LABORATORY OF THEATER PLAY CRIMSON KINGDOM

御蚕様 公演記録

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御蚕様−チラシ−表 御蚕様−チラシ−裏

第六召喚式 『御蚕様(オシラサマ)

【時】2002年2月20日〜26日

【所】中野・劇場MOMO

【スタッフ】
作・演出…野中友博/音楽…寺田英一/美術…松木淳三郎/照明…中川隆一/音響…葛城啓史/音響操作…山口睦央/宣伝美術…河合明彦/舞台監督…根岸利彦/制作…在倉恭子

【出演】
 氷室正平…中川こう/氷室日向子…畠山里美/氷室美雪…円谷奈々子(劇団前方公演墳)/金満寛至…末次浩一/御嶽千種…恩田眞美/永邑瑞穂…鰍沢ゆき/氷室暁悦…小林達雄(岸田理生カンパニー)/氷室雪代…北島佐和子

【概略・備考】
 昭和七年、氷室家二十三代目当主、氷室源一郎の葬儀の場面から。氷室家には源一郎の妾腹の子、千種や、他界した長女・小雪の夫・寛至らが集まり、没落した氷室家と、オシラサマを祀る巫女の謂われが語られ、やがて明らかになる淀んだ血の軛……作者得意の旧家物の集大成的な作品で、物語性と様式美のバランスに優れた舞台となった。「様式的な対話劇」という両立しにくい要素が融合した、紅王国、第二のピークを示す作品である。
 観客からは、フェミニズムの物語と受け取られ、女優陣のハイレベルな演技が好評であったが、劇評では男優陣が評価されている。
 なお、同タイトルで現代を舞台とした、姉妹編の台本も存在するが、こちらは未上演である。

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【パンフレット文】
『家』と『男』と『女』……その背後にあるモノ……
 『御蚕様』の舞台は、昭和七年の初頭……一度だけ明治三十九年の回想が入りますが……好景気が急激に傾き、何となく不安な世情と戦争の予感といった、何やらまさしく今の今を連想させる時代です。実は、この作品には裏版の台本がもう一つありまして、こちらの方は、全く今現在、二千二年二月という時期を舞台にしています。短期間に、同じテーマで戯曲を二本書いてしまった訳です。
 両方とも、オシラサマを継承している氷室家という『家』の家長の葬儀から始まり、家族制度と云うよりは、『家』という幻想について書いた物なのですが、時代を変えただけで、全く印象の異なる作品になりました。当たり前ですけど……ただ、近代国家の家族制度は男性原理によって作られているので、七十年前の男性達と、現代の『男』の考えている事が、殆ど変わらないのだという事を再認識した次第です。まさしく今現在では、日本的な男性原理は、一種のトリックスターとしてしか描けません。それが、時代を溯ると、一種の重々しさを獲得するのです。進歩していないという事なのでしょうね。
 そして、この物語には、現代のような自律性を持った女の人達が登場します。実際には、こんな人達は居なかったでしょうし、居たとしても、ごく僅かな異端の存在であったでしょう。したがって、この物語は時代を描写した物ではりません。現代に旧弊な価値観を持ち込むか、前時代に現代の視点を持ち込むかという事で、私は後者を選択した訳です。女優が俯瞰的な視点を持った物の怪を演じるというのが、紅王国の特徴では在りますが、これはまた、『女』を描いているというのとも違うのです。
 私の作品は、旧家の因習のような物を作品の背景に置く事が多いですが、今回は、ズバリ、それそのものが縦軸になっています。現在、それを復活させる事で、国家的な自尊心を回復しようとしている反動的価値観……その背景には家族制度があって、男性原理があり、その根幹には、やはり近代天皇制があるようです……と、いうような事もただの要素……
 今回、筆は軽やかでした。

 作品中に、『旧約聖書レビ記』と『教育勅語』の一部、西条八十作詞『東京行進曲』と北原白秋作詞『さすらいの唄』の歌詞の一部を台詞に引用しています。
 また、作中の台詞には、現在では差別語侮蔑語に類する言葉がいくつか使用されていますが、そうした意識を助長しようとするものではありません

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【劇評・その他】

 世界恐慌の影響さめやらぬ、昭和初期の東北地方。代々、オシラサマと呼ばれる神を祀ってきた氷室家で、当主源一郎の葬儀が催される。喪主であり、新たに当主となった正平は、既に病に冒されている。成功した実業家として氷室家の乗っ取りを画策してか、この葬儀に現れた正平の義弟・金満寛至は、降雪を予知する能力を持ちオシラサマを祀る資格を与えられた、巫女オユキサマなる役割に感応して氷室家に引き寄せられた女たちに翻弄される。やがて明らかになる、〈家〉の存続のために手段を選ばず、女たちを犠牲にしてきた氷室家の罪業の数々。正平の妻・日向子は、死を覚悟した正平と、日向子に惚れている寛至との間で、自分の存在が取引されるに至り、ついにオシラサマも何もかも、世の男どもが勝手に考え出したアホダラ経に過ぎないと悟り、敢然と氷室家を捨てて旅立つことを決意する。
 実に身も蓋もない言い方をすれば、横溝正史の金田一耕助シリーズに、イプセンの『人形の家』をかけあわせたようなお話である。「演劇実験室」を名乗るだけあって、舞台は緻密に構成され、演技にも緊張感があって悪くない。果たしてこの時代に、女性が〈家〉から離脱して自立することが、客観的にはどの程度可能なことなのか、という疑問が浮かばないではないし、それ以前に、近代天皇制の実質を「男性優位の支配原理」と解釈するのは、本当に妥当なのかという疑問もある。しかし、そうしたうるさいことを言わず、実験色豊かなエンタテインメントとして楽しめば、それなりに楽しめる舞台であった。特に、男優陣に説得力があるという印象をもった。
大岡 淳

『テアトロ』2002年5月号劇評より抜粋

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【舞台写真館】
氷室源一郎の葬儀
再会の寛至と日向子
千種と瑞穂
二十四代目襲名
『雪の声』を聞く千種と深雪
雪代と暁悦……回想……
ひふみよいむなやことのたり……
オユキサマの召喚
瑞穂の旅立ち

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