どうしていつもいいようにされてしまうんだろう。
 薄暗い部屋の中、私は隣りに眠る男の背中に手を当てる。大きくて、暖かい背中、お父様とも違う、背中。
 いつもいつも、当主でも何でもないこの男の言いなりになってしまう。少し前までは確かに私がこの男を振り回していたのに。
 こんなのは愛じゃない。そんなの解ってる。けれど、私はこの男を誰にも渡したくない。誰にも。知美にも、沙也加ちゃんにも、例え、お母様にだって。
 私の気持ちを知っているのか、ただ勘がいいのか、この男はいつだって私の前に飄々として立つのだ。
 そして、私に従っている振りをしては、いつの間にか私のすぐ傍で煙草を吸って、何でもない顔をして私を抱くのだ。煙草を吸う度に怒っても、ただ笑って同じ事を繰り返す。 これがこの男の手口なのだ。
 そんな事、知ってる。
 この男が私を何とも思っていないのにも気付いている。私が前当主の娘でしかない事も知っている。
 当主になったら私以外の女の所へ通うのだろう。いつものように、何でもない顔をして、私を上手く丸め込めたと、私から離れていくのだろう。
 そんなの、知ってる。
 本にだって書いてある物語、ただそれが私にとって現実なだけ。誰もが考えたことのあるシナリオが、自分の物語になるだけ。
 だから悔しくなんかない。
 私はこの男を愛してなんかいないのだから。それが物語とは違うところなのだから。私は物語の主人公なんかじゃない。
 私は私の意志でここにいて、夏が終わればこの男を帰らせる。この男だって帰りたいと言っている。だからきっと帰る。
 そうしたら、私はもとの生活に戻るのだ。 いつものように身体を清め、巫女を務める。 生活は変わらない。ただこの男がいなくなるだけ。
 この男が、今、私の横で眠るこの男が一瞬にして私の前から姿を消す、それだけのこと。 隣りで眠る人がいなくなるだけのこと。
 煙草を吸う人がいなくなるだけ。
 勝手なことをする人がいなくなるだけ。
 喧嘩できる人が、いなくなるだけ。
 そして、私の生活は安定するのだ。この男と引き替えに、以前の生活が戻ってくるのだ。 私はそれを望んでいた。
 少しだけこの山を離れたいと願いながら、この山でしか生きていけないような気がしていた、日常はあと一ヶ月もしないで戻ってくるのだ。
 この山じゃなくても生きていける。
 男はそう言った。私が山に縛られたがっているのだと、私の心も構わずに、ずかずかと言いたいことを言う。
 山を離れたいと、諦めかけていた私の心を揺さぶり、自分の考えだけを押しつけて、私に何にも言わせないのだ。
 山を下りて、電車に乗れば、男の住む東京にだって出れる。ここは世界の一部なのだし。けれど、ただ山を下りるのと、ここから離れるのでは違うのだ。
 ここから離れれば、私は倉木鈴菜ではなく、単なる鈴菜になってしまう。私を知る人はいなくて、独りになってしまうのだ。  
 私はそれが怖い。
 今まで倉木の庇護を受けてきたと自覚している分、この土地を離れるのが怖い。自分を知らない人がいることが怖い。
 世間知らずな自分を導いてくれる人がいないのが不安になる。その場に見合った行動をしているのか、教えてもらえないから、笑われてないかとか、考えてしまうだろう。
 そんな場所で一生暮らせるとは思えない。私はそんなに強い人間ではないのだから。
 倉木の山を離れることは、倉木を捨てることだ。巫女である私が山から離れたら、もう二度と戻ることは出来ないだろう。巫女にもなれず、世間も分からず、何にも出来なくなるのだろう。
 帰る場所がなくなるだけのこと。ただそれだけなのに、何故これ程怖いのか。
 やりたいことは沢山あるのに。絵を描く為に美大に行きたい。この倉木の山を離れて、普通の女の子として生活してみたい。
 物心ついた時から描いていた夢。
 大好きな人と一緒になりたい。
 けれど、私が現状を変化させるには、ここに長く居すぎてしまったのだろう。
 倉木の山は神聖な山。村人も、知っているから倉木に良くしてくれる。私が倉木の巫女である限り、私は独りになることはなく、何にも不自由することはないだろう。
 常に誰かが私を護ってくれる。
 私が、儀式をする巫女である限り。
 それで満足だと思っていた時期もあった。実際に、美大に行きたいなんて、この間までは漠然とした考えでしかなかった。
 それを、この男が変えたのだ。
 突然当主としてこの山にやって来て、勝手に振る舞っている。でも、誰も止めない。
 お母様は微笑しながらこの男を見つめているだけで、知美や沙也加ちゃんも文句も言わずに仕える。
 私だって最初は嫌だった。
 今だって、嫌だ。
 この男が当主になるのは嫌だ。この山にはいてほしくない。
 ここにいたら、いつか私だけを見なくなるから。私に飽きて、他の女の所へ行く日が来るのがわかるから。
 私は年老いて、この男を引き留める術も持てずに、男が目の前からいなくなるのを見ているしか出来ないのだろう。
 そんなのは、嫌だから。
 ただの巫女になるなんて、許せない。この男に捨てられるなんて、もっと許せない。
 私はただの女にはなりたくない。けれど、この男の前で私は女にしかなれない。
 倉木も関係なく、私がこの男を欲しいのだ。私に変化をもたらした初めての男。
 私はいつの間にかこの男の為にワインを用意して、時間を空けておくようにしている。 この気持ちが何なのかは知っているつもりだ。都会から来た男に対する憧れでしかないこと。自分が知らない世界を歩んできた男への珍しさからくる恋だということ。
 少ししたら、そう、夏が終われば冷めてしまうだけの、無意味な感情でしかない。けれど、私がずっと憧れていた感情。
 小さな頃、王子様が来て私をここから出してくれると思っていた。煩いぐらいに言われるしきたりとか、辛い巫女の仕事から、助けてくれると思っていた。
 小さい私には、苦痛だった家。
 小さくても、本当の王子様が現れるなんて思えなかったから、助けてくれる人はきっとこの村の人ではないのだろうとしか考えていなかった。どんな人でも構わない、私はあの頃倉木から逃げたかった。
 とうとうそれは叶わなかったけれど、今、私の目の前には男がいる。王子様には程遠いけれど、私には充分だった。
 普段は無口で、口を開けば意地悪なことしか言えないのに、本当に必要としている時に優しい言葉を掛けてくる。
 私が欲しい言葉をくれる。
 家を出ればいいと言う。
 けれど、決して一緒に出ようとは言わない。 現実に、王子様はいない。私は、お姫様のように愛されることはない。
 それでも良かった。この男が運命ではなくても、今ここにいてくれればいい。それだけで私は少しだけ強くなれる。
 人に、なけなしのプライドを見せられる。 私が倉木鈴菜でいるためにはこの男が必要なのだ。この男の前でなら、私は意地を張れるし、わがままにもなれる。
 もう少しで崩れそうだった私の倉木を、この男は持ち直したのだ。この男を追い出さなくてはならないから、巫女として接しなくてはならないから、侮られたくないから。私の中の倉木が戻されたのだ。
 別にこの男じゃなくてもいい。これまでの私を知らなくて、別の土地から来た人間ならば。たまたま、私の倉木を起こしたのがこの男なだけだ。
 こんな男、いなくてもいい。
 そう思うのに、最近はこの男の話を聞きたいと思う。知らない土地の話、男の過去、何でもいいから知りたいと思う。
 どうでもいい筈なのに、いつの間にかこの男を追ってしまう。この男の傍にいれば、いつかは倉木の血が汚れてしまう、そう感じるのに、傍にいたいと思う。
 この男が何者でもいいから、自分が一番近くにいたいと願っている。
 この男が、私の意志を脆弱にしていく。
 とても弱い存在にしてしまう。
 そして、素知らぬ顔で、この土地から離れることは簡単だと言う。
 私のことなんかどうとも思っていない男。けれど、私を抱く時だけは私の名前を呼び、愛おしんでくれる。
 私はもう、この男から離れることはできないのかもしれない。独りになんか耐えられない。この男がいないのなら、倉木を離れることも出来ない。
 責任をとれなんて言えない。言えば男は困惑して、私から、倉木から離れていくだろうから。男は、そういう存在だ。
 元々当主になる予定で来たのではないと聞いたこともある。周りにいた人間に説得されてここに来たのだとか。帰りたいと、思っているのだろうか。
 ここには男を楽しませるものは何もない。山と神社ぐらいしか、興味を引くものはない。毎日何をするでもなく、ふらふらと辺りを歩いているだけだから、男はもう飽きているのではないだろうか。田舎に、倉木に、私に。 男がいなくなる日は、近いのかもしれない。 でも、まだここにいる。
 私は時々不安になる。男がいなくなったらどうしたらいいのだろうと。もう、今まで通りには暮らせないだろう。暮らすには、男の話を聞き過ぎてしまったから。
 男を、知り過ぎてしまったから。
 けれど、男を追うことも出来ない。男がそれを望んでいないと知っているから。
 私には、どうすることも出来ないのだ。
 解っていても、私は男と一緒になれることを願っている。離したくないと、どこにも行かせたくないと思う。
 男がいる限り私はこの感情のままで、私も忘れることはない。
 幸せにはなれないと思っていた。
 でも、楽にはなりかった。
 男は感じていないだろうこの痛み、いつまで続くのだろうか。
 男は、いつまでここにいるのだろう。
 手を伸ばせば、男に触れられるのに。それだけの距離なのに、何て遠いのだろう。
 けれど、これが私の願った結果なのだ。
 ふと、男がこちらを向いて微笑んだ。手を伸ばし、私を抱き寄せる。
 私は少し泣きそうになって、男に寄り添いながらもう少しだけ一緒にいられるようにと神様に願った。