文売奴隷

紅王こと野中友博が、雑誌、他劇団のパンフやチラシなどに寄稿した雑文集です。新しい物から並んでいます。
紅王国の公演パンフ、チラシ等の文書が読みたい方は、公演記録のページからお入り下さい。

→紅王の部屋へ戻る   →紅王国HPtopへ戻る


月より遠くからのウイルス

〜極私的テラヤマニアの追想〜

 寺山修司が逝って二十年になる。一九七九年、十六歳で初めて天井桟敷の寺山演劇に出会った少年だった私も、今年はもう四十一歳になる。天井桟敷の演劇に出会った衝撃は、未だに昨日の事のように思い出されるが、月の彼方から放たれたその波動に触れてからの人生の方がとうに長い物になってしまった。そして、私は、これから寺山修司のいない世界をより長く生きようとしているが、この先も私の体内でレトロウイルスのように潜伏し、増殖をし続けるであろう月の彼方よりの遺伝子……寺山修司という巨人の波動を振り返ろうと思う。そして、生前の寺山修司の波動を直に浴びた最後の世代の一人として、これから何をなすべきなのか考えたいと思う。

 自分自身にとって最も重要な寺山修司の作品を一作あげよ、と云われれば、それは『レミング』であると答えると思う。
 好きな作品という問いであれば、『奴婢訓』や『身毒丸』と答えるかも知れないし、演劇史的な重要度であれば『邪宗門』や『人力飛行機ソロモン』、『観客席』といった作品を挙げるかも知れない。ただ、私という個人にとって、最も大きな影響を及ぼした作品を振り返れば、それは一九七九年に上演された『レミング』であったと云わざるを得ないのである。それは、天井桟敷と寺山修司の『演劇』に対する、私の最初の体験でもあった。

 私にとって、寺山修司と天井桟敷の体験は、未知の劇団に対して巡らせる想像力の演劇として始まった。
 『レミング』を観るちょうど一年程前、新宿のライヒ館モレノで上演された哥以劇場の『捨子物語』(作・岸田理生/演出・樋口隆之)によって私の小劇場体験は始まった。当時の云い方に従えば、小劇場体験というよりはアングラ演劇体験であろう。私は十五歳の高校一年生だった。それまで、俳優座や四季の上演する新劇、中でもシェイクスピア劇のような古典劇ばかりを好んで観てきた少年にとって、岸田理生の世界は強烈この上なく、演劇という物に対する認識を根底から揺さぶる物だった。新劇少年は一夜にしてアングラ少年に転向した。私は海外の古典劇や近代劇より、小さな劇場で上演される日本の現代劇にむしろ関心を抱くようになり、別役実、唐十郎といった作家の戯曲集を読みあさった。そうした中で、パルコ・ドラマフェスティバルという物も観て、野田秀樹や竹内銃一郎という当時にしてはニューウエーヴであった人達の作品にも早くから振れる事になった。
 だが、そんな日々の中で、私は天井桟敷の東京公演を観られる日を、指折り数えながら待っていたのだ。それは、ある程度の小劇場体験を経ながらも、最も自分の感性にシンクロした……或いは衝撃的であった岸田理生という作家への関心がずば抜けており、その岸田理生の師匠である、寺山修司という巨人に対する妄想の拡大という物があったかも知れない。私は、戯曲集『奴婢訓』や『青森県のせむし男』を読みながら、また『身毒丸』の実況録音レコードを聴きながら、また古書店で買い集めた演劇論集を読みながら、寺山修司と天井桟敷に対する妄想を膨らませ、実際にその劇場の危険な観客席に身を置く日を待ち続けたのである。
 そして七十九年の春、ついに夢にまで見た日を迎える事になった。それが晴美の見本市会場で上演された『レミング〜世界の涯まで連れてって』だったのである。

 ところで、私の本棚には『レミング』の五種類の台本がある。古い物から並べると、最初に雑誌『新劇』七十九年六月号に収録され、上演に先駆けて公開された未完成台本、次に天井桟敷の発行していた演劇理論誌『地下演劇』十四号に採録された完全台本、そして紀伊國屋ホールで再演された際にロビー販売された『レミング 82年改訂版◎壁抜け男◎』の上演台本、それから劇書房の『寺山修司戯曲集3−幻想劇篇−』と思潮社の『寺山修司の戯曲』第五巻にそれぞれ収録された戯曲の五種類である。また、思潮社版戯曲集の第九巻には、『レミング』初演版台本と紀伊國屋ホールでの再演版台本の異動、相違点などが記されているが、基本的に発売された五種類の台本は、それぞれ全く同じ物は無い。
 『新劇』に掲載された未完成台本の冒頭に記されたノートの中で、寺山修司は「天井桟敷創立以来、上演にさきだって台本を発表したのは、今回が初めてである」と記しているが、同時にこれを「稽古過程での台本」とも云い、「はじめに場面別の状況を設定し、俳優の即興をもとにデスカッションして作り上げていく集団創造の課程が、ここでは半ば省略されている。すなわち、まだ結論の出ていない場面がいくつか残されているのである」とも記している。実際に、後半の三シーン程には、例えば「それはさながら壁のない地図の上に見捨てられた棄民たちのユートピアである」というようなメモ書き、或いはイメージの羅列が書かれているのみで、所謂、台詞とト書きによって構成される戯曲の体裁をなしていない。私は初の天井桟敷体験となる筈の『レミング』の観劇にさきだって、この未完成台本を読んだ事で、更なる妄想を巨大化させる事になったのである。
 普通、妄想は裏切られる運命にある。膨らみすぎた期待の先は、無惨な現実に繋がっているという事を、我々は経験的に学んでいる。しかし、寺山修司と天井桟敷の体験は、私の妄想を遙かに超えていた。その日以来、『レミング』は、寺山作品という枠に収まらず、私にとって、個人的に最も重要な『演劇』の舞台となった。

 そして、戯曲を書くと云う事……劇作の道に足を突っ込みはじめていた私にとって、『新劇』に掲載されていた『レミング』の未完成台本は、ある意味、私の劇作の手引き書となったのだという事を告白しておかなければならない。劇作の方法論を考えるのなら、抽象的なイメージや概念を箱書きやプロットに書きつづっていく事は、むしろ邪道に属する事であろう。しかも、寺山修司という魔法使いならぬ言葉使いの影響を受けた少年の綴る言葉は、抽象と幻想の間を漂う思弁のような殴り書きの羅列となった。その後、私は大学の演劇科で、所謂新劇の方法論を学び、近代俳優術の方法論に基づく台本読解の方法から、遡及的に劇作の術を構築してきた。新劇的なアプローチと寺山修司的な想像力の間には、決して渡る事の出来ない大河のような流れがあって、反発し合うS極とN極のような関係にある。私自身の個人的劇作の歴史は、断絶した二つの方法論の間での葛藤だった。ある意味、私は新劇的な近代演劇の側にも、寺山修司の演劇を突破した想像力の影響、そのどちらにも居心地良く身を置く事が出来ず、今日のこの日までやって来たように思っている。それは、寺山の死によって、「寺山修司その人に師事する」という機会が永久に失われた為に、寺山修司という恒星からの光を直接浴びる事が無かったという事によるのかも知れない。私は、寺山修司という個人にに対しては、最初から最後まで観客として以上の関わりを持たなかった。
 だが、寺山修司と天井桟敷の方法論は、他のどの演劇よりも『観客』に対して挑発的だったが故に、ただの観客であった私にも、ただの観客で終わる事を許さなかった。寺山演劇は寺山修司の書く演劇論、観客論の段階から既に始まっていたのだ。私は、寺山の演劇論はそれ自体が巨大なるフィクションの一部であり、『寺山修司』という巨大な劇の一部なのだったのだ思っている。
 そして巨大なる演劇としての『寺山修司』の上演は、もはや生前の寺山を知らない世代による寺山戯曲の上演という形で継続しているが、そこには寺山を演出する演出家としての寺山修司がいないという巨大なる不在、或いは巨大な空洞がある。それは術者の死後も継続している魔法であると同時に、演劇界に寺山という呪術的ウイルスが潜伏し続けており、その病から癒えていないのだという一面も否定出来ないだろう。

 正直云って、私は毎年のように再生産されている寺山戯曲の上演には殆ど関心を持っていない。むしろ、意図的に観る事を避けている。それは観客に終始したテラヤマニアである私の、リアルタイムの天井桟敷の記憶を守ろうとする行為であるかも知れないが、時代を反映した言葉を多用した寺山演劇の現代に於ける再生産は、まるで「反抗を調教された若者達」の品評会のようであり、寺山修司の無惨な残骸であると映る。勿論、生前の寺山を知らない世代の抱く妄想も、実際の観劇体験以前に、妄想の中の演劇として寺山を体験していた時期の自分と何ら変わる事は無いのかも知れないとは思う。だが、寺山を再現し続けても、寺山の継承も、寺山の超克も果たせないだろう。継承すべきは寺山の作品や言葉ではなく、その演劇を突破する想像力と、状況に反抗する精神だけで良い。平田オリザは「都市に祝祭はいらない」と云ったが、寺山というウイルスに冒されるのではなく、我らテラヤマニア自身が、都市に潜伏する呪力という名のウイルスになれば良いのだ。
 寺山の言葉で、寺山の反抗を再現するのではなく、自分の言葉で自分の反抗と突破を目指す事……それがおそらく、月の彼方よりの遺伝子を継承する唯一の方法だと私は信じている。
 二〇〇一年の本誌九月号で、私は「時代は、やっと寺山修司に追いついた」と書いた。寺山修司の死から二十年……もはや我々のなすべき事は、寺山修司の再評価ではなく、寺山修司を克服する事だ。おそらく、その事によってのみ、演劇は寺山修司の遺伝子を生かし続ける事が出来る筈なのである。そして、それは、我々以降の世代、直接寺山修司に師事する事の無かった世代の特権的使命であろうと思う。



 本稿執筆前に、岸田理生氏の訃報を聞いた。周知の通り、岸田理生氏は寺山修司の戯曲の共同執筆者である。また、本文中に記したように、寺山修司の演劇に接する前に岸田理生の戯曲と演劇に心酔していた私にとって、寺山修司と岸田理生は、不可分な心の師であり、憧れであり、超克すべき目標でもあった。お二人存在がなければ、今日まで演劇を続ける事も劇作の道を志す事もなかった。今は共に「月より遠い場所」におられる寺山さんと岸田さんの御冥福を祈りたい。

二〇〇三/七/十五
演劇実験室∴紅王国 野中友博
テアトロ 2003年9月号特集【寺山修司没後二〇年】

想像できるか?

 反戦運動その物と、反戦的な要素を含む劇を書いたり上演したりする事は、全く別な事だと思っている。私は『イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会』の活動には、中心部にはいないまでも、かなり積極的に関わっている口である訳なのだが、その動機として前記した事がある事は確かだ。
 私は自分の劇団のこの秋の新作を、シベリア出兵をモチーフにして書く事を決めたが、イラク戦争の年に何故シベリア出兵の芝居をするのかが万人に理解されるとは思っていないし、それを書く事が戦争の抑止力になるとも思っていない。だが、書かずにいられない事も確かなのだし、書いた事、書く事を嘘にしない為の行動には加わると云うだけだ。
 そして、その行動にしろ、演劇活動にしろ、この理不尽なイラク戦争を支持した我々の政府と、その政府を支持し続ける我々日本人自身に向かっていく筈だと思う。演劇に出来る事はせいぜいその程度だが、しかるがゆえに「演劇は非戦の力」だと断言したって良いと思っている。我々はいつまでこの大量殺人に沈黙し続けるのか……? その想像力を失えば、我々は演劇どころではなくなってしまうのだし、そんな奴と一緒に演劇を続けるつもりもない。ジョン・レノンが云った如く、「想像しろ」と言い続けるしか無いのだと思う。
テアトロ 2003年6月号特集【戦争と演劇人】 緊急エッセイ 劇界25人による《イラク戦争について思う事》

→ページトップへ戻る


乞食家業

 同調圧力という言葉に初めて接したのは、「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った少年の事件で、神戸市須磨区を取材した某ライターの文章を読んだ時でした。簡単に言えば、「世間並みに」とか、「普通に」とかいう概念に個人をはめ込もうとする不特定多数のプレッシャーという事になるのでしょう。こうした同調圧力は、ことこの国に於いては、ありとあらゆる人間集団に、多かれ少なかれ存在しているように思えます。演劇の世界でもそれは例外ではなく、古い歴史と多数の劇団員を抱える老舗の劇団になればなるほど強固であり、独自であり、尚かつ意味不明の「常識」があったりするように思います。
 それでも、そんな劇団に所属する演劇人も、一般社会の目から見ればマイノリティーに過ぎず、一般常識からかけ離れた遊び人でしか無くなってしまいます。演劇という行為に携わる事は、一般常識に照らせば道楽であり、巨大なる浪費です。
 私は演劇が世界を救えるとか、戦争や、飢えや、テロリズム、或いはぐっと身近なところで云えば、不況や、家庭崩壊や少年犯罪を解決したり、抑止したりする力がある等と自惚れてはいません。そのような事を公言する演劇人は、欺瞞に満ちた確信犯的な詐欺師か、救いようのないお馬鹿さんだと思っています。
 おそらく、作家が何らかの想いを物語や作中人物の言の葉に託したり、その仮構された世界で俳優達が虚構に遊ぶという事は、単にそのような事を語りたい、演じたいという以上の意味も、以下の意味もないのです。その道のりを歩く事は、乞食家業を恥じない……という事なのだと思います。
 『螢火抄』という作品は、そのような覚悟を決める事で書けた作品だと思います。今回は、私も一観客として、そんな覚悟を決めた十五年前の自分と再会したいと思っています。
2002/8/16 (ワークス・プロデュース公演『螢火抄』公演パンフレット)

→ページトップへ戻る


 九年程前、私も内科病棟への入院を体験した。不安や恐怖と同時に、何やらウキウキした気分を感じてもいた。人生をリセットしたい、という漠然とした欲求が隠れていたのだと思う。規則的な食事と、午後九時の消灯。そして周りの殆どは高齢者……ハチャメチャな生活をしていた人間が、そんな環境に叩き込まれれば、嫌でも人生を考え直す事になるだろう。何しろ、読書と考え事の時間だけは、有り余っているのだ。
 ネット上に掲載された丸尾さんの入院日誌は、「新しい発見の報告」という趣があった。何も論評せず、ただ、その発見を綴る……嬉々としてノートパソコンに向かっている丸尾さんの姿が脳裏に浮かび、私は「やられたな……」と思ったのである。そこには、既に『作品』として結実するであろうモノの胎動が感じられたのだ。
 思えば、丸尾さんも私も、「病院のベッドにいる事が日常」という段階に至る前、その体験を発見として咀嚼できるという時期に娑婆に帰って来たのだ。それを疎かには出来ないだろう。我々の想像力と創造力が試される時がやって来た。
 私は、入院を機に、リタイアしていた演劇の世界に復帰した。丸尾さんも、きっと何かをやる筈だ。寝たきりにならない人生を驀進する小林翁もついている。これが面白くない筈は無い、と断言してしまおう。
2002/5/16 (「世の中と演劇するオフィスプロジェクトM」公演『Life Cycle』チラシ)

→ページトップへ戻る


直筆の力

 今更「手書きかワープロか」という議論をするのは時代遅れであろうと思うのですが、昨年の秋、思いがけず、その事を再考せざるを得ない状況に陥りました。
 私は通常、所謂「ワープロ・カナ派」という部類に属する執筆方法を選択していたのですが、左腕を骨折した為に、十六年ぶりに手書きで作品を書くという事を体験したのです。片手でタイピングが出来ない訳ではありませんが、運指は自転車の運転同様に、体が覚えている習慣なので、両手が使えないと、著しく集中力を削がれてしまいます。結局、万年筆を用いて、原稿用紙に書くという方法が、最も能率的で快適な執筆環境だったのです。それが、思いもかけない新鮮な体験となりました。ここ数年、せめて初稿だけは手書きにしようかと考えていた事と、〆切が間近であった事に背中を押されて、久々の手書きの執筆したのです。
 それは、思っていた以上に快適な創作でした。予想以上に漢字を忘れてはいたのですが、兎に角、スイスイと物を書ける自分に驚きました。同時に、私の直筆原稿のコピーを、自劇団の日常稽古に用いた際、俳優にある種の変化があったのです。それは、直筆の文字から受ける、作家の筆圧とでもいうような物が、俳優の発する台詞や演技に変化をもたらしたという事です。つまり、直筆原稿とは、書かれた文字に加えられた、作家の力みや思い入れが、右脳に作用するような、一種のアナログでビィジュアル的な素材として、俳優の佇まいを左右する事を知ったのです。これは、作家というよりも、演出家として思うところ大であったかもしれません。
 そのような体験の後で、骨折も癒え始め、リハビリ旁々ワープロ執筆に戻ろうとしたら、今度はPCが壊れてしまいました。新機種に買い換え、ワープロソフトも最新バージョンに更新したら、これもまた、執筆環境を快適で楽しい物に変えました。いつの日か、書き手の筆圧で、フォントや飾り文字が自動的に設定されるソフトが出るかも知れませんが、今は上手く直筆とワープロを使い分けたいと思っています。

 と、云う訳で、こんな経験の中で執筆した演劇実験室∴紅王国の公演『御蚕様』が、二月二十日から中野は劇場MOMOで上演されます。詳細は http://kurenai98.hoops.livedoor.com に……って、すっかり電脳中年に戻ってしまいましたね。
2002/1/16  (日本劇作家協会会報『ト書き』30号)

→ページトップへ戻る


遠い国のお噺

 これは、遠い遠い昔に、遠い遠いどこかの国で起こったかもしれない物語です。その国は、生きた神様である王様を中心にした神の国です。何だか、どこかの国に似ています。

 どんな国でも人殺しは悪い事です。でも、どんな国でも、法律で犯罪者を死刑にしたり、戦争で戦っている国の兵隊や普通の人を殺したりします。この人殺しは、悪い事ではない……という事になっています。お国と言う物は、やってはいけない人殺しと、やっても良い人殺しを決めて、誰かに人殺しをさせます。つまり、お国が「人殺しをしてはいけません」と言うのは、命が大切だからという理由とは、何の関係もないのです。そして、どんな人殺しでも、人の命を奪う事は一緒です。
 「命は大切だから人殺しのたくさん出てくる映画やテレビを子供達に見せるのはやめましょう」と言う偉い人達と、「世界の平和のために戦争のお手伝いをしましょう」と言う偉い人達は、どういう訳か、同じ偉い人であったりします。偉い人というのは、やっぱりやってはいけない人殺しと、やっても良い人殺しがあって、自分達にはそれを決める事が出来ると思っているようですが、あまり文句を言う人は居ません。偉い人の言う通りにしていれば、自分で物を考えなくて済むので、とても楽なのだという事を、みんなが知っているからだと思います。そういう訳で、一番偉い人が神様であったりすると、とても都合が良いという事になります。誰も神様の責任は負えませんから……

 このお話の材料は、今から十四世紀ほど前に、「これが日本の国の正しい歴史です」と言って当時の政府が編纂した歴史の本から頂いていますが、その歴史の本の通りには物語は進みません。これは遠い遠い昔の、遠い遠い国の物語だからです。

 お芝居の台本という物を書き始めて、もう四半世紀近くになりますが、多分、今までで、一番沢山の……そして惨い人殺しの場面を書きました。それでも、正しい歴史の本に書いてある人殺しの惨さや、今、世界で起こっている人殺しの酷さには遠く及びませんでした。これが私達の知っている、ある国の、これからの物語とならない事を祈ります。
2001.9.30シアトリカル・ベース・ワンスモア公演『八岐大蛇』公演パンフレット

→ページトップへ戻る


月より遠い場所は何処〜もう、手紙は書かない

 本誌九十九年二月号に、私の寺山さん宛の手紙が載っている。「月より遠い場所への手紙」と題したそれは、私が故人に対して、誠意を持って書くことの出来る手紙としては全てなのではないかと思う。
 仮に、冥府とか霊界という物が実在し、寺山修司の霊が、今日の演劇状況を一望していたとしても、私に寺山さんの返書が返って来る訳ではないし、私は私なりに「月より遠い場所」を目指しているのだ。よしんば、何処ぞの教団の教祖様が「イイシラセ」に始まる自動書記で神がかってしまったように、寺山修司の霊が私という依童に降霊し、改訂版『奴婢訓』とか、結局書かれなかった『書物戦争』とかを書き始めてしまうというような事態が起こっても、私はそれを歓迎しない。寺山さんが「私の職業は寺山修司です」と言い切っていたように、私は私でありたい。私は私の演劇を全うしたいのであって、寺山修司になりたい訳ではないのだ。それに、なれる訳もない。生前の寺山さんと、その演劇から受けた衝撃は、私にとってあまりにも巨大すぎる。私が何かになれるとしたら、それは野中友博以外の何者でもない。
 そんな寺山さんに、一つだけ聞いておきたかった事がある。それは、「月より遠い場所」とは、本当は何処なのかという事である。
 月より遠い場所……それは、『青ひげ公の城』第十四場のタイトルであり、主人公である青ひげ第七の妻(を演じる筈だった少女)によって語られる場所の事だ。新書館の戯曲集にも、思潮社の全集にも「それは、劇場!」と書いてある。しかし、初演時に西武劇場(当時の名前です)で即売されていた上演台本には、「それは、劇!」と書いてあり、主演の山本百合子も、確かに「それは、劇!」と言っていた。
 そうだよ、この舞台は、美加里さんや高橋ひとみさんの初舞台で、今や四十代を目前にする私も、高校二年生だった。昔の事だが、忘れる訳は無い。月より遠い場所は『劇』なのだ。新書館の戯曲集『青ひげ公の城』が出版された時に、私は思ったのだ。どうして、劇、が劇場に書き換えられたのか、と。寺山さんは、何故……
 それを聞くことは出来ない。当時、台本を共同執筆していた岸田理生さんに聞けばいいという単純な事ではない。演劇論集『迷路と死海』にあるが如く、ハンスが劇の中に消えて行ったように、寺山さんも『劇』の中へ飛び去ったのだ。私はそのように信じ、その地平に向かって翔ぶのだ。そして、寺山さんの仕掛けた『劇』は未だに継続中だ。
 寺山さんの御存命中、私は氏の演劇論を読む為に、本誌『テアトロ』でも、『新劇』でも、『悲劇喜劇』でも無く(また、当時は『演劇ブック』も『シアター・ガイド』も無く)、『現代詩手帖』を購読していたのだ。氏の死の直前、私は桐朋演劇科に在学していたが、かろうじて新劇の殿堂であった母校で「寺山修司が好き」と言おうものなら、特に、私の同期の連中にとっては、即、批判と揶揄と嘲笑の対象だった。
 時代は、やっと寺山修司に追いついた。
 そして、世の中は寺山修司になりたい人達と、寺山修司のふりをしたい人達……寺山さんが諸処の演劇論や詩論『遊撃とその誇り』で記したように、再現が演劇を滅ぼす元凶であるなら、寺山修司の演劇をなぞり、再現し、風化する事に荷担する人々が巷に溢れている。以前、私は機会があれば『寺山修司を封印せよ』という文章を書きたいと切望していたが、今更、そんな事をしたいとも思っていない。彼らはやりたい事をやれば良い。私は、勝手に全盛期の寺山修司と天井桟敷を、私の記憶に封印する。そして、私は、私であり続ける事によって、私自身が「寺山修司への手紙」でありたいと望む。
 そして、それらの想いを寺山修司という人への手紙にするという文体を構築した途端、それは、寺山に溺れる一個の物語を構築してしまう事に他ならず、それは、寺山修司の牽いた『劇』という「月より遠い場所」への道程をなぞる事にしかならない。私は、私なりに月より遠い場所=劇という地平に到達したい。その場所が、寺山さんの行き着いた場所と、百万光年の距離があろうと構うものか。劇の速度は光よりも速いのだ。だから、もう、手紙は書かない。
 私は、私なりに、月より遠い場所は、劇場、では無く、劇……劇そのものであると信じて、翔ぶ。劇場は劇を地上に留める。そして、劇の在る処、そこは劇場となる。だから、今、そこに在る劇場にも拘ろう。
 それでも、寺山さんが「死ぬ前に歌舞伎を……」と言ったように、私も「『レミング』を……」と言う時が来るかも知れない。それは、多分、私が最後の敗北を認める時だ。私は、私として生ききる事で、寺山さんへの手紙になりたいのだ。
2001,7,13(『テアトロ』2001年9月号特集「演劇人への手紙」)

→ページトップへ戻る


怪異の真相

 私の作品に現れる化蝶、吸血鬼といった物の怪は、恐らく私が感じている世界への違和感が生み出した物です。そして、その違和感、恐怖という物は、物の怪それ自体ではなく、それら異形の存在を排除しようとする日常へと向かっています。
 これらの作品は、当然、怪異譚の形をとりますが、非日常的世界を表すための言葉は、必然的に非日常的な文体を要求します。
 こう言ってしまうと、何やら大仰な感じですが、私は日常ではあり得ない物語を、日常的でない言葉によって、その感覚を楽しみたい、と思っているのです。
 そして、非日常的な文体と物語は、俳優にも、やはり非日常的な肉体を強いる事になります。上演不可能という言い方もされる、そんな私の作品を受け止めてくれる紅王国の俳優達への信頼感が、私が作品を書く上での拠り所です。
『せりふの時代』2000年夏号特集「次代を担う「俊英劇作家60人の履歴書

→ページトップへ戻る


初日が初日である事

 公演の度毎に、「初日なのに良かったです」とかいう、誉められても少しも嬉しくない賛辞を頂く。つまり、演劇、或いは、小劇場を観る方々の多くは、初日の芝居は出来が悪いと考えているらしい。初日に初日を出すのが当たり前だと考える我々としては、演劇というジャンルそのものが舐められていると考えるしかない。
 しかし、新人、ベテランを問わず、「楽日までに何とかします」とか、「初日からどんどん良くなっている」とかいう俳優の言葉を、度々耳にする昨今、責任の大半は観る側ではなく、むしろ演る側にあるのだと考えるようになった。千秋楽に到る日々の公演で、連中は、金をとって稽古を見せる気なのだろうか? 演る側の意識がそのような物なら、観る側が「初日はコケる。楽まで待とう不如帰」と考えるのも無理はない。
 初日は初日に出る物だという至極当たり前の事が、演る側、観る側の双方にとって、当たり前の事であって欲しいと切に希望する。
『テアトロ』2000年2月号特集「21世紀への希望」

→ページトップへ戻る


想像しろ!!

想像してみな 国家という物は無いんだと
難しくはないから やってみてくれ
殺し合いだの 宗教なんて物もなく
ただ人々が 平和に今日を生きていると

君は僕を夢想家と呼ぶだろう
でもこう考えるのは僕一人じゃない
みんなが……そして君もそう思うことができるなら
僕らは……世界は一つになれるんだよ
30年程前に、こんな歌を唄った男がいた。彼は赤だとか危険人物だとか言われ、CIAからもマークされた。我が国の警察屋さんも堂々とできるようになった盗聴もされた……子供のために主夫をしていた彼は、10年後、ミュージシャンとして表舞台に帰ってきた矢先、凶弾に倒れた。犯人はCIAでも、国家主義の跳ねっ返りでもなく、「サインをしてくれなかった」と拗ねたストーカーだった。

過去の歴史を舞台とした物語は、その歴史の流れに、多かれ少なかれ拘束される。それが天下国家を語る噺となれば尚更の事だ。そこには悲劇的な結末が約束されている事も少なくない。

白土三平氏の『カムイ伝』は、徳川政権下での、身分差別の矛盾に抗う人々を描いている。徳川幕府の作り出した身分制度は、黒船の来航による明治政府の誕生まで、表向きにも決して変わる事が無く、その実態は、現在まで解決に到っていない。彼らの闘いは、決して勝利できない事が、あらかじめ運命付けられている。にも関わらず、理不尽な制度に抗う彼らの姿は読者の胸を打つ。そこに敗者の美学などは無い。あるのは、前向きに世界を変えようとする意志だ。

国家という物は理不尽な物だ……私はそう思っている。普段の私は、権力によって虐げられる人々の側に身を置く物語を紡いでいる。滅びに向かう王国とその王を描きながら、「彼の王国は、彼の優しさ故に滅ぶのだ」と思い至った時、私は慄然とした。恐らくは、王自身も予見していたであろう運命……そこにも王権という物の理不尽さがある。

王権を否定する王、血筋や名ではなく、意志を遺す王……その王の苦悩は、作者の産みの苦しみでもあった。人の意志が世界を変え得るのだと私は信じたい。だから、私はストーカーに撃たれた男の意志を、この物語に託す。

その男の名はジョン・レノン。
(シアトリカル・ベース・ワンスモア99.10公演『倭王伝』公演パンフレットより)

→ページトップへ戻る


解釈の自由

 国歌であるという法的な裏付けが、済し崩しになされた「君が代」ですが、その「君」の解釈を巡って、閣僚が幾つかの発言をしました。恋歌という事も含め、色々と言われるこの歌ですが、少なくとも「国民の総意に基づく象徴天皇」とかいう、ここ数十年の間に発明された概念を意図して作詞された物では無い、という事は、断言しても良かろうかと思います。
 作家が戯曲に託した事を、誤解したり、或いは演出として意図的に歪めた上演というのは、演劇の世界では良くある事です。しかし、憲法や法律の条文といった物が、文学のように解釈されてしまう日本語という言語は、なかなか厄介な物だという気もします。
 演劇が関係の表現である以上、最も重要な物は台詞そのものではなく、その行間にある何か、なのでしょう。憲法や国歌が御都合主義に解釈されるこの国にあって、言の葉の行間を伝える事は、至難の業です。その行間への想いを全うしようとすれば、不遜、傲慢、禁忌などと言われても、自作を演出するという事をどうにも止められないのです。
『せりふの時代』1999年秋号「演劇の日々」

→ページトップへ戻る


月より遠い場所への手紙

 月より遠い場所に行ってしまわれた寺山修司様。二十年程前に、人を介してサインを強請った、無礼な長髪の若者の事など、きっと覚えていらっしゃらないでしょう。
 その男は、貴方の舞台に触れて、「劇」という麻薬の虜になりました。しかし、蝸牛のように鈍い歩みしか出来ない彼は、その数年後、貴方に師事する機会を永久に失ってしまいました。貴方独特の字で「野中様 寺山修司」と書き込まれた戯曲集『奴婢訓』は、今も彼の宝物です。
 彼は今、不遜にも「演劇実験室」という枕詞をつけた徒党を組み、月より遠い場所を目差していますが、その歩みは相変わらず鈍い上に、あっちへフラフラ、こっちへヨロヨロと迷っています。二十年前のお詫びに参上するには、あと何十年かかかりそうですが、その時は改めて「初めまして」と御挨拶したいと申しております。どうかそれまで、お待ち頂きたいのです。
『テアトロ』1999年二月号特集「わたしが会いたいあの人この人」

→ページトップへ戻る


劇場のある風景

 三軒茶屋と下北沢の中間という半端な場所に、三十数年間住み続けている。十代の頃は、通学の為に、専ら下北の駅を使い、学校帰りには、用もないのに下北の街をうろついていた。あの頃の下北は、実に摩訶不思議な街だった。その思い出の風景に劇場は無い。
 劇場が建ち始めた頃から、何故か下北の街は大人の街から、若者の街、そしてついには子供の街へと変わり、皮肉な事に、僕は年々オジサンになって行く。自分の街が劇場街になったという実感が無いまま、下北沢は他人の街になり、いつしか、用が無ければ行きたくないような街になってしまった。
 時々、夢の中で昔の下北の街並みを歩いている事がある。何故か、その昔の風景の中に、今の劇場があり、僕の足は、多分、観るためにではなくその劇場に向いている。夢の中で、それは『我が街の劇場』なのだろう。近年、三軒茶屋にも劇場が出来たが、こっちの夢はまだ見ていない。
『テアトロ』1998年九月号特集「わたしの思い出の街」

→ページトップへ戻る


→紅王の部屋へ戻る   →紅王国HPtopへ戻る