LABORATORY OF THEATER PLAY CRIMSON KINGDOM

女郎花 公演記録

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女郎花−チラシ−表女郎花−チラシ−裏


第七召喚式 『女郎花』〜昭和大赦(蛹化記・改)〜

【時】2002年9月11日〜17日

【所】下北沢・『劇』小劇場


【スタッフ】
作・演出…野中友博/音楽…寺田英一/美術…松木淳三郎/照明…中川隆一/宣伝美術…河合明彦/舞台監督…根岸利彦/演出協力…玉川錦之輔/音響…葛城啓史/音響操作…山口睦央/制作・在倉恭子

【出演】
遊女紫苑…鰍沢ゆき/遊女睡蓮…恩田眞美/遊女鈴蘭…佐藤由美子/遊女芙蓉…沢村小春/内所龍胆…北島佐和子/遊女臘梅・撫子…雛涼子(岸田理生カンパニー)/歩き巫女芍薬…円谷奈々子(劇団前方公演墳)/遊女紫陽花…塚原麻美(SAG)/蜉蝣…高橋健二(兵庫県立ピッコロ劇団)/蜻蜒…野口聖員(劇団フライングステージ)/蜻蛉…中川こう/飛蝗…阿野伸八/竈馬…鈴木淳(TBワンスモア)

【概略・備考】
 深紅の折り紙で折り鶴を作り続ける遊女がいる。折り鶴は、その遊女とある男の再会の日の約束。折り鶴は一日に一羽が折られ、つまり千羽鶴が完成したその日に、遊女は男と再会を果たす筈であった。しかし、男は現れず、一日一羽の鶴は、いつしか一万一千百十一羽に、そして更に更に増え続けて……野中友博の実質的な処女作『蛹化記』をベースに改訂された作品。紅王国の全作で最も様式美に拘った作品となった。昭和史と昭和天皇の存在を底流とするテーマは、多くの観客に強烈な印象を残した。
 極めて評価の分かれた作品だが、紅王国最高作との声もある。

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【チラシ文】

『女郎花』は、もう二十年程前に書いた、『蛹化記』という作品をベースにしている。千日後の再会の約束の日に向かって折られていく千羽鶴が、千一日目から更に増殖を続け、遊女は自分の想い出の微睡みに、蛹のように溶けていく……そんな物語で、引き裂かれる恋人達の間に横たわる障壁として、私は神の国から人の国へと変遷する昭和という時代、そのものを置いた。十代から二十代にかけて、私は取り憑かれたように、廓を舞台とした遊女の物語を書き続けていた。

在学中の、いわば習作であった作品『蛹化記』は、一九八九年、昭和天皇の崩御を契機に改訂されて上演された。終幕を昭和六四年一月七日午前六時三十三分。その時へと置き換えて……以来、私は紅王国の出発点となった『化蝶譚』まで、劇作の筆を折る事になった。

演劇実験室∴紅王国の作品は、その殆どが戦前戦後の昭和を舞台としており、そこには少なからず天皇制が影を落としている。その本質との対決は、再び『蛹化記』に対峙する以外、あり得ないと思っていた。しかし、我々の世代にとってすら、昭和の終焉も、もはや追憶と忘却の彼方の出来事なのだ。私は愕然とした……

遊女の物語を書かなくなって久しい……国旗や国歌に関する法案、個人情報や表現に関わる法案が浮かれ騒いでいるうちに通過し、そして、一国の宰相が「神の国」と自国を語る、そんな、今、という時に、私は紅王国の仲間達と共に、昭和という時代、その象徴と対峙したいと思う。その時代の事実と記憶を身の内に抱え込んだ遊女達と再会を果たそうと思う。

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【バンフレット文】
蝗の軍隊
 大量発生したイナゴが大群を作って飛びながら移動し、農作物に深刻な被害を与える事は勿論、草原や森林を裸にしてしまうという現象がある事は皆さんも御存知ではないかと思います。イナゴの大群についての記述は聖書にもありますが、現在ではアフリカ大陸の農業国などでは、深刻な問題の一つです。十数年前には、我が国でも、とある無人島でイナゴの大発生のニュースがあった事を憶えています。
 これらの大群を作るイナゴは、突然現れる新種ではなく、ごく普通のバッタが、ある条件を得ると、群れをなして飛行するように体質変化を起こす事によって発生します。狭い地域に大量のバッタが集まると、恐らくは餌不足の解消の為に、跳ねる事よりは長時間の飛行に適した体に変質する訳です。アフリカでは、雨期後に大量に孵化したサバクトビバッタがイナゴの群れとなりますが、日本では、トノサマバッタがイナゴの群れになる可能性を持っているようです。学術的には、単独で跳ねているバッタを「孤独相」、イナゴの大群となって飛ぶバッタを「群生相」と呼んで区別しています。

 昆虫学者の矢島稔氏は、この群生相の発生からファシズムを連想したと著作の中で書いておられますが、第二次大戦中の日本軍をイナゴの軍隊、『蝗軍』と呼んだ国もあったようです。当時の日本軍は皇軍を自称していましたが、「蝗のように国土を蹂躙した軍隊」という意味合いを込めて、虫偏を付けて、コウグンと呼んだのだそうです。おそらく、そのような事は、殆どの日本人が認識していない事でしょう。
 同じ種類のバッタが、条件次第で、平和主義者の孤独相にも、ファシスト軍隊の群生相にも変わりうるという事には、ある種の教訓を感じないではいられません。アジア諸国が日本政府の有事法制や靖国参拝という問題に神経を尖らせるのは、以前、私達の国が、国ぐるみで蝗の軍団に変質したという記憶を留めているからなのだと思います。

 チラシやその他のインフォに書かれている事ですが、この作品のベースは、十八歳の時に書いた戯曲『蛹化記』です。私もこの公演が終了して暫くすると四十になりますので、作品のスタートは二十年以上前に遡ります。作家が何らかのイメージを得てから、その成果としての作品が読者や観客の皆さんに伝わる迄には、何年という単位での時間が経過する事が珍しくありません。しかし、それにしても、二十年も前の作品となると、殆ど他人の作品も同然です。自分の初期作品の、あまりにアナーキーでぶっ飛んだ構成には、一種の驚きを感じずにはいられませんでした。ここのところ、一幕物のスタイルに力点を置いてきた事もあり、それは紅王国を見続けて下さっているお客様にも同様のとまどいを感じさせるかも知れません。

 もう一つ、これも告知済みの事ではありますが、『女郎花』のテーマの一つは昭和史とその擬人化としての昭和天皇です。この作品に関する取材を幾つか受けた中で、「何故、今、昭和天皇なのか?」という質問は必ず投げかけられました。
 私は天皇制という物は、諸々のタブーや美意識のような物を含めて、極めて呪術的な概念であると思っています。紅王国の作品は昭和の初期や終戦直後といった時期を物語の舞台として選ぶ事が多いですが、そうした過去と現在をつなぐタブーや精神性の根っこに向かっていくと、どうしても「天皇制と日本人」という問題を避けて通る事が出来ないのです。そして、現在も時折吹き出る『神の国』発言のような精神性の根っこは、現在の皇室にではなく、帝國憲法下の神聖不可侵の近代天皇制の中にあり、その時代への評価が、崩御とともに済し崩しにされてしまった昭和の終わりに想いをはせざるを得ないのです。
 今回、私達は、あえて過去の作品と対峙する事で、過去と向き合う事の困難さという物を体験しました。回顧や懐古、或いは回帰ではなく、過去と向き合う事は確かに困難ですが、それを抜きにしては、今の事もこれからの事も見失ってしまうでしょう。おそらく、そのように過去を振り返る事は、退行ではないと信じますし、人の集団をイナゴの群れに変えない歯止めの一歩ではあろうと思います。

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【劇評等】

 『女郎花』の作者、野中友博も、少し年少の鐘下辰男同様、若いがこの間の戦争と、8月15日前後にこだわり、結構よく調べて、この忘れられようとしているわたしたちの近過去を再現、それを現代を未来へとつなぐモチーフにしようとしている。
 若書きの習作をベースにしたというこの新作でも戦前から戦後、つまり昭和という時代が扱われ、そこに見られる変わらぬ日本人の同質化ムードが槍玉に上げられ、その根幹に天皇制が糾弾されているのは事新しくはないが、やはり重要な指摘であろう。が、その場合、同質化云々が蝗化というメタファーで表されたり、人物や状況の設定が一風変わっていて、それがこの話をフレッシュにしていることに注目したい。荒削りながら、左と右、それに中間の男たちのからみに加え、バックに女郎たちをさまざまに登場させて、彼女らとのかかわりを一見見せ物風だが、流れずに対象化していたのはよかったし、時代の進展の模様を、あえて社会風俗の紋切型の言葉を二人の女郎に列記させているやり方も悪くなかった。
 こうして全員、作者の演出のもと、小劇場空間にちょっとジュネ流の異様な雰囲気をつくり出していたのを多としたいが、もっと幻想と現実の混沌がシャープに収斂されていると、反面教師的な喚起力はぐんと増しただろう。
渡辺 淳

『テアトロ』2002年11月号劇評より抜粋

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【舞台写真館】
人生双六籠の鳥の見る夢
誰が殺した赤い鳥貴方を待っていますよ
昭和が駆ける……来たのか、夜明けが……
だから行かせてくれ……初めましてと、貴方に会いたい……

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