子どもを育てるということは

初瀬基樹

 相変わらず子どもが犠牲になる事件が続いています。最近では、こうした事件が珍しい事件ではなくなってきたということが、とても怖いことだと思います。

 「犯罪者に対する処罰を厳しくすべきだ」とか、「もっとパトロールを強化すべきだ」とか、「いつでも子どもの居場所がわかるように発信装置付きの携帯電話を持たせるべきだ」とか、「どんなときも子どもを一人にしないように」などなど・・・、あちこちで、何とか子どもを守る方法を模索しているようですが、私には、どうも対処療法でしかないように思えて仕方がありません。確かに、犯罪者から子どもを守ることが、現在の最重要課題であることは間違いないのですが、同時に、このような犯罪者を次から次へと生み出している「今の日本の社会」そのものを変えていかなければ、犯罪者、犠牲者は今後も増えていく一方なのではないでしょうか?

 皆さんは、今の日本の社会、何が足りないとお考えになりますか?物質的には恵まれ、教育の機会にも恵まれ、発展途上国などから見たら、この日本はどれほど豊かな国なのでしょうか。それなのに、毎日、毎日、暗いニュースばかり、ニュースになる犯罪のなかでも、幼い子どもや弱い立場の人を狙ったり、だましたりする卑劣な事件、常識では考えられないような自己中心的な事件が多発しています。私は、学歴や、経済云々の前に、「人としての心」を育てることが必要だと思っています。

 今の日本の社会は大人だけでなく、子どもにとっても生きにくい時代になってしまった気がします。子どもが子どもらしく生きられない。大人は、本来の「子どもらしさ」を嫌い、子どもを「小さな大人」にしようとしている。そんな気がしてなりません。大人の意に沿わない子どもは行き場をなくし、荒れたり、キレたりします。しかし、そういう子どもたちに対して、追い討ちをかけるように「大人がもっと厳しく対応しないからだ」、「子どもを甘やかすから子どもがつけあがる」という人もいます。しかし、実際のところ、荒れる子、キレル子を調査すると、甘やかされて育つどころか、実際には、他の家庭よりも厳しく育てられている子が、我慢に我慢を重ねて、ついにはキレたり、荒れたりしているのだということがわかってきました。厳しさと同時に、小さい頃にしっかり甘えさせてもらえなかった子どもたちです。ユダヤ人の大虐殺を行ったヒットラーや、神戸の酒鬼薔薇少年、長崎で小学生をビルの屋上から投げ落とした少年、彼らに共通するのは、「幼少期に家庭でかなり厳しく育てられていた」ことなのだという話を聞きます。

 彼らの親も、けっしてわが子をそんな風に育てるつもりはなかったに違いありません。しかし、なぜそのような子どもに育ってしまったのでしょうか。

 先日、保育士の研修で京都大学の鯨岡峻(くじらおか・たかし)先生の講演を聴く機会がありました。「子どもを育てる」ということを、私たち大人はどのように考えているかということを、鯨岡先生は次のようにおっしゃっておられます。



 「子どもを育てる」というとき、多くの大人たちの念頭に浮かぶのは、「身辺の世話をしたり、できることをふやすようにあれこれと働きかけたりすること」であるらしい。つまり、「育てる」という営みは、多くの人にとって、「大人が主導して子どもに何かをしてやること」、あるいは「子どもに何かを『させる』ことと考えられている」ようなのである。そのような「させる」働きかけは、その成果を、結局は、子どもに「何かが出来るようになったか」で測る態度を導き、また、そのためには「させる」働きかけを数多くし、その成果を早く得るのが良いという考えを導く。たくさん働きかければ、子どもにできることが増え、子どもの発達が早まり、それが子どもの幸せにつながり、自分も一生懸命教育している良い大人だと思われる・・・、こうした考え方が当然だと思われるように大人の考え方が動いてきたことが、最近の子どもの「育ちにくさ」を生み出し、気になる子どもの増加をもたらしてきたのである。それはまた、子どもの「できる」「できない」の結果ばかり見て、子どもの「心」を見ようとしない傾向の結果でもあっただろう。

 子どもは子どもなりに「こうしたい」「こうしたくない」「こうしてほしい」という思いをもって生きている。もちろん、それらのすべてが叶えられるわけではないが、その思いが周りによって受け止められ、その一部が認められることを通して、子どもは自らが独自の思いをもった存在なのだということに気付くようになり、自分がこの世界を生きる主人公なのだと言う形で自分を肯定していくことが出来るようになる。これは、子どもが一人の主体として生きていく上に欠かすことのできない心のありようである。その一方で、子どもはそのように一人の主体として受け止めてくれる人を好きになり、その人に信頼を寄せ、その人とともにいることに安心感を抱くようになる。これも、子どもが生きていく上に欠かすことの出来ない心のありようである。

 「育てる」という営みの基本は、本来は「させる」を基調にする営みではなく、子どもに「自信」や「信頼」、「意欲」や「思いやり」などの心が育つように関わることではないか。
 
2005.12〜2006.3全国私立保育園連盟『保育通信』「幼児教育ってなんだろう?!」より一部抜粋(要約) 


 「自信」というのは自分一人で作り出すことは出来ません。周りの人に認められてこそ、初めて心のなかに「自信」が生まれてくるのです。同様に、「自分を愛する心」、「自分のことを大切に思う心」も自分ひとりでは作れないものです。お母さんや、周りの人からたっぷりと可愛がってもらい、大事にされ、愛されてこそ、自分のことを大切に思う気持ちが育ち、それが次第に人を思いやる心にもつながっていくのです。

 鯨岡先生の「関係発達論」によれば、最初から親だった人はいない。誰でもみな、かつては「育てられるもの」であった。それが人生の途上で急に「育てるもの」の立場を生きることになる。これが並大抵のものではないことは言うまでもない。子どもを育てることを通して次第に親らしくなっていくのであって、最初から完璧に子育てが出来る親などどこにもいない。つまり、私たち大人自身も「完成された大人」ではなく、まだまだ「育てるもの」として成長している途中なのであり、子どもたちは、やがて「育てられるもの」から、今度は「次世代を育てるもの」へと成長していくのです。

 私たち大人は「子ども」を「大人」に育てているのではなく、「次の世代を育てるものとしての子ども」を育てているのであり、私たち大人も常に成長し続けているのだということを忘れないようにしたいと思います。私たちが、今、子どもにしていることは、自分たちが子どもの頃、親や周りの大人たちからしてもらったことであり、今の子どもたちが大きくなれば、やがて、私たちの子どもたちも、次の子どもたちへ同じことをしていくことでしょう。それが、子どもたちにとって、良いことであれ、悪いことであれ・・・。

 勉強ができること、スポーツが出来ること、お金がたくさん稼げるようになること、立派な地位を築くことなど、どれも大切なことかもしれません。しかし、一番大切なのは、やはり、「自分を愛し、他人を思いやる心を持った人」に成長することではないでしょうか。「心」は、こうしなさい、ああしなさいと教育できるものではありません。周りからのたくさんの愛情を受けて「育まれていくもの」なのです。

 あらためて、子どもたちの「心を育てる」とはどういうことなのかということを考え直していきたいと思います。

 まずは、子どもの思いをしっかり受け止めましょう。(子どもの言いなりになるのではなく、その子の「気持ち」を充分理解し、認めた上で、出来ないことは、理由を明確にして、出来ないと伝え、出来る部分があるのなら、してあげる。大切なのは、子どもが「自分の思いをわかってもらえた。自分は尊重されている」と感じること。子どもの気持ちをわかってあげられる大人を子どもは信頼し、大好きになります。

 また、「こうしなさい」ではなく、「私はそうされると嫌だなあ」と伝えてみましょう。すると、子どもは「大好きな人が嫌がっている。どうしようかなあ・・・」と考えるようになります。「相手の思い」と「自分の思い」を並べて、どうしようかと葛藤する。これが「心が育つ」ことにつながるのです。「教育」、「しつけ」と称して子どもに指示、命令をしても、子どもは「自分が大切にされている」とは感じられないため、無意味(下手すると逆効果)なのです。

 子どもたちにとって、そして私たち大人にとっても、安心して過ごせる社会、生きていくことが楽しい社会になることを心から望みます。





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