新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
「子どもは理解されて育つ存在です。」
初瀬基樹
これは、神田英雄(かんだひでお)先生という方が『3歳から6歳 保育・子育てと発達研究を結ぶ 幼児編』という本の「はじめに」のなかに書かれていた文なのですが、とても心に残りました。
以下、引用させていただきます。
・・・(前略)・・・
私は父親として息子たちと関わってきました。本文中にも書きましたが、わが子を見つめる親の気持ちは一様ではありません。あるときはかわいくいとおしい気持ちがいっぱいで、子どものちょっとしたミスなどは笑って許せてしまいます。しかし、子どものやることなすことがみんなダメに見えて、「なんて情けない子だろう」と落ち込んでしまうときもあります。そういうときは、子どもをかわいいと思う気持ちも失せて、ちょっとしたミスが許せず、理不尽なほど叱りつけてしまうものです。
子どもをかわいいと思っているとき、親はしあわせですし、子どももしあわせでしょう。しかし、子どもを叱ってばかりのときは、子どももかわいそうですが、親も決してしあわせではありません。
何が親の気持ちを左右するのでしょうか。
さまざまな原因があることと思います。子どもを「外の目」で見てしまうことも、原因の一つではないでしょうか。「できるかできないか」という「外の目」で子どもを見ていると、「ダメだ」「情けない」が目につきやすくなって、怒りやすくなってしまう。逆に、子どもを「内側からの目」で見て、その子の気持ちや心を洞察できたとき、いとおしさがこみあげてくるように思います。
・・・(中略)・・・
親には子どもを育てる責任が与えられています。勉強に遅れないようにしなければ、きちんと自立できるようにしなければ、自分のことは自分でやれるようにしなければ・・・。責任感があるがゆえに、「できるかできないか」に目を向けざるを得ません。それは当然のことだし、決して悪いことではありません。しかし、「できない」と感じたとき、責任感はあせりに転じて、ますます「できるかできないか」という見方にのめり込んでしまうことがあります。そのとき、子どもの心を洞察するゆとりを失い、「親と子の苦しい時間」を引き寄せてしまうのではないでしょうか。
保育者も基本的には同じだと思います。「運動会をりっぱにやらなければ」「卒園式までに、ここまで育てなければ」という責任感は、ときとして子どもを外側から見る方向に、保育者の目をぶれさせてしまいます。
子どもは、理解されて育つ存在です。自分が理解されていると思えるとき、精神的に安定し、自分を信じてちょっと背伸びをして新しいことに挑戦し、自らを育てていきます。親や保育者にとって、子どもを見る「外の目」は必要ですが、それ以上に、「内側の目」が必要であるはずです。
・・・(後略)・・・
「保育者」として、「父親」として、「ウン、ウン」とうなずくことばかりです。
うちにも二人の娘がいますが、職業柄、「子どもの気持ちに寄り添うことの大切さ」をわかっているつもりでも、わが子には、なぜこうも腹が立つのでしょうか。しばしば、かんしゃくをおこして大泣きする下の娘に対し、「なんでこの子はこうなんだろう?自分で感情をコントロールする力が弱いのかな?」と、「いい加減に泣くのを止めなさい!」と、ついついきつく叱ってしまっていました。
ところが、最近になって、今までそんなに記憶に無かったのですが、ふと自分の子どもの頃を思い出しました。多分、小学校の3,4年の頃だったと思うのですが、些細なことで姉とけんかになり、絵の具を使って遊んでいたときだったものですから、その絵の具を辺りに撒き散らし、かんしゃくをおこしてワアワア泣き叫んだことがあったのです。そのときは、ちょうどお客さんもいて、「お客さんの前でこんな姿を見せるのは恥ずかしい、マズイ、早く泣き止まなくては・・・」と、頭ではわかっているのに、自分ではもうどうしようもなく、くやしさのあまり、ワアワアワアワア泣き続けていたのです。結局、かなり時間がたって自然と気分が落ち着いたのだろうと思いますが、そのときのことを思い出したときに、「本当は娘も泣きたくなんかないのかもしれない。だけど自分の思いに反して、涙が出てきたり、怒れてきちゃったりするのかもしれないな」と思えるようになりました。
つい先日も、悪い夢でも見たのか、夜中に突然大泣きし始めたことがありました。声をかけても、抱っこしようとしても、余計に大声で泣き、暴れて、どうしてよいのか頭を抱えてしまいました。
次の日、一緒にお風呂に入りながら、「昨日の夜、大泣きしたの覚えてる?ああいうときって、どうしたらいい?」と聞くと、照れながら「ワカラン」と答えました。そこで、「ああいうときってさ、なんか知らんけど、自分ではどうしようもないんだよね。泣けば泣くほど、ますます腹が立って、余計に泣けてきちゃうんだよね。お父さんも子どもの頃、そんなことあったなあ」というと、(わかってもらえた)というようなうれしそうな表情を見せました。
「もう小学生なんだから、いい加減に・・・」などと、「外の目」で見てお説教などしなくて良かったと思いました。その後しばらくは、「パパの隣でご飯食べたい。」「パパの隣で寝たい。」ということが増えたのですから・・・。
そんなこともあったので、神田先生の「子どもは理解されて育つ存在です。」という文が心に残ったのでしょう。さらに付け加えるなら、「子どもを理解して大人も育つ」まさに「育児は育自」だなあと実感しました。
今年も、保育者として、父親としてさらに成長していきたいと思います。