派な子供、心配する気持ちは理解できる。 日本とは生活環境も異なるし、治安や医療・衛生事情もはるかに悪い開発途上国に派遣されるのだ。もしも病気になったら…?事件・事故に巻き込まれたら…?日本ではそれほど大きな問題にならないようなことが、向こうでは命に関わる可能性は十分ある。(これまでに、派遣中に病気や事故で亡くなられた隊員は55名を越える。あるホームページによれば、協力隊員約300人に1人の割合で亡くなっているとか…。また、事件に巻き込まれるケースは日常茶飯事のようにあるとのこと) また、小さい子供が大好きな母は、私が早く嫁に行って、孫を連れて帰ってくることを期待していた。けれど派遣となったら、さらに2年間、その夢がお預けになってしまう。 母の気持ちを考えれば自分がしていることは親不孝であると思ったが、2年間だけだし、帰ってきたらしっかり親孝行するから許して欲しいというのが本音だった。(「親孝行したいときに親はなし」という言葉を勿論知っていましたが…)母親の気持ちと自分の本音の間でで葛藤する日々が続き、一時期精神的に参ってしまった。 意外だったのは、父親の反応だった。 私は『お父さんっ子』で、父も特別可愛がってくれて育った。だから、もし派遣…となった時、1番反対するのは父親だと思っていた。 けれど、父は「やりたいのであれば頑張ってみなさい。その代わり、派遣される以上最後までやり通しなさい」と言って、それ以上何も言わなかった。 実は昔、父は私が看護師になることを反対していた。看護師は昔からきつい仕事と言われ、苦労するのは目に見えている。子供の頃から看護師になりたいと言っていた私に対し、そんな仕事に就くより、短大に行って就職して、適当にお茶汲み程度の仕事をした後嫁に行けばいい…と言っていた人である。しかし、反対を押し切って高校の衛生看護科に進学した時から何も言わなくなってしまった。 勿論、父も色々思っていたことはあっただろう。けれど、黙って私の好きなようにさせてくれた。父の強さ・懐の大きさに感謝し、敬意を払うと共に、父の言った言葉が協力隊に参加することの責任の重さに感じられて、ズシリと胸に響いた。 2004年3月で、我が家に来て12年になった愛犬テツのことも気がかりであった。 人間の年齢に換算すれば60歳を越えてしまったが、まだまだ元気で、散歩に行こうと声をかけると大喜びして私の周りを跳びはね回るし、散歩中は私を引きずる勢いでグイグイ引っ張る。食欲もあるし、去勢しなかったので、近所の女の子達が発情期を迎えると、匂いチェック&マーキングに一段と熱が入る。毎日、頭を低くした前傾姿勢から前脚でバンバンと地面を叩いて私を遊びに誘い、プロレスをしかけ、時には激しい頭突きをくらわせ、私は思わず「テツ〜!(怒)」と言う…。 このまま病気をしなければ、15歳、16歳…長生きするだろう。私が2年間海外にいっている間も、なんとか頑張ってくれるだろう。けれど、それでも『絶対、大丈夫』という保証はどこにもない。年齢が年齢だけに、ある日突然病気に襲われる可能性は否定できない。でも、派遣中にテツが病気になったからといって帰国することは出来ない。 実は、以前飼っていたムクは10歳で亡くなったが、私はその最後を看取ることが出来なかった。ムクが亡くなった当時、私は看護学校の寮に入っており、また突然の死であったため、父だけがムクの最後を見届けた。そして、私が大切な看護師国家試験を控えていたため、気遣った両親が試験が終わるまで全てを伏せていて、私がムクの死を知ったのは1ヵ月もたってからだった。その時の悲しさや淋しさ、両親の気持ちを思いだすと、今でも涙が出てしまう。そして、テツを我が家に連れ帰った時、“テツは最後まで一緒にいて、全てを見届ける”と誓ったはずなのに…。それなのに、私はまた同じ過ちを繰り返そうとするのだろうか? また、テツは私がいなくなることに対してどのように感じるのだろう? これまでにも、旅行等で家を空けることはよくあり、最長で半月ほど不在だったことがある。旅行等から帰ってくると、テツは「ウォォォ〜〜ン!」となんとも切なげな雄叫びで出迎え、激しく体をこすりつけて甘えてきた。それが、私がテツに愛情を抱くように、テツも私に対して愛情と信頼を持ってくれていると信じている。 それなのに、私の個人的都合で、ある日突然、私のいない生活が始まってしまう…。勿論、私がいない間は、私の両親がテツの面倒を見てくれる。「もう1人のバカ息子」と言いながらも、我が子のように愛情を注いでくれる両親に任せることの不安はないが、テツは私がいないことにどう思うだろう?犬と人間、一緒に暮らすことに意味があるのではないか…? 色々考えると胸がズキズキ痛み、これまた飼い主としての愛情・責任感と自分の夢の間で葛藤する日々が続いた。 さらに、私は協力隊受験を志す以前からお付き合いしている人がいて、お互いに色々事情があってすぐに…という訳にはいかなかったが、そう遠くない将来には結婚をという約束をしていた。 しかし、私はその人…Mに、登録になるまで協力隊のことは一切話していなかったのだ。(大爆)早い時期に話さなきゃ…と思ってはいたが、Mの仕事が危機を迎えていたり、彼の父親が脳梗塞で倒れ、その後も色々病気を併発して闘病生活が長期化したり…と色々あって、話を切り出せないままでいた。 Mは私にとっては大切な人だったし、彼も私を大切に思ってくれた。けれど、私の中で協力隊に対する想いが大きくなり過ぎ、夢を抑えきれなくなっていた。しかし、派遣されることになったら黙って行く訳にはいかない。 登録になって1ヶ月過ぎたある日、ようやく私はMにこれまでの経過を話し、今まで黙っていたことを謝った上で、「もし派遣のチャンスがきたら行きたい。自分勝手なワガママを言っているのは承知だけど、2年間待っていて欲しい」と訴えた。 …しばし呆然として黙り込んでいたMがようやく口を開き、呆れたように「“待って欲しい”って、そりゃ普通は男が言う台詞だろ?」と言った。(思わず納得…でも逆があってもいいよねぇ?)そして、「すぐには返事できない」と顔をこわばらせてしまった。 それからは長くなるので省略するが、何度も話し合いを重ね、結局「2年間待つから頑張っておいで」と言ってくれた。 「俺も自分の仕事に夢と誇りがあるし、そのことでは譲れない部分もある。それとお前の夢が同じと考えたら、協力隊への参加が決まったら止められない」…それが、彼の出した結論である。そして、もう一言。「お前、あっちで永住するなんて言い出すなよ〜」(笑) そんなこんなで、協力隊という夢を選ぶか、自分の周りの大切な存在を選ぶかでずっと葛藤を続けたが、結局、協力隊の選考試験に合格し、派遣が決まった時に、夢を選択することにした。 協力隊に参加すると、2年間日本を離れる。その間の時間の流れは、日本でも海外でも平等であるはずだが、感じ方は随分違うだろう。 夢を貫くということは、時にはワガママであるということも実感しているし、心配や迷惑をかけることもあるのは承知である。それでも、協力隊に参加するというチャンスはめったに得られるものではないし、その体験によって自分の人間としての幅が広がり、これからの人生で役に立つことがあるだろう。 勿論、夢を選んだからと言って、他の大切な存在をないがしろにする訳ではない。私の心の中では、協力隊も、両親・テツ・Mも、みんな同じである。同じように大切で、かけがえのない存在である。 遠く離れていても、自分に出来る方法・形で、自分の想いを伝え続けたいと思っている。 …でも、派遣中の2年間、Mが浮気して待っていてくれなくても、“あぁ、この人とは縁がなかったのね”とあきらめがつくが、テツが私のことを忘れてしまったらショックで、悲しくて立ち直れないかもしれない。…なんてことは言わないけど(* ̄m ̄*) |