倉橋惣三『育ての心』
初瀬基樹
倉橋惣三という人は、日本の幼児教育の基礎を築いたと言われる人で、大正、昭和期に活躍した幼児教育学者です。その倉橋惣三氏の『育ての心』という本を改めて読んでいるのですが、なんだか、今の日本の幼児教育、学校教育は、倉橋先生の思想から、だんだん離れた方向に向かっていっているような気がしてなりません。
少しご紹介します。(以下、フレーベル館『育ての心(上)』倉橋惣三より引用)
序
自ら育つものを育たせようとする心。それが育ての心である。世の中にこんな楽しい心があろうか。それは明るい世界である。温かい世界である。育つものと育てるものとが、互いの結びつきに於て相楽しんでいる心である。
育ての心。そこには何の強要もない。無理もない。育つものの偉(おお)きな力を信頼し、敬重して、その発達の途に遵うて発達を遂げしめようとする。役目でもなく、義務でもなく、誰の心にも動く真情である。
しかも、この真情が最も深く動くのは親である。次いで幼き子等の教育者である。そこには抱く我が子の成育がある。日々に相触るる子等の生活がある。欺うも自ら育とうとするものを前にして、育てずしてはいられなくなる心、それが親と教育者の最も貴い育ての心である。
それにしても、育ての心は相手を育てるばかりではない。それによって自分も育てられてゆくのである。我が子を育てて自ら育つ親、子等の心を育てて自らの心も育つ教育者。育ての心は子どものためばかりではない。親と教育者とを育てる心である。
子どもたちの中にいて
ひきつけられて
子どもがいたずらをしている。その一生懸命さに引きつけられて、止めるのを忘れている人。気がついて止めてみたが、またすぐに始めた。そんなに面白いのか、なるほど、子どもとしてはさぞ面白かろうと、識らず識らず引きつけられて、ほほえみながら、叱るのをも忘れている人。
実際的には直ぐに止めなければ困る。教育的には素より叱らなければためにならぬ。しかも、それよりも先ず、取り敢えず、子どもの今、その今の心もちに引きつけられる人である。
それだけでは教育になるまい。しかし、教育の前に、先ず子どもに引きつけられてこそ、子どもへ即(つ)くというものである。子どもにとってうれしい人とは、こういう先生をいうのであろう。側から見ていてもうれしい光景である。
今の世の中は、「あたたかなまなざし」、「寛容さ」、そのようなものがだんだんと少なくなり、子どもたちから「子どもらしさ」を奪い、まるで「小さな大人」を大量生産しているような気さえしてきます。
私が小学校の低学年だったころ、当時は長野に住んでいましたが、学校でドッジボールが流行った時期があって、休み時間になると、みんなで体育館に行ってドッジボールをしていました。担任の先生も一緒に交じってやっていたのですが、盛り上がってくると先生は次の授業を潰して、そのままドッジボールをやり続けるということが度々ありました。そんな話を娘たちにしたところ、「(今では)絶対ありえん!」と口を揃えて言っていました。ずいぶん前のことなので、私の記憶も定かではありませんが、ドッジボールで授業が潰れたからといって、勉強が遅れて困ったなんてことは、おそらくなかったでしょうし、反対に「ああ楽しかった~」と満足して教室に入り、その後の授業には、より集中して取り組めたのではないかと思います。
教育者には、知識や技術も必要ですが、やっぱり子どもたちから好かれる、尊敬される、喜ばれるといったことが一番重要なんじゃないだろうかと思います。子どもは「あんなふうになりたい!」と憧れを持てば、言われなくても一生懸命努力しますし、大好きな人が言うことや教えてくれることは、しっかりと心に刻んでいくものだと思います。私たち子どもにかかわる大人は、何より「子どもにとってうれしい人」でありたいと思います。
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