A LABORATORY OF THEATER PLAY CRIMSON KINGDOM

人造天女 公演記録

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人造天女−チラシ−表 人造天女−チラシ−裏


第四召喚式 『人造天女』

【時】2000年9月27日〜10月3日

【所】 ウッディーシアター中目黒

【スタッフ】
 作・演出…野中友博/音楽…寺田英一/美術・装置…亜飛夢/照明…中川隆一/宣伝美術…河合明彦/舞台監督・小道具…松木淳三郎/銃器協力…萩谷正人/制作…島田雄峰

【出演】
 富良野勝利…中川こう/富良野ありさ…北島佐和子/愛宕絵里…広瀬奈々子/森田弥生…野上文/逸見蔵人…末次浩一/兼田翔子…恩田眞美/虎瀬主税…松本淳一/虎瀬麻子…田中幹子/藤野五月…園部貴一/服部百合子(人造天女リリス)…鰍沢ゆき/土師美琴(人造天女エヴァ)…沢村小春

【概略・備考】
 医学博士、富良野兼舟の死をきっかけに富良野家に集まる探偵、遺伝学者の一家等の前に、謎の研究を続ける、兼舟の遺児、富良野勝利とその患者が現れ、やがて明らかになる、旧日本軍の人造兵士の研究と、勝利、その人の正体……前作、『不死病』の世界観を引き継ぎ、生命と家族をテーマとしたホラーシリーズ第二弾。紅王国としては最もエンターテイメント色の強い一作である。
 上演台本は岸田国士戯曲賞の候補となった。

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【パンレット文】
神の魂の在処
ロボットを扱ったSFとしては、今や古典となってしまった『私はロボット』の作者アシモフは、これまた人造人間ものの最古典、シュリー夫人の『フランケンシュタイン』を評してこう言っている。「魂を持たず、知性だけを与えられた存在を造り出した創造主が破滅するのはあたりまえだ」と……

古典的なSFの中では、ロボットや人造人間は、長らく魂を持たない者として描かれてきた。我々のように、ジャパニメーションの隆盛と共に成長した世代にとって、ロボットや人造人間は、ヒトと同じ苦悩や感情を生きる存在である事が当たり前だ。西欧の作家の言う『魂』は、神から与えられた物であり、その信仰を実感できない我々には理解しにくいが、『ブレード・ランナー』のレプリカント以降、人造人間は、より人間的でヒトに近い者となった。魂の在処が神の手を離れた事は、近代社会での神の死と無関係ではあるまい。

今回の、横文字タイトルにしている『DEUS EX MACHINA』という言葉は、直訳すれば「機械仕掛けの神」という事になるが、ギリシア悲劇の終盤などで、唐突に登場して強引な解決をしてしまう神様のようなキャラクターを意味する演劇用語だ。神というのは、ある意味で無謬の存在であるから、演劇やその他の物語に限らず、ある種の絶対権威として便利な発明である。それが戦争であろうと、教育であろうと、人間は根元的な対峙を放棄した時に神の権威を振りかざす。つまりは、全ての神々は『DEUS EX MACHINA』である。

純粋な科学的な好奇心や野心から誕生したのでなければ、人造人間やロボット達は、何らかの使命、目的によって生み出される。それが世界の平和を守る為だろうと、子守の為だろうと、その運命に選択肢はない。それは奴隷の一生だ。人造人間が人に近づけば近づくほど、家名の為や、立身出世というような、ある種の期待によって育てられる人間が、奴隷としてのロボットとダブって見えて来るのである。

          ※

今回は、稽古中に90ページ程あった台本を全て破棄し、新たな台本を書き起こすという離れ業をやった。対応してくれた俳優、スタッフ達に感謝する。

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【劇評・その他】

 歴史と芝居という事では、紅王国が上演した新作「人造天女」(作・演出/野中友博)も、全く無関係という訳ではない。潰えさった大日本帝国の野望の残滓の物語とでもいうべき枠付けがあるからである。盟友ドイツの選民政策から逃れてくる人々の亡命の仲立ちをするプロセスのどこかで、生命創造の秘法を記した古文書が持ち込まれ、それが遺伝学を中心とするアカデミックな研究所での秘密のプロジェクトとなる。その背後には、皇室、軍部、財界のパイプとなる華族の主宰する歌会があり、このプロジェクトは皇室の藩屏である軍部の、死なない兵士すなわち鉄人を作る計画として秘密裏に進行していた。こうした事実が計画の生き残りですべてを闇に葬ろうとしている元教授、密かに研究を続けている若い研究者、不完全ながらそれと知らずに生活している人造人間、戦前の秩序の回復を願う右翼、そして何も知らずに巻き込まれてしまう私立探偵などが、交錯する中で明らかにされていくという筋立てである。時折見られる、ナチを扱ったB級映画などと似通った印象のあるSF仕立ての物語だが、作者はそこに純粋な科学者の精神のありようと、人造人間は結局奴隷として何らかの形で権力支配の道具として機能するという対立のありようを託しているらしい。が、正直言って、そうしたテーマをアナロジカルに読み取るには、わたしのような世代には無理がある。
 ただ、パフォーマンスとしては、無彩色を主調にした殆ど装置なしの暗い舞台で、推理仕立ての物語がよどみなく展開していく面白さはある。どこか、妙に生真面目な所のあるエンターテインメントとでも言うべき舞台だった。わたしのSF嫌いという好みは、はっきりしているので、こう書くことが肯定的なのか否定的なのかは読者の判断に任せる他はない。
みなもとごろう

『テアトロ』2000年12月号劇評より抜粋

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【舞台写真館】

勝利とリリス・エヴァ

別棟にて……絵里・逸見・虎瀬親子再起動するありさ

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