越水城碑(西宮市立大社小学校内)
 越 水 城 に つ い て
1.位置と築城

 近世初頭までの山陽道に面した標高22mの丘陵上にある。城跡の南・東側は西摂の平野が広がり、北西側には六甲山の山系が迫る。城跡の立地する丘陵はこの山系の末端にあたります。
 築城は瓦林政頼(正頼)といわれ、永正16年(1519)頃に鷹尾城(現芦屋市)から、西宮の北八町にある小清水の地に家城を築き移ったという(「細川両家記・瓦林政頼記)「瓦林政頼記」によると、越水城築城の様子は「毎日50人、100人シテ堀ヲホリ壁ヲヌリ土居ヲツキ矢倉ヲ上ケレハ鍛冶・番匠・壁塗・大鋸引、更ニヒマコソナカリケリ」というものであったといいます。政頼は同城を常の居所とし、「外城」には子息や一族を、その他の家臣は西宮にそれぞれ居住させ、摂津では無双の大名であった記しています。なお、「聾盲記」永正17年2月3日条に「河原林城号小清水」とあるように、城主の名にちなんで、河原林城ということもありました。

2.越水城の歴史(争奪戦の歴史)

 永正16年11月6日細川澄元が阿波から兵庫(現神戸市兵庫区)に上陸し、ほどなく神呪(かんのう)寺の南にある鐘の尾山に本陣を構え、細川高国方であった越水城の政頼を攻めました。この戦いで摂津周辺は両陣の戦場となり、混乱した状態が続きましたが、翌17年2月3日には政頼が泉州堺に逃れたために澄元方の手におちました(「細川両家記」)。なお「永正十七年記」2月3日条には「自焼落」とあり、陥落に際して政頼が自ら放火したとしています。また、開城の原因は「兵糧尽キ、勢モ尽」きたとことにあったとする説もあります(諸国廃城考)。この結果、高国軍も摂津池田・伊丹・尼崎方面に後退しましたが、この敗北は京の貴族に大きな衝撃を与えました。たとえば「摂州腰水城落云々、言語道断曲事也」(「後法成寺尚通公記」同年2月4日条)、「摂津河原林之城令没落云々、仍京中聊又令物騒」(「二水記」同年2月5日条)、「摂州小清水城没落云々、都鄙之安危在此事」(「元長卿記」同年2月4日条)などとあって、澄元の上洛、京における戦乱の危険性の高まりなどがうかがわれます。そして、政頼は同年10月に「与敵通達之儀」が露顕したため切腹させられました(「二水記」同年十月一四日条)。
 その後、三好孫四郎同神五郎が入城したとされますが(諸国廃城考)、享禄四年(1531)高国が摂津天王寺に敗れ自刃すると、細川晴元の家臣である三好長慶が台頭、越水城は長慶方の拠点の一つとなりました。天文二年(1533)9月6日には旧城主である瓦林氏と一向一揆勢力が協力して城を奪取しました(細川両家記)が、天文八年7月21日には三好範長(長慶)方の攻撃により落城しています(親俊日記)。同十年にも伊丹衆と結んだ河原林対馬守が越水を攻撃しましたが、淡路から三好の援軍が到着したため退却(細川両家記)、同十六年にも瓦林氏は越水城奪回に失敗し(足利季世記)、逆に同十七〜十八年には越水城から伊丹方面への攻撃が繰返されています(細川両家記)。同二十一には丹波で敗北した長慶以下が「小清水」に引き退き(「言継卿記」同年五月二四日条)、翌二二年に芥川(あくたがわ)城(現大阪府高槻市)に移るまで長慶は越水城を本拠としていました。
 いっぽう永禄九年(1566)松永久秀と三好氏の対立の中で松永方の瓦林三河守がいったん越水城を奪いますが、七月には三好方の篠原長房が奪取、九月には上洛して将軍たらんとした足利義親(義栄)を入城させました(細川両家記)。同年一二月に義親は普門(ふもん)寺(現高槻市)に移った(「言継卿記」同年一二月八日条)後は長房が城に入っています。しかし同一一年九月、足利義昭を擁した織田信長が摂津を攻撃すると長房は逃亡(信長公記)、翌年には義昭の命を受けた和田惟政が入城しました。

3.越水城の現状

 現地には城跡碑がありますが、周辺は住宅化が進み遺構は地表面には残っていません。城の旧状は旧陸軍参謀本部の石割三平が昭和一〇年(1935)頃に作成した摂津国越水城図(「日本城郭史資料」国会図書館蔵)によってわずかに知ることができます。それによると丘陵北端に高台(通称天守台)があって、南面に石垣が認められます。高台の前面は居館跡と思われる広い郭が描かれ、この郭の南側が小字大手で虎口と推定されます。また城跡の西面には土塁が、北及び西側には堀(通称城ヶ堀)が描かれている。その他周辺には城ヶ谷、屋敷などの関連小字が残っていますので、「瓦林政頼記」の外城の記述などから、城の南側、段丘下の旧街道周辺一帯には城下町が存在したと思われます

摂津国越水城図(「日本城郭史資料」)
 越 水 に つ い て

 西宮町の北に接する武庫郡の村。中世には小清水と表記されることが多く、この地にあった湧水が地名の起源ともいいます。ほかに腰水(永正一七年記)・古志水(永禄以来年代記)・越清水(応仁元年一〇月一〇日「大内政弘感状」三浦家文書)の表記もあります。広田から南西方向に直進して打出(現芦屋市)へと向かっていた旧山陽道に沿い、西宮という商業地に近接した戦略上の要地であったため度々合戦の舞台となりました。
 「太平記」巻一五(大樹摂津国豊島河原合戦事)によると、建武三年(1336)二月、後醍醐天皇に反旗を翻し、いったん丹波方面に下って再度上洛を目指した足利尊氏軍は打出で合戦するが、その直前に「小清水ノ辺」に向かっています。また同書巻二九(小清水合戦事付瑞夢事)には観応二年(1351)二月、尊氏と弟直義が「小清水ノ合戦」を行ったとしています。応仁元年(1467)八月には、応仁の乱に際して上洛しようとした西軍の大内政弘の軍が越清水で合戦しています(前掲大内政弘感状)。永正年間(1504−21)には細川氏の被官で土豪と考えられる瓦林政頼が越水城を築き、以後半世紀にわたる城の争奪戦が繰り広げられました。「瓦林政頼記」によると越水城は政頼居所の本城と、子息・一族居所の外城からなり、家臣を西宮に居住させたとあります。これが事実とすれば、越水を中心とした城下町が形成されつつあったことになります。越水城から真っ直ぐ南下して西宮中心部に至る八丁畷(札場筋)は城の大手道として政頼時代に造られたと伝え、以後山陽道は近世初頭までこの道から西宮を経由するルートをとっていました、のちに広田村から西宮与古道に入るようになり、八丁畷筋は間道となりました。



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