子どもたちの100の言葉(レッジョ・エミリアの保育実践について)

初瀬基樹

でも、百はある。


子どもには 
百とおりある。
子どもには
百のことば
百の手
百の考え
百の考え方
遊び方や話し方
百いつでも百の
聞き方
驚き方、愛し方
歌ったり、理解するのに
百の喜び
発見するのに
百の世界
発明するのに
百の世界
夢見るのに
百の世界がある。
子どもには
百のことばがある
(それからもっともっともっと)
けれど九十九は奪われる。
学校や文化が
頭とからだをバラバラにする。
そして子どもにいう
手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい
話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい
愛したり驚いたりは
復活祭とクリスマスだけ。
そして子どもにいう
目の前にある世界を発見しなさい 
そして百のうち
九十九を奪ってしまう。
そして子どもにいう
遊びと仕事
現実と空想
科学と想像
空と大地
道理と夢は
一緒にはならないものだと。

つまり
百なんかないという。
子どもはいう
でも、百はある。

ローリス・マラグッツィ (田辺敬子 訳)


 これは、現在、世界で最も注目され、評価の高いレッジョ・エミリア保育の創設者の一人であるローリス・マラグッツィの詩です。
 レッジョ・エミリアとはイタリア北部にある小さな町(市)の名前です。このレッジョ・エミリアでは、第2次世界大戦直後、それまでの変革と圧制から解き放され、新しいより公正な世界の創造を求めて、男も女も力を合わせて、幼い子ども達のために、自らの手で学校を建てようとしました。そして、労働者、農民、当時のイタリア女性連合が力を合わせ、幼児学校が創られたのです。「すぐれた人材を育てるには、まず乳幼児から」いう理念のもとに、親ばかりでなく市民総出で運営し、幼児の創造力や、表現力を徹底的に伸ばすことを第一のモットーとしてきたのです。
 
 ある講演会で、このレッジョ・エミリアの保育についての話を聞き、とても興味を持った私は、今、少しづつですが、資料を探したりして勉強を始めようと思っています。まだまだ理解不足で、具体的なことについては、ほとんどわからない状況ですが、少なくとも、子どもが主体である保育であること、子どもとの対話を大切にし、子どもから学ぶという姿勢を持ち、子どもの限りない創造性や表現力を引き出していこうという姿勢、また、様々な人がかかわりを持ちながら一緒に子どもを育てていこうとする姿勢は、我が園の保育と共通するものです。
 さらに、私が最も感銘を受けているのが、ローリス・マラグッツィ氏が「子どもの百の言葉」と題された展覧会を開く時の「この展覧会で反対したいのは、あらかじめ何が起こるかすべて知っているという予言的な教育です。」という言葉です。あらかじめ、私達大人がわかっていること、どうなるか知っていることを子どもに教えることが教育なのではない。という点です。私もその展覧会を実際に見たわけではないのですが、資料に掲載されているレッジョ・エミリアの子ども達の絵や造形物には目を奪われました。さらに、どうやったらそうしたものが出来るのか、その過程を知りたいと思うようになりました。
 
 例えば、テーマとして「群集」を取り上げた場合、初めに子ども達は、自分たちの知っている、あるいは想像する「群集」のイメージを話し合います。「人がたくさんいると、たくさん音をたてるよ。足でいっぱい音を立てる。」「子どもは迷子になりそう。」「話したり、叫んだり、あっちに行く人、こっちに行く人もいるよ。」「女の人たちはいい匂いがする。」「綺麗な服なんか着ている人もいる。」「僕の家の前にずら〜と人が並んでいたことがある。」「テレビでたくさんの人が集まっているのを見たことがある。」などなど・・・。それをそれぞれ絵に描いたりもします。そして、子ども達から出た「群集」についてのコメントを先生が要約して子ども達に、「もう一度自分の描いた絵をよく見てごらん」と言います。すると、子ども達は、それぞれの絵を見て「みんながみんな両手を上げて歩いたりしないわ。」「みんなが同じ方向をむいて歩くこともないよ。」などと話し合います。そして、今度は一人の子どもに部屋の真ん中に立ってもらい、四方からその子を見てスケッチをしたりして、それぞれ「違った視点」があることを理解します。「目は二つあるけれど、私のところから目は一つしか見えないわ。」など。さらに、高いビルの上から群集をみたら、どう見えるかとか、群集の内側から見たらどんな風に見えるのかとか、人ごみのスライドを部屋の中に大きく投射して、その中にいるような気持ちになって遊んでみたり、自分たちが群集の一人になったつもりで男の人や女の人の役を演じて歩いてみたりもします。また、さまざまな群衆の写真を見て、その中から好きな人を一人選んで、その人が誰で、何を考え、何をしたいと思っているか想像して、その人を絵で表現してみたりもします。そして、「群衆」を表現するには絵がいいのか、粘土がいいのかなどの話し合いも重ね、実際に絵や、紙で人形を作ったりして表現してみたりします。粘土で表現してみようとした際、粘土を渡された子どもたちは、粘土で作る人物の動作や、社会的な関係をも考え、まねして、粘土に動きをつけていきます。しかし、限られた粘土の量では、当然迫力のある群集を作り出すことはできません。すると5〜6歳の子どもが「そうだ、人形の前に鏡を置けばいいんだよ!」とひらめいて鏡を置くと、粘土の人形たちがたちまち倍の人数になり、(下記の写真)「本当の群衆だ。最高の群衆だよ!」となるのです。

 これはほんの一例ですが、このように、一つのテーマにあらゆる角度から見て、考え、想像し、表現したりしていくことで、そのテーマを子ども達なりに理解していくのです。「決められた時間内に(出来るだけ早く)効率よく覚える」といった学習システムとは大きく違うことがおわかり頂けると思います。果たして、どちらが本当に子ども達のものになる学習なのでしょうか。単純にこうした方法を真似るだけですぐに良い結果が出るとは思いませんので、もっともっと勉強を重ねていきたいと思いますが、ぜひ、こうしたすぐれた実践から多くのことを学び、少しずつでも取り入れていけたらと考えています。・・・子どもたちから九十九の言葉を奪わないために。



参考文献:
 J.ヘンドリック 編著 石垣恵美子・玉置哲淳 監役 『レッジョ・エミリア保育実践入門』 北大路書房
 『イタリア/レッジョ・エミリア市の幼児教育実践記録 子どもたちの100の言葉』 学研




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