『子どものねがい・子どものなやみ 〜乳幼児の発達と子育て〜』より

初瀬基樹

 私が今読んでいる白石正久氏の著書の中から少し引用させて頂きます。

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自分の可能性を学ぶことのたいせつさ

 どんなことでも、それをできたことが、まず、子ども本人にとってうれしいことでなくてはならないと思います。すでに述べたことではありますが、「ほめて育てる」ということばを、どうも私は好きになれません。ほめることを、子育てや保育、教育の手段にするように聞こえてならないからです。子どもは、ほめられるからがんばろうとするのでしょうか。おとうさんやおかあさんが喜んでいるから、自分もうれしいのでしょうか。それでは、おとなの価値観に従属した、おとなに都合のいい存在として、子どもがつくられようとしているのではないでしょうか。

 子どもたちをみていると、このおとなにとって都合のいい存在として期待されている姿に、ずいぶん出会います。おとなにとって都合のいい存在が、子ども本人にとってうれしい存在であるとは限らないでしょう。やがて自分なりの価値観で、自分や世界を見つめようとする年齢になって、「本当の自分らしさ」がわからなくて苦しむことになってしまいます。「自分らしさを探す」ことに成功できればよいのですが、そのむずかしさが思春期の子どもたちを少なからず苦しめています。障害をもっている子どもたちの思春期には、いっそうこの「自分探し」が求められるのです。

 新しい自分に出会えたことを、素直に喜べる自分ができているでしょうか。雨上がりの青空の色に、ほっと安心させられている自分がいる。そんな、自分の感じ方に、ふと心がとまって、「わりかしいいじゃん」と自分につぶやける。自分の感じ方や考え方のなかに、「自分らしさ」を発見できるのは、幸せな気持ちになれるときです。そんな「自分らしさ」を感じ、「自分らしく」生きればよいという気持ちになれれば、子どもは、おとなの期待などにもたじろがず、自分の可能性を花開かせることができるでしょう。

 保育や教育は、子どもの内なる自然、つまり自らの可能性に気づかせ、それを学ばせるしごとでもあります。子どもが自らの可能性に心をときめかせながら、自らをつくり上げていくことへのささやかだが、価値のある指導であり援助なのではないでしょうか。


子どもの時間                                                                           

 子どもが、「自分らしさ」を見失いつつある一つの原因として、子どもにとっての時間とは何かが、おとなにみえなくなっているのではないでしょうか。

 子どもの生活や遊びをみていると、同じことを飽きもせず続けている姿に、おとなが辟易することがあります。乳児のある時期に、入れ物から出すことばかりを、なぜくりかえすのでしょうか。あるいは、一歳児は、なぜ飽きもせず器から器に移しかえる砂遊びに興じているのでしょうか。そして、二、三歳児のマルのファンファーレ(※紙に○をいっぱい描くこと)は、いつまで続くのでしょうか。そして、なぜ一歳児はだだこねばかりをくりかえし、二歳児は反抗ばかりをするのでしょうか。

 これまで述べてきたように、ある年齢を特徴づける子どもの活動には、みんな意味があるはずです。大きくなるために、どうしてもその活動が必要なのです。飽きることなく出す活動も、やがて出すばかりではなく、器に入れることを学んでいくための準備運動でもあるのです。あるいは、飽きることのないマルの羅列も、伝えたいことを載せるベルトコンベアー作りだったのです。だだこねにも反抗にも、自我をつくるというたいせつな意味が込められています。

 子どもの一つひとつの活動には、今の自分を精一杯楽しむという「今の豊かさ」が表現されています。そしてその今を豊かにすることが、必然的に子どもの「未来の豊かさ」をつくるという、「発達のつながり」が潜んでいます。しかも、今と未来のために、子どもは必要なだけその活動を続けようとする自然な法則があります。その今と未来を豊かにしようとしている子どものたいせつな時間を、おとなが不必要なこととして取り上げてしまったり、別のことに使わせようとすることはできないでしょう。時間はおとなのものであるとともに、子どもも時間の所有者なのです。子どもたちの「今」が、子ども自身が考えられない、将来のためだけに使われてはなりません。

 しかも、この子どもが必要としている時間は、一人ひとりによって異なります。今と未来を豊かにするために必要とする時間も異なれば、ある一つの活動ができるようになるために必要な時間も異なります。時間は時計で計れるように、子どもの外に存在している客観的な存在ですが、一方で子どものなかにも、時計では計れない時間が存在しているのではないでしょうか。その一人ひとりの時間をたいせつにする姿勢が、おとなには求められます。その主観的ともいえる時間の存在を知ること、いいかえるなら、一人ひとりの子どものなかにある時計は、皆同じではないのを知ることは、子どもが「自分らしさ」を自ら受け入れていくために、たいせつな助けになるのではないでしょうか。

 人間は、社会が成り立つために必要な客観的時間と、自分を発達させるために必要な自分のなかにある主観的時間の矛盾のなかで、自分らしい生活をつくっていく存在なのです。

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 あえて、説明するまでもありませんが、子ども時代は決して大人になるための準備期間ではないということです。子どものすることには何一つ無駄なことはないのです。子どもは「今を生きる」存在です。そのとき、そのときを精一杯楽しく生きることが、後々の豊かな人格形成につながっていくということをしっかりと肝に銘じておきたいと思います。

 保育園もそろそろ新年度に向けて準備をはじめています。現在の保育内容、保育の形態も見直す必要があるのではということで検討を重ねています。来年度から、少し保育が変わるかもしれません。いまの子どもたちにとって本当に大切なことは何か、この乳幼児期にどんな力を身につけていけば良いのか、しっかり見極めながら、よりよい保育を創りあげていきたいと思っています。




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