CATCHER BOAT
  

捕鯨船 大洋漁業所属 第16利丸

 大洋漁業 第16利丸

 総トン数 758 トン

 長さ    68.37m

 軸馬力  3500馬力

 補助エンジン  2基

 速力   17.5 ノット

 昭和33年7月4日進水

 林兼造船(下関市)





 その船は、私が生まれた時建造され、父が捕鯨船乗りだった最後に乗船していた船です。私たち家族の生活を支えてくれた船です。その勇姿は現在も、牡鹿半島の先端のかつての捕鯨基地『鮎川』に陸上保存されています。実家に帰った際は時々彼女(16利丸)と会うため車を鮎川に走らせます。
 独特のその船景は、捕鯨船がかつて、ノルウェイの技術で建造されたことを物語っています。砲台を備えた船首は高くそびえ、ブリッジ以降の甲板は、波がはけるように側板がありません。竜骨は他の船と違い南氷洋の荒波と氷に耐えるよう幅が狭く屈強に設計されています。もっとも美しいのはその艫(船尾)でまるで貴婦人の靴先のように細く丸い弧を描いています。捕鯨船独特のシアは、乗船し甲板を歩けば誰でも感じ取ることが出来ます。擬装は捕鯨という特化した漁を行うため、かなり高価になってしまい又、機関室と居住区以外の魚倉をもたないためほとんどの捕鯨船は引退後、他の用途に使えず、廃船か、強いエンジンを生かし、船首と船尾を切りタグとして使われたくらいでした。喫水が極洋荒波使用でかなり深く海に浮かんだ姿は、漁船というより軍用艦に似ています。実際 戦時中はほとんどの捕鯨船は大砲をつけ軍に徴用され、捕鯨母船は輸送艦や空母になりました(母船は全て沈没) しかしシルエットは美しく、私は全ての船の中で捕鯨船のシルエットが一番好きです。ただ展示された船には各擬装機器や救命ボート、はしけが降ろされており美しいシルエットに若干の物足りなさを感じます。また大洋漁業所属時代は塗装はグレーでした。(そのほうがかっこいいのですが・・・・・)
 戦後、GHQが捕鯨を認めると、父はすぐ横浜の造船所に呼ばれ、徴用された捕鯨船から大砲などの装備を外しにわか捕鯨船団をつくるのに動き回ったそうですが、その時、部品調達にGHQのジープが回されてきて、それに乗って初めて東京の焼け野原を見たそうです。父は当時二十歳前で、今でも鮮明に覚えているといっていました。 
 にわか捕鯨船団建造は、大変で、当時軍艦はあるのですが、まともな船はなく又タービンエンジンは捕鯨船に使えないため、やむなくエンジンの足りないのは、潜水艦のエンジンを載せたそうです。しかし潜水艦のエンジンでは南氷洋の荒波には厳しく良く故障したそうです。とにかくうるさいエンジンだったらしいです。日本の潜水艦はUボートなどに比べ大型の艦が多くエンジンも軸馬力を上げるため無理した設計になっていたそうです。翌年父はノルウェイに捕鯨船の買い付けにも行っています。喜望峰を北上する大西洋は潮が良くジブラルタルまではとても航海しやすい海だそうです。イングランド以北の大西洋は絶えず氷山の危険が伴うのと対照的です。


  捕鯨船 船尾(艫)部

 全景が写真に入らなかったのでブリッジから艫までの写真です。機関部分の真下(煙突の下)の喫水線が甲板から1m位なのがわかると思います。
 艫(スクリュウの上)細く絞り込まれているのがおわかりでしょうか。海に浮かぶと本当に奇麗なシルエットになります。









 捕鯨船 船首部より全景

 なかなか全景の写真が撮れないので船首部より斜めに撮りました。鯨には悪いですが、追われている鯨から船を見上げるとこんな感じになるんでしょう。


 船首部分に、鯨砲と銛が見えます。捕鯨用の銛は先が以前はとんがっていましたが、海面で反射するため、精度を上げるためにわざわざ平にカットしてあります。進行方向に垂直にカット面を構成することで、海面との着水角度をあげて、銛はほぼ進行方向の角度を保ったまま海中を進むことになります。
 子供の頃、平らな石を川面に平行に投げいれて、石を水面でピンピン跳ねらかして遊んだことがあると思いますが、あの原理を逆手に取った要領です。
 宇宙船も大気圏突入の角度が悪いと跳ねて進入が出来なくなるのと同じ原理です。
 この捕鯨砲はわが郷里、石巻で開発されました。

 
 船首から錨が下ろされていますが、大きさは私の身長以上にあります。ただし実際使われていた錨は船首部分にフィットする格好の説明は難しいですが、別の形状のものだったように記憶してます。南極海では、当然水深の関係で錨は使えないのですが、シーアンカーと言う、海中にパラシュートを開いたような錨を使います。















実際は、喫水線ぎりぎりまで海面下に沈みます(極洋での荒天高波に耐えるため大馬力エンジンを載せ低重心であったため) ブリッジから最下層までは5階建て構造で中心部は機関室。ブリッジ下は食堂、ギャレイと居住区です。船倉を持たないため、居住区は船首と船尾にもあり砲手、船長、航海士、機関長、ボースン(甲板長)などは個室で又長い航海を想定し他の船員の部屋も当時としては最高水準でした。南氷洋の荒波はブリッジより高く、従ってハッチの防水性と側弦の水はけが良い設計になっています。大洋漁業時代は勿論、煙突にはマルハの文字が大きく入っていました。

ブリッジの上にも幌がついたアッパーブリッジがあり、ほとんど探鯨の際は、そこで操舵と探鯨を双眼鏡で行います。その後ろにタワーブリッジがあり、チェイスの際はそこで操舵します。マストの上の見張り台にも電気式操舵装置がありそこでも操船可能です。ブリッジ後方は、レーダー、通信室、ソナー装置(探鯨装置)などがあります。父の時代はコンパスはGPSでなくジャイロでした。天測はたまにはマニュアルでやったそうです。
捕鯨船のシンボル 捕鯨砲台(船首)
砲手は『鉄砲さん』と呼ばれ最も高給とりでした。鯨に命中しない場合を(ドンガラ)といいます。
船首からブリッジまでの舷側の丸い穴は鯨の尾びれをワイヤーで固定し運ぶための物で、このことを鯨を『抱く』といいます。
鮎川ホエールランド全景。後ろの展示館には鯨関係のあらゆる展示があります。ここはもともとは大洋漁業の鯨の解剖所跡です。当時はちょうど捕鯨船の前あたりに大きなスロープがありそこからウインチで鯨を揚げていました。周辺は鯨加工工場で、かなり臭かったのを覚えています。鮎川の町も、映画館等もあり活気に満ちていました。
まさしく父が乗船していた船室です。『船尾・船室』向かって左にベットがあり、その下がチェスト(写真では見えない) 右手のソファは簡易ベットにも出来ます。昔はチークのきれいな木目が見えましたが保存状態が悪く残念です。当時、父は一等航海士でした。当時は椅子も木製でもっときれいでソファ、椅子に、木綿の純白のカバーがしてありました。宗谷の船室も海の科学館で見ましたが良く似てました。
 ここが、航海士だった父の仕事場です。捕鯨船の航海士は、船長、一等航海士、二等航海士の3名です。(タイタニックには五等航海士までいたっけ!)それぞれ、キャプテン、メッツアン(メイト)、セコンド(セカンドオフィサー)と呼ばれていました。暴風圏の荒天時はこのブリッジ以外は全て水没?(ほぼそれに近い状態)し生きた心地がしなかったそうです。それにしても捕鯨船の航行能力はすばらしくまさしく保存される価のある船であることは間違いありません。




保存されている捕鯨船(キャッチャーボート)

現在は、宮城県鮎川に 第16利丸  和歌山県太地に  第11京丸(極洋捕鯨)

今年、下関に 昨年まで活躍した 第25利丸の陸上保存が決定


大洋漁業の捕鯨船の船名の由来

 船は、女性名詞であるので、大洋漁業ではオーナーの中部氏の娘さんの名前をつけました。利丸、関丸、文丸。全部で何隻あったかはわかりません。2船団あったと思います。日本全体では全盛期は6船団ありました。現在現役の大型捕鯨船は3隻のみです。ちなみに親父の釣舟『あや丸』は、私の亡き母の名前です。


捕鯨船の航海

 親父の捕鯨船時代の航海話で、印象深いのは、フォークランド諸島の話です。島々に接近すると突然海底が真っ白になるそうです。ここは古くは欧米の捕鯨基地で、今でもその骨があたりの海底を真っ白に染めているそうです。昔は大きな海草と複雑な地形が災いし船の墓場ともいわれていたそうです。1980年代、アルゼンチン海軍はここでエグゾゼで、イギリス軍艦を撃沈したのは記憶に新しい出来事です。今年のワールドカップでは、ベッカムのペナルティキックがアルゼンチンを撃沈しました。
 南極から一番近い、マゼラン海峡や喜望峰は、思ったほどの荒海ではないそうです。すごいのは暴風圏と夏が過ぎた南極海で、波はさながら小山のようだと言っていました。具体的には旧丸ビルくらいだそうです。70メートルの捕鯨船が木の葉のように揺れるといっていました。一方凪の南極海は、白と青のまさしくこの世のものとは思えない至上美の風景が展開されるそうです。星座も奇麗で南十字星の美しさを何度も語ってくれました。
 病人が出たときは大変で、しけの時は医師のいる母船に渡すのに、船を平行に操船しワイヤーでストレッチャーを渡すのに非常に緊張したそうです。母船の医務室で手がおえない場合、近くの国の病院にヘリで搬送されます。一度親父もケープタウンの病院に入ったことがあります。母親がケープタウンに行くことになりましたが、当時は飛行機を乗り継いで3日かかるとのことで、まもなく症状は軽いとの連絡が入り胸をなでおろしました。
 寄港地では、ケープタウンが奇麗だったらしく親父の好きな港のひとつです。そこにはドイツの捕鯨船も良く寄港し敗戦国同士で仲が良かったらしいです。当時のドイツの工業技術はすばらしく機関部は、ナットひとつから全部絶品といっていました。その頃を考えると、YAMAHA,HONDAのようなすばらしいエンジンを造る会社が日本に出来たことが夢のようだといっていました。親父に言わせると日本の工業製品の絶品は、新潟鉄工のクラッチだといっていますが・・・・・。新潟鉄工倒産してしまいました。新潟鉄工頑張れ!



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