進級、新入園おめでとうございます。
 今年度も、子どもたちと一緒に、私たち保育者も、そしておうちの方々とも、共に学びあい、育ちあいながら、みんなで成長していけたらと思います。一緒によりよい保育を創りだしていきましょう。どうぞよろしくお願い致します。

初瀬基樹

 3月に天野秀昭さんという方の講演会を聴いてきました。天野さんは、世田谷にある冒険遊び場「羽根木プレーパーク」の初代有給プレーリーダーで、今も全国の冒険遊び場作りを支援している方です。「冒険遊び場」というのは、「IPAくまもと」(基樹もメンバーの1人です)でも毎年、夏に江津湖で「おもしろ村」として開催したりしていますが、「自分の責任で自由に遊ぶ」というモットーのもと、「あれをしたらダメ、これをしたらダメ」などの禁止事項のない遊び場のことです。(当園の園庭にある、木製の滑り台(遊び小屋2号)は、羽根木プレーパークにある「ウェンディハウス」をモデルにして作ったものです。)その天野さんが書かれた本からひとつ私がとても共感したものをご紹介したいと思います。


「遊育」のすすめ 〜生きる力の源泉

 「うちの子は放っとくと好きな事しかやらない」という親の嘆きを、今まで何度も耳にした。2児の父として、そう言いたくなる気持ちは分かる。が、よく考えるとやはりこの嘆きには無理がある。これは何も子どもに限ったことではなく、恐らく人は放っておかれたら好きなことしかしない。

 放っておかれても自ら進んでやる。考えてみると、これはすごいことだ。お腹がすいたから食べる。のどが渇いたから飲む。これらが生理的反応として起こるように、精神的反応として起こるのがこの「放っておかれてもする」行為だ。それだけ人の「生存」の本質に近いところから生まれる欲求だと考えられるが、動機はと言えば単純に「やってみたい」と思ったからだろう。そして、それを「遊び」と言う。

 ぼくは、過去に何度となく「あなたのしていることは、まさに『教育』ですね」と言われてきた。ぼくはそのつど「違います」と答えてきた。郵便やさんごっこやお店やさんごっこなど、遊びの中で字や計算を覚える子がいる。けれどたぶん、全く覚えない子の方が多い。経済主義のこの社会ではそれでは困ってしまうので(文化が違えば困らない場合もある)、教育は必要とされてきたと僕は考えている。そうである以上、教育には子どもの意志とは関係しない大人や国の意志があり、何がしかの強制力が伴うと考えた方が無理がない。けれど、遊びはそうではない。本人の「やってみたい」と思う気持ちがすべてで、万一強制が伴ったとすれば、たとえそれが鬼ごっこであったとしても、もはやそれを「遊び」とは言わない。ただし、次のことばが100%認められるのだとしたら、たとえ大人が「遊ぼう」と呼びかけても遊びとして成り立つ。そのことばとは、「遊ばな〜い」。遊ぶも遊ばないも、その子次第。かくも遊びとは、その本人の自発的行為なのだ。

 ぼくは、「教育」ということばに対し「遊育」ということばを提唱したい。教育の「教」の字は、「教える」「教わる」のいずれもが他動詞だ。ならば、その後に続く「育」の字も「育てる」という他動詞になろう。「教え育てる」大人や国の意志を反映したことばだ。この場合、主役は子どもではない。翻って「遊育」。「遊」は「遊ぶ」という自動詞。従って「育」も「育つ」という自動詞となる。つまり、「子どもは遊びながら自ら育つ」。僕の子ども観はここが原点で、もちろんこの時の主役はそれをする子ども以外にはない。

 教育を否定しているわけでは決してない。大人がムリにでも出会わせなければ、子どもは戦争や環境問題などについて考える糸口すら持てないかもしれない。大人が引き合わせた切り口から、その子の新たな興味や世界、可能性が広がることも多々ある。問題なのは、圧倒的にバランスが悪いことにある。教育の価値だけを大人は認め、遊育(=遊びながら育つ)の価値をほとんど無視してきた。 子どもの表情や動きが、遊びの中で見違えるほど変化する。そんな例をぼくは数えきれないほど見てきた。その実感からすれば、少なくとも小学生くらいまでは、教育以上に遊育の価値を優先してしかるべきだと考える。

 子どもに異変がおこっているのは「教育」の問題だと、その改革に大人は躍起になっている。それはそれでいい。けれど、原因はむしろ「遊育」を認めないことにあるとぼくは断言したい。「教育」の発想だけでは限界なのだ。なぜなら、ムリにでも出会わせられる世界は「自分」があって初めて有効だからだ。そんな「自分」の核をはぐくむあらゆる体験の宝庫が遊びであり、国が「生きる力」を言うのなら、それは遊育の中にこそある。

(天野秀昭 ゆじょんとブックレットシリーズB『子どもはおとなの育ての親』有限会社ゆじょんと)



 私たちの保育園で一番大切にしている活動は「遊び」です。ガイドブックやホームページでもなぜ「遊び」を大切にしているのか書いておりますが、まさに天野さんの言われている通りだと思います。できれば、将来、この近所にも常設の冒険遊び場を作れたらいいなあと考えています。みなさんも、子どもたちの「遊び」について一緒に考えてみませんか?





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