KUCHIPUDI とは何か?
及びクチプディダンスの成立過程について


クチプディ・ダンスとは、
南東インドのアーンドラ・プラデッシュ州にあるクチプディ村を発祥の地とするインド古典舞踊です。
※お急ぎの方はコチラをお読みください。

本題であるお話をする前に
まずは知っておいていただきたい大事な事柄があります。
今日、インドおよび日本をはじめとした諸外国でインド古典舞踊として踊られている
ダンス(バラタナティアム、クチプディ、オディッシーなど)それぞれの起源は
いずれも数百〜数千年以上前のはるか昔にさかのぼるといわれます。
ところが、インドがイギリスの統治下にあった二十世紀初頭以前、
各地で古来から受け継がれてきた舞踊スタイルのほとんどすべてが
いったんは構造的に解体されてしまいました。
現在私たちの見ることのできるインド古典舞踊は、この6,70年の間に、偉大なる愛と献身をもった
学者や芸術愛好家の人々、あるいはダンサーたち自身の努力によって復興されたものなのです。

伝統的な古典舞踊の多くは、もともとヒンドゥー寺院の中で神のために
捧げるというストイックで崇高な役目を担っていました。
それがやがて、神への踊りの繁栄のためには、世俗的な世界の支配者たる王族たちのパトロン
(経済的庇護)がどうしても欠かせないという世情に移行していったのです。
そこで、寺院に対するドネーション(寄付金集め)のため、ダンサーが寺院から出て
王族たちの屋敷の中で踊る状況が生まれました。
さらには、あとでお話しするクチプディ・ダンスのオリジネーターともいえそうな
中世インドのダンサー集団“バガヴァッタ・メーラース”は寺院や王宮から町や村に飛び出し
南インド各地を巡りつつ、王族はもとより一般的な庶民をも魅了する
わかりやすい内容のダンスドラマを公演してまわりました。

神への捧げもの、特権階級たる王族に見せるための踊り、
そして市井の人々にも受け入れられたダンスドラマ。
多様な歴史的展開を見せたインド古典舞踊のあり方に、何か共通点があったのでしょうか?

そこには大事な共通点があったのです。
それは、踊りを通して神と人間の交流を求めたということです。
舞台芸術のひとつの形式として、見事に成立しているとされる現代のインド古典舞踊も、
その精神的ルーツはすべてそうした神との交流にあります。

寺院で行われる儀式からスポットライトのあたるホールへと、演じる場所は移ったかもしれません。
ダンサーも、限られたごく少数の人たちからより一般的な人々へと、その幅が大きく広がりました。
しかし、連綿と続く神と人間との交流の本質は少しも変わってはいません。

インドの人々は、ステージのダンサーの演じる大いなる者に自らの信仰心を投影します。
ダンサーは大いなるものの輝きに敬服するがゆえに自らを神に重ねます。
そこには、神への讃歌があります。
私たちは、ダンスを通じ神の世界を目の当たりにすることで、その神性に触れるのです。

くどいようですが、これが一度は壊滅状態に追いやられながらも、その後不死鳥のように
よみがえったインド古典舞踊の、今でも変わらない真髄だと思っています。
・・・・・というか、本来あるべき姿であると固く信じつつ、私は踊らさせていただいているのです。

さて、大事なことを申し上げたところで、そろそろ本題のクチプディダンスについてお話ししますね。

くりかえしますが、インド古典舞踊の源流の多くはヒンドゥー教の寺院に由来します。
たとえばタミル地方では、デバーダシー(アンドラではこの語は使用されませんでしたが)と呼ばれる
寺院お抱えのダンサーが、宗教儀式のひとつとして寺院に祀られた神々に踊りを奉納していました。
デバーダシー・システムとそれを司る寺院は、藩主や土地の王族に代表されるロイヤルパトロン
の援助を得て豊かに栄えてゆきました。その全盛期は10C〜14C頃といわれています。
もちろんクチプディ発祥の地であるアンドラ州も、そうした点で例外ではありませんでした。

こうしたヒンドゥー寺院に根ざした古典舞踊の成立とともに、
もうひとつ、特にクチプディ・ダンスだけに認められる特徴的な起源として、
6C頃に南インドで出現したといわれる、ヒンドゥー教の“BHAKTI MOVEMENT”
(バクティー・ムーブメント)の影響が挙げられます。
神の偉大なる輝きを追い求め、歌い踊りながら神への愛を表現し巡礼する、
そうしたバクティー・ムーブメントならではの信仰的活動をアクティブに実践した集団
それがのちに、“BHAGAVATA MELAS”(バガヴァッタ・メーラース)とよばれる人々でした。
彼らは独自の芸術的表現を駆使しつつ、神へ献身的な愛を説きながら、旅芸人一座のごとく
アンドラ地方一帯を旅してまわっていました。

バガヴァッタ・メーラースは、唯一ブラーミン(今は形式上なくなったことになっている
インド・カーストの最上階級)の男性のみで構成されていました。
また、彼らが神への愛を人々に説くため各地で上演した宗教芸術は、いわゆるダンスドラマ
(それぞれが配役を決め、衣装をつけ、せりふをいうことに加え、歌いそしてダンスもする。
現代におけるミュージカルのようなもの)でした。
ドラマの主題は主にビシュヌ神(もしくはその変化神)にまつわる神話から用いられていました。
男性のみで構成されるこの集団は、日本の歌舞伎のように女性の役も男性がこなす
(男性が女性の衣装を着けメイクをして、声色を使う)ことにも大きな特徴がありました。

1502年、当時アンドラ州を統治していた王の前でバガヴァッタ・メーラースがパフォームした
ということが、歴史上もっとも古い記述として史料に残っています。

バガヴァッタ・メーラースの活動とその歴史的役割を、インド古典舞踊のひとつとして
現代に息づくクチプディ・ダンスの成立に結びつける時、
“シッデンドラ・ヨギ”(POET SAINT、クチプディ・ダンスの祖といわれる詩人にして大聖人)
の存在を忘れてはなりません。
ヨギが、バガヴァッタ・メーラスのパフォームする“BHAMA KALAPAM”
(クリシュナ神とその愛する人バーマについての物語。クチプディ・ダンスを代表する演目
として現代にも名高い)を書いたことが、二十世紀以降のクチプディ・ダンス興隆につながる
明確なる原点となっているのです。

ヨギの率いる一座(バガヴァッタ・メーラース)はダンスドラマを上演しつつ、アンドラ各地の
村々を旅して回っていましたが、特に“KUCHELAPURAM”(現在のクチプディ・ビレッジの古名)
という村の人たちが、彼らの宗教的公演活動を熱烈に支持し、大いに援助してくれました。

この地でヨギは幾人ものブラーミンの少年たちにダンス、音楽理論、信仰上のトレーニング、
そして今でもクチプディ・ダンスに必須ともいえるテルグ語やサンスクリット語の
深い知識をマスターさせ、多くのアーティストを育てました。

そうしたアーティストたちが行うパフォーマンスは大いなる成功を収め、この土地では定期的に
宗教的な祭りの一部として、ダンスドラマを開催することになりました。

1678年当時、アンドラ州を統治していたゴルコンダ(今のハイデラバード近郊)の王である
アブル・ハッサン・タニシャがKUCHELAPURAMのブラーミンによるバーマカラパムを見て
いたく感激し、この地の定住権を彼らバガヴァッタ・メーラースに寄与しました。

後年、村の名前KUCHELAPURAMはKUCHIPUDIとなり、
その地で誕生したダンスも、土地の名をとってクチプディダンスとなりました。

 
 
トップページにバックする