「創造」は「破壊」から生まれる?
初瀬基樹
先日、お知らせしましたように、今年の「母の日の集い」では「親子でいっしょに遊ぼう!」ということで、「カプラ」という積み木で遊ぶことを計画しています。ぜひご参加下さい。
園でも今春、カプラを1000ピースほど購入しました。さっそく幼児クラスで使ってみたのですが、私の方が夢中になってしまい、「カプラが足りん!ちょっと貸して!」と子どもたちから借りてつくるということもしばしば・・・。扱いやすくて、実に楽しいのです。
もちろん、子どもたちもいろんな遊び方で遊んでいます。井形に積み、ひたすら高さを求めて積み上げる子や、「公園つくる!」などテーマを持ってベンチやテーブルを作っている子、何かはわからないけど造形的にすごい芸術作品のようなものを作っている子、ままごとの道具にして料理している子などなど、目新しい遊具ということもあって、毎日、本当によく遊んでいます。
さて、積み木で遊んでいると、必ずといっていいほど壊しに来る子どもがいます。きっと、形のあるものを「壊したい」という願望は、誰でも心の底に持っているのでしょう。特に小さい子(つぼみ組、すみれ組など)の場合は、「作る」よりも「壊す」ことの方が圧倒的に多いです。本人たちも、悪気があって「壊してやろう」というつもりは無いようです。きっと壊すことを悪いことだとも考えていないのでしょう。むしろ、小さい子たちのこうした姿は、「大人の反応」や、「その素材が自分の思い通りになるものなのかどうか」を試していると考えられます。泥んこ遊びなどでも一緒です。カップなどに土を詰め、ひっくり返して「ケーキ」などとあげると、よろこんで壊しますよね。山などを作っていてもそうです。これがプラスチックなどで出来たケーキやコンクリートの山などなら、壊そうとはしませんよね。
また、積み木などが、いっきに崩れ落ちる様子などは見ていて、何かスカッとします。カプラの場合、カラカラカッシャ〜ンといった軽い木の感じで音も良いのです。ですから、完成品を壊すのも楽しみの一つになるのです。
こうした「壊す」体験をいっぱいしている子ほど、大きくなるにつれて、色々工夫して、オリジナリティあふれるものをじっくり作っていくようになります。素材そのものの性質を体験を通してよく知っているからでしょう。反対に小さい時から「壊しちゃダメでしょう!」とか「こうやって作りなさい」などと干渉されることが多かった子は、こうした遊びを好まなくなりますし、自分で創意工夫して何かを創りだすということが苦手になるようです。
以前から、園でも子どもたちがよく遊んでいる「ブロック」なども「つくる」という点では、とても良いおもちゃだと思います。ブロック同士、しっかりつなげることが出来るので、ずれたり、崩れたり、ということが、ほとんどありません。ですから複雑な形のものが作れます。ところが「積み木」の場合、この「ずれる、崩れる」ということがポイントになります。崩れるからこそ、ブロックとはまた少し違ったすばらしいおもちゃと言えます。積み木は、微妙なバランスの上に成り立っていますから、いろんな感覚を研ぎ澄ませて、微妙に調整する力が必要になります。「崩れるかもしれない」という緊張感もあり、崩れては作り直し、崩れては作り直し、を繰り返します。きっと、知らず知らずのうちに「集中力」や、「バランス感覚」、「手先の器用さ」、「構成力」、「想像力(思い描く力)」や、「創造力(新しいものを創りだす力)」も身に付けていくのではないでしょうか。
素材そのものが「単純な形」で「飾りがない」のも優れている点といえます。使う人にあわせて、何にでもイメージできるからです。使い方の限定されたおもちゃ(ゲーム機やキャラクターグッズ)などは、なかなか違う遊び方ができません。「そのもの」以外のイメージが湧きにくいからです。
小さい子の場合は、ある程度、壊しに来ても-仕方がないのですが、しばしば、大きい子でも、人が作っているものをわざわざ壊しに来る子がいます。やはり、壊したい気持ちは大きくなってもあるのでしょう。しかし、大抵の場合は、作っている子たちから文句を言われてやめます。一度は壊しても、作っている人の気持ちがわかると、次からはしなくなります。
しかし、気になるのは、「やめて」といわれるとエスカレートして、余計に壊そうとする子です。こうした子はおそらく、「壊したい欲望を抑えられない」のではなく、作っている子どもや大人たちの「気を引きたい」のです。または、その人の目(気持ち)が自分ではなく、積み木に向かっていることに対して、積み木にやきもちを焼いているのかもしれません。どちらにしても「わたし(ぼく)のことをもっとよく見てよ!わたし(ぼく)にかまってよ!」という合図だと思うのです。よく、赤ちゃんが生まれて、年の近いお兄ちゃんや、お姉ちゃんが、家族のみんなからあまりかまってもらえなくなって、下の赤ちゃんをいじめたり、わざとわがままを言ったりして、親を困らせたりすることがあるのと同じなのかもしれないなと思います。そうした子の気持ちをしっかり受け止めて、じっくりかかわってあげたいものです。
話を戻しますが、「壊すことが出来る」から、「新しいものが創り出せる」と思うのです。「壊れるかもしれない」から「壊さないように大切に扱う」ようになるのだと思うのです。
なにはともあれ、今度の「母の日の集い」では、子どもに遊ばせるのではなく、まずは自分が思いっきり楽しんで遊んでみて下さい。きっとハマリますよ。