むだ話が磨く共に生きる心
初瀬基樹
全国私立保育園連盟発行の『保育所問題資料集 平成14年度版』に寄せてある寺内定夫さんの文章が目にとまりました。寺内さんはおもちゃデザイナーでありながら、子どもの文化研究所の所長でもあり、子どもの感性についての研究をされたりもしています。
寺内さんの文章から少し引用させて頂きます。
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親は子どもにどうしても言わなければならない言葉があります。乳児が歩き始めると、ケガを怖れて「そっちに行ってはダメ」などの制止語がふえます。そして、行動が自由活発になるにつれ、しつけや成長を守る立場から、親から子に一方的に伝える禁止・命令語が当たり前になります。子どもの生活意識が高まり、チャレンジ、失敗、挫折などの葛藤を見るようになれば大声で早口な「ガンバレ」の激励語もふえます。
親子の日常会話の中には家事をしながら親の文化を伝える話、共通の経験から生まれる文化交流、子どもの生活を支える共感や肯定の語りかけなどがあります。けれどもこのような会話は、どうしても言わなければならないという意識に乏しいので、時間に追われるようになると少なくなります。なかでもめっきり減ったのが食事、入浴、通園のときなどに交わす天候や景色についてのムダ話です。
大人が子どもにどうしても言わなければならない話とそうでない話との違いで注目したいのは口調やテンポです。どうしてもというのは成長に責任をもつという親の自覚なので、真剣で厳しい口調になります。しかも切実な気持ちから大声で早口になりやすく、笑顔の表情も消えていくのが、制止・命令・激励語などの特徴です。
これに対しタンポポの綿毛の様子とか、流れる雲の色具合などを話題にした会話には緊張感や切迫感がなく、のんびりと穏やかな口調で笑みを浮かべながら親子が互いに心地よさを味わう語らいが生まれます。けれども忙しい忙しいと家庭でも嘆く時代になって、ムダ話がめっきり減ってきました。
どうしても言わなければならない一方的な話の多いのが学校です。学ぶというのは真剣、誠実、努力などの活動ですから、授業や朝礼のときの先生の声、表情、姿勢はもちろん、校舎や教材教具のどれをとっても四角四面の生真面目な教育観がにじみでています。穏やかさとか心地よさというような生活感覚は、教育目標にはなじみにくいのです。
けれどもそれは子どもの生活の一方に、家庭や自然環境が果たす安らぎや温かさの生活機能を前提にしていたからでした。それが子どもの発達を保障するパートナーとして、学校機能の偏りを許容していたのです。教育機能は学校が堅持したというより、家庭や地域の生活機能が守っていたとも言えます。もし家庭も学校も子どもに対する語りかけの口調が似てきているなら、家庭や保育での語り合う話題を意識的に見直してもいいのではないでしょうか。
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「ああ、たしかにそうだ。」とうなづいてしまいました。ふと私の小さい頃のことを思い出しました。当時私の家族は、長野県に住んでおり、私は徒歩で片道20分ぐらいのところにある幼稚園に通っていました。いつも父か、母といっしょに歩いて通園していましたが、その行き帰りの道で、父とは行き交う車の名前を当てっこしたり、あの車がカッコイイとか、大きくなったらあんな車に乗りたいという話をしたり、母とは絵本の話や友達の話、クッキー作りの話(余談ですが、当時は毎週木曜日の夜に「猿の惑星」というドラマがやっており、それを見ながらクッキーを作るのが初瀬家の恒例行事?になっていました。)などをしながら通園していたことを思い出します。話の内容はさほどたいしたこともなく、何気ない会話でしたが、その行き帰りのちょっとした時間が私にとって、今で言う「癒し」の時間というか、父や母と1対1でほのぼのと語らうことの出来た時間だったように思います。
物質的には豊かになったけれども、心は貧しくなったと言われる現代。人間が人間らしく育つためには、特に子ども時代には、「あそび」もそうですが、一見ムダに見えること、これまでは省かれ、阻害されてきたようなものの中にこそ、大切なものがいっぱい詰まっているのかもしれないと思うようになってきました。
みなさんはどうお感じになったでしょうか?