A LABORATORY OF THEATER PLAY CRIMSON KINGDOM

化蝶譚 − 公演記録


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化蝶譚−チラシ−表 化蝶譚−チラシ−裏


第壱召喚式『化蝶譚』

【時】 1998年6月10日〜17日

【所】 ウッディーシアター中目黒

【スタッフ】
 作・演出…野中友博/音楽…寺田英一/美術…東野元昭/共同美術・装置…伊達一成/照明…中川隆一/宣伝美術…河合明彦/振付…花柳司紗緒/衣裳…在倉恭子/舞台監督…葛城啓史/制作…島田雄峰

【出演】
 久遠…中川こう/浅葱…広瀬奈々子/露木…山崎英正/葛城…久米暁/翠…鰍沢ゆき/近衛…松本淳一/東条…末次浩一/生…園部貴一/智恵…小松エミ(演劇集団円)/揚羽…北島佐和子/紋白…恩田眞美/化蝶…沢村小春・今村恭子
【概略・備考】
 亡命の途上にある三人の無政府主義者と、それを追う二人の特高刑事、道ならぬ恋に悩む新聞記者とその妹が、それぞれに樹海に迷い込む。樹海の深奥には、揚羽、紋白と名乗る姉妹の住む館があり、国家の弾圧によって解散した宗教団体、更には遥か以前の隠れ切支丹の影がちらつく……
 オウム真理教事件を元に、自由意志を蝶の化身の姿に託し、世間と常識という巨大なる神と対比させた野心作。現代画家・東野元昭の巨大な作品を異界の扉に見立てた美術が高い評価を受けた。
 1998年、第九回テアトロ新人戯曲賞受賞作品。

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【パンフレット文】
凍 る 世 界
隠れたロングセラーの一つに『分裂病の少女の手記』という本がある。今は亡き精神病理学者セシュエー女史が、自ら提唱した『象徴的実現』という精神療法と、同題の著作に対する裏付けとして出版された物で、臨床例となったルネという少女の手記と、セシュエー女史の注釈が納められているのだが、本編である『象徴的実現』の和訳が出版される以前から、幾度も版を重ねていた。当然、若い時にこの本にはまったという人は多く、私も中高生の時分には何度も読み返したものである。特に印象深い記述は、入院して間もないルネが、「ここはひどく寒いところです」という言葉で、内面の孤独感や寂寥感を訴える手紙を友人達に書き、文字通りに受け取った友人達が防寒具を送って来たという部分である。

三十路も半ばを過ぎて「新人賞」というものを頂いたおかげで、色々な方々が、拙作について有り難いお言葉や有り難くないお言葉、的を得たお言葉や的外れなお言葉を下さるようになった。作品以外の言の葉で、それらの評価に対して反論したりする事は、本来してはしてはならない事だとは思うが、今後、不毛な議論を避ける意味で、創作者としての私の立場は明確にしておきたい。

私は作品で歴史を再現しようとはしていない。時代やその世界について、意図的にぼかした書き方をしているのに、「かくかくしかじかの記述があるから、これは何年頃の噺だろう」という類推を元に、史的事実との違いを論う等という事は徒労である。そもそも、史的事実というものを金科玉条とすれば、『水戸黄門』や『必殺仕事人』、果てはNHKの大河ドラマすら成立しなくなってしまう。「無政府主義者がソ連に亡命しようとする事などあり得ない」等という事は、百も承知で書いている。物語を紡ぐ事と、歴史を記述する事は、全く別の行為である。

また、私が権力側にある人物に対して、近衛や東条という役名を付け、一種、戯画化した表現をした事に対して、「当時そんな事を言えた人間はいない」とか、「言えたらあんな戦争は起こらなかった」と仰有る方々に、作品とは関係ないが一言云っておきたい。逆説的に云えば、私のような若輩者が、そのように言い続ければ「あんな戦争」は起こらないという事になるが、世界も歴史もそんな甘っちょろいものでは無い。実際、そのような達観した言い方で歴史を語る人達は、日の丸や君が代を強制したり、新しい教科書を作れば、ココロの教育とかいう事が出来たり、愛国心が育まれる等と信じている馬鹿よりも遥かに始末が悪いと私は考えている。達観や諦観が大人の態度だ等と思っている年長者に、選挙に行かない若者を批判する資格など無い。

時代は感覚的になっている。小室ファミリーに代表される邦楽ポップスや、若い世代の小劇場シーンが前向き志向に塗りつぶされている現状と、神戸事件や若年層の刃物沙汰の頻発は、実は表裏一体の関係にある。それは東西両陣営の対立や、昭和天皇の崩御によって、済し崩しに再評価されなくなってしまった昭和史など、対立するパラダイムの喪失、パラダイム・シフトへの絶望感と無関係ではない。

樹海に迷う事、その動機が、居心地の悪さや、家や世間が寒いと云うのでは薄弱だとか哲学的でないという云われ方をしたが、人間心理には明文化できない衝動など、幾らでもある。それはたかだか何行か、何頁かの台詞で語り尽くせるようなちんけな物ではない。感覚という物は、痛い、痒いといった生理感覚に近い。痒いところを痒いと云うのに、哲学も人生観もない。

思春期の衝動には、明文化できない怒りや不快感が常に伴っていた。若い時、それらの感覚を「イヤだ」とか「キライだ」、「サムい」と表現すれば、甘えているだの、理屈になっていないだのという大人の言の葉で封じられてしまうのが常である。言葉に出来なければ、ムカついたりキレたりするしか無いのだが、達観した大人の方々には、そうした事も解らないのであろう。あとは、ひたすら「頑張って!」と繰り返す歌を聴きながら、精々我慢しながら前向きに生き、夕日に向かって走るぐらいの事しか出来なくなってしまうのだ。そんなことをしていれば、世界の状況は取り返しのつかないほどに悪くなってしまうに決まっている。

そして世界は凍る。その背後には、やはり『世間様』という顔のない神が居る。私は「世間一般常識教」にも、「演劇は斯様にあらねばならない教」にも、もううんざりしている。夕日に向かって走っていたら、いつの間にか凍っていたというのはまっぴらだ。だから「否」と云う自由、「寒い」と云う自由だけは欲しいのである。

最後に一言。私がオタクであるかどうか等という下らない議論を、全国誌の誌面を使って行うという馬鹿げた事はやめて下さい。私は自分で自分の事をオタクだと思っていますし、オタクというのはある程度の知性と記憶力が無いとなれない存在なので、まあ誉められたと思っておきますが、こんな議論は貴重な紙資源の無駄以外の何ものでもないと思います。
1998.6.6  野中友博

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『顔の無い神』の名前

昔から、いつでも何処でも居心地が悪かった。何に関わっても息の詰まる想いがした。自分の居場所なんか何処にもないという、絶望的な気分を、幾度と無く味わった。そして僕は、そんな時、いつも『顔の無い神』の重圧を感じていた。僕は、去年、演劇の世界に復帰した。遠ざかっていたのは、やはり居心地が悪かったのだろうと思う。

もう一度芝居を書いて行こうと思った時、自分のテーマは『神』とか『宗教』というものになるだろうという事を、漠然と感じていた。昨年上演した『ヘルゲランの勇者達』というイプセンの芝居の脚色を準備していた頃、地下鉄で件の事件が起こり、世界の息苦しさは絶えきれない程の物になった。

『ヘルゲラン』はゲルマンの古い宗教と、キリスト教の間で葛藤する、千年前の異国の人々の物語だった。僕は「悉く滅びよ、全ての神々!」という台詞を加え、それが「痛快な宗教批判だった」というお褒めの言葉を、とある方から頂いたりした。それはそれで良い。しかし……僕の上にのしかかっているのは、もっと別の得体の知れない、あの『顔の無い神』である。

僕はもう、開き直って、この『顔の無い神』と戦うしかないだろうと覚悟を決めた。『真・化蝶譚』という芝居は、この神に向かって投げる手袋のような物である。その神の名は『世間様』という。
1996,5,22 野中友博


(P−BOX96年公演『真・化蝶譚』パンフレットより)
※演劇実験室∴紅王国の『化蝶譚』は、P-BOX公演『真・化蝶譚』の改訂再演版にあたる為、初演時のパンフ文を併録しました。

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【劇評・その他】 

 演劇実験室∴紅王国の旗揚げ公演『化蝶譚』(野中友博作・演出、ウッディーシアター中目黒)。本年のテアトロ新人戯曲賞受賞作の舞台化である。
 舞台は昭和十五、六年ごろのどこか北陸地方の樹海。ここに官憲に追われてロシアへ亡命しようとするアナキストの男女三人と、暴露新聞の記者とその妹が迷い込み、蝶の化身である美しい姉妹の館に救われる、という幻想譚である。記者の久遠(中川こう)には、かつて新聞紙上で火本教団(大本教をモデルにしている)について記事を書き、その結果、治安維持法で教団が解散に追い込まれる因をつくったという前歴がある。そして化蝶の姉妹は、その火本教と関係があることが匂わされる。
 アナキストのリーダー・露木(山崎英正)の裏切りによって彼らの隠れ里も特高の知るところとなり、やがて館も崩壊し、蝶も飛び去っていく、という話。久遠と妹・浅葱(広瀬奈々子)の秘められた恋など脇筋もあって既視感にとらわれる舞台だが、秋本松代や泉鏡花というより、感覚的には久瀬光彦の世界に近い。
 俳優達は特高刑事(松本淳一・末次浩一)をふくめて力があって技量がそろっていた。 いずれにせよ、筆力は保証されている作家なので、「幻想」の力がより大きくはばたく事を今後に期待したい。
七字英輔

『テアトロ』1998年8月号、劇評より抜粋。

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【舞台写真館】
化蝶に導かれ樹海を彷徨う
露木と翠

浅葱と久遠

化蝶の乱舞

転生する化蝶

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