LABORATORY OF THEATER PLAY CRIMSON KINGDOM

水神抄 公演記録

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水神抄−チラシ−表 水神抄−チラシ−裏


第伍召喚式 『水神抄』

【時】2001年6月21日〜24日

【所】中野・劇場MOMO


【スタッフ】
 作・演出…野中友博/音楽…寺田英一/美術・舞台監督…松木淳三郎/照明…中川隆一/音響…葛城啓史/宣伝美術…河合明彦/舞監協力…根岸利彦・萩谷正人/制作…在倉恭子・小川和志・島田雄峰

【出演】
 沈む男(ウシヲ)…中川こう/長女(ヱン)…雛涼子(岸田理生カンパニー)/次女(ルヰ)…深山朝音/末娘(ミヲ)…沢村小春/女将(ヨドミ)…北島佐和子/親方(ナガレ)…佐藤リョースケ(劇団1980)/師匠(シズム)…松本淳一/最後の女(リン)…鰍沢ゆき

【概略・備考】
 何処とも知れぬ『部屋』で、延々と何かを待ち続けている男女と、『館』の管理者である蛟の三姉妹の奇妙な関係。やがてそこは、沼の底にある生と死の狭間である事が判り、互いを殺し合ったと疑う男女が対峙して……劇画的傾斜しつつある劇団スタイルの内省の為に、あえて物語の解体と、歴史的背景の削除を試みた実験的な作品。劇団としても、小川和志としてクレジットされている中川こうがチーフ・プロデューサを務め、他劇団からの客演を招くなど、実験的性格が強かった。
 観客の反応は、予想通りの賛否両論となった。シアターガイドの月刊ベストテンの台本部門に入った他、中川こうと鰍沢ゆきもベストテンにランクインしている。

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【パンフレット文】
無い無い尽くし
無い。
今回は……無い。
天皇制は、無い。歴史考察も無い。謎解きドラマも無い。銃撃戦も無く、殺陣も、無い。他にも、色々と、いつもの定番が、無い。ただ、人、が居る。そして
 ……そして、人の想い、が、居るのだ。

蛟=ミズチとは、角のない竜、のようなモノである。ミズチとは、手足のある蛇、のようなモノである……そこそこ、色々な定義があったりするのだが、竜とミズチの=蛟の区別は、物の本を読んでも判然としない。しかし、竜が天空と大海原の司であるのに対し、蛟は池や沼や河川のような、閉ざされた淡水系の司であると、化け物じみた文献のマニアなら、何となく解っている……或いは区別している。そういう事が好きな人にとっては、泉鏡花の『夜叉ヶ池』や『多神教』に登場する龍神は、竜、ではなくむしろ蛟であると感じる……筈である。鏡花が、前出作で描いた龍神、ナントカ姫のような存在達を、私は今回、ミ・ヅ・チ、と読んで、一つの物語を構築した。

だが、そんな定義はどうでも良い話なのだ。ただ、人は、己自らの『存在』という物に対峙し、『死』と対峙する。そして、初めて生を……命を認識する事ができる。

他に言うべき事は、無い。

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【劇評・その他】
 野中友博=作演出、紅王国公演『水神抄』は、舞台となる場所や時制が常識的な空間ではない。床や柱の使い込まれた艶が、存在感を主張しており、日本の田舎の秘境にある宿屋といった趣ではあるけれど、どうもそれだけではないらしい。
 ここで、男の「客」二人が賭け事に熱中している。一方の男が負け続け、勝ち続けている方がもうやめようと言いだしても、負け続けの男は引き下がらない。このやりとりがエンドレスで続き、芝居の方向を観客がつかみかねていると、やがて正面の障子が急速に左右に引かれ、うちかけの裾を引く女性たち3人が登場する。
 急速に左右に引かれる障子ないしフスマの演出は、野中芝居のリズムを形作るものである。
 ひな祭りの三人官女のような彼女たちは「真実の女神」とでもいったものに仕えており、この宿屋に滞在する者へ、あることを伝達するためにやってくるのだ。ここは「澱み」と呼ばれ、幽冥の境、現実と夢の境、天上と地上、地表と湖底の境目らしい。
 この「澱み」に汐(中川こう)がやってくるが、彼にはかつて女を裏切ったことがあり、その女、淋(鰍沢ゆき)が官女たちに導かれて現れ、彼を湖底へ、すなわち「絶対の世界」へ誘う。逡巡する汐……。
 この男女の愛の物語はギリシャ神話『オルフェオとエウリディーチェ』→コクトー『オルフェ』を経由しているかもしれない。死の世界と生の世界、絶対と相対、その境にコクトーは鏡を置き、野中友博は湖の水鏡を置いたのではあるまいか。
 淋は霊魂か精霊か。ラスト、彼女はまっすぐ顔を上げ、脇目をふらず客席へ、つまり湖底へ歩を進める。
 汐はといえば……。現代のオルフェオは意気地がないのである!
浦崎浩實


『テアトロ』2001年9月号劇評より抜粋

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【舞台写真館】
汐と淋師匠と親方の背後で鎌首を振る蛟の三姉妹
コロシテ……邂逅……そして別れ……

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