「子ども」という時代をどうとらえるか?

初瀬基樹

 先日、10年ほど前に発行された保育者向けの雑誌を読み返していたところ、児童文学者の古田足日さんという方が書かれている「子どもが『今を十分に生きる』ことの意味」という文章が目に留まりました。全文掲載したいところでしたが、そういうわけにもいきませんので、内容を簡単にご紹介します。
 

「早く、早く」とブラブラ権
 “しかたしん”という児童文学者が、ある会報に、「芸術文化を享ける権利とブラブラ権」という題名の文章を書いていたそうで、そのなかに、日本人の家族連れの旅行者と付き合いのある外国人が、初めに覚える日本語は「ハヤク、ハヤク」だという話や、「子どもの権利条約三一条は、演劇、文学など、子どもの文化の享受権を規定した大事な項目だが、そこには同時に『休息及び余暇』についての規定がある。つまりブラブラとする権利である。子どもは、ブラブラぼんやりとしていていいのだ」という文章が載っていたということが紹介されていました。

 古田さん自身も、「早く、早く」「わかった?わかった?」「宿題やった?」とせかされる子どもたちを主人公にした本を何冊か書かれているそうですが、それぐらい、日本では(20〜30年ぐらい前から)、子どもたちが「早く、早く」とせかされ続けているようです。


準備の子ども観

 なぜ、子どもたちがそんなに「早く、早く」とせかされるようになったかというと、一つは、わが国が「競争社会」であり、その「競争社会」のなかで、大人たちが、子ども時代を「大人になる準備の時代」としてしかとらえなくなってきていることが考えられます。

 子ども時代を「大人になる準備の時代」と考えてしまうと、「どんどん勉強をやれ」ということになります。「子どもが将来豊かに暮らせるためには、ある程度、今を犠牲にして勉強しなければならない」という考えになります。いい成績を取って、いい学校に入って、いい会社に入ると収入は豊かになると・・・。そういう考えがもとになって、子どもをせきたてることになったのではないかというのです。古田さんは、この考えを「準備の子ども観」と言っておられます。


子どもだからこその時期
 「今」という時間をどう考えるか。大人は、子どもの「今」を将来への準備と考えがちですが、「今」というのは、将来のためにだけあるわけじゃなく、それ自体かけがえのない時代で、ことに子どもにとってはそうなんじゃないか。子どもだからこそ、この時期を十分に生きるということが大切なのではないか。その「子どもだからこその時期」というのは、可能性がいっぱいあって、まだ定まってはいない。爆発しそうに自分の体いっぱいにそれが詰まっている時期。そして、「大人とは少し違った考え方、感じ方もすることができる時期」なのです。
 
 一方で、準備の子ども観は、「子どもは未熟だ」と見ることと重なっているのではないでしょうか。確かに、子どもにはいろいろ「できない」状態が多いわけです。ですから、それが「できる」ようになったとき、本当に子どもは喜びます。しかし、「発達」ということは、単に「できない」から「できる」ということなのでしょうか。実は、それは、ある面を伸ばして、ある面を捨てることでもあるのではないか?とも言っておられます。


「ママに会いたくて生まれてきた」
 幼稚園、保育園の子どものつぶやきを掲載した本のなかで紹介された、3歳の子どもの言葉
 「あのね、ママ。僕、どうして生まれてきたか知ってる?僕ね、ママに会いたくて生まれてきたんだよ。」
 こういう発想は大人には出来ません。「大人になる」ということと、「発達していく」ということは、実は「こういう感覚を失っていく」ということなのです。そうすると、その面で言ったら、「大人は退化している」わけです。こうした、「子ども性」とか、「子どもらしさ」というものを包み込んでの成長というものを考えなければならないのではないでしょうか?「子どもだからこそ持っているもの」を大切に考えたいのです。
 

子ども時代に子どもの特質を
 はじめに「ブラブラ権」のことを紹介しましたが、古田さんはむしろ、「ゆったり権」「道草権」という方がいいのではと言っています。大人は目的に向かってまっすぐ進むけど、子どもは途中でいろんなものに興味を示し、珍しいものに立ち止まってしまうものなのだと、そういう姿は、子どもの時期の一つの特質ではないか、そうしたことを子どもがもっと経験することが大切なのではないかと。つまり、「子どもとはそういうものだ」と思えばそんなに腹も立たないのではないかというわけです。
 そのほかにも、子どもの成長に必要なものとして、「友達を求める心」、「みんなと群れて遊ぼうとする欲望」、「好奇心」、「冒険家」、「一人で哲学的な命題を思索する態度」などなど、こうしたものを満たしていくことこそが、子どもの生活のあるべき姿だといっておられます。


生きている喜びの実感
 生きている喜びを実感するには、「自然と触れ合い、自然と関わり合って生きる」という直接体験が、幼い子どもの時代には相当大切です。
 そして、そうした体験を、現在では出来るだけ気をつけて意識的に作りださなければいけない。土を掘ったり、水と遊んだり、体を十分に動かすということ、これがとても大切で、そのなかで「生きている」ということを子どもも実感できるのです。小学校の高学年になれば、算数の難しい問題を解いたり、理科の実験などをやったりすることも、すごくおもしろいことになり、知的な操作や、知的なものによる体験も生きる喜びにつながっていきます。さらに絵本や芝居や、人形劇など、「いろんな物語を間接的に体験すること」にも生きている喜びがあるといいます。


保育園の可能性
 大人になっていく過程で、思春期など、すごく不安定になる時期があるものですが、そうした時期に「自分は自分なんだ」と自分を肯定的に見ることが出来るためには、幼い頃から、「無条件で成長を喜ばれた」という原体験みたいなものが、どれだけ蓄積されているかがすごく重要であり、付け加えるなら、成長を喜ばれたということだけでなく、「どれだけ自分自身が生きている喜びを実感し、積み重ねてきたか」ということも大事なのだそうです。
保育園というのはそういうことの出来る場、「今を十分に生きる」ということが実現できる場です。そこで子どもが、もっともっと可能性を発揮するということを追求していきたいと古田さんは言っておられるのです。


 要約しすぎて、わかりにくいところもあったかもしれませんが、私の考えていることがまさに表れている文章でしたので、ぜひとも紹介したかったのです。
 子ども時代は、「大人になるための準備期間」ではなく、その年齢、その年齢で、大切にすべきことは違うのだと思います。特に小学校に上がる前のこの幼児期には、「今」を心から楽しんでほしい。「生きるって楽しい」ということをしっかりと心に刻みつけ、いろんなものに「興味や関心、好奇心」を育み、そしてそれがさまざまな「意欲」へとつながっていってほしい。それと、「自分を大切に思う心」を育て、「人への思いやり」も持てる子どもに育ってほしいと願っているのです。


 
参考文献
子どもの文化研究所 『子どもの文化‘96年7+8月号 子どもの文化学校 理論+実践ミュージアム』





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