『心に添う』ということ
(柴田愛子『もっと話したい子育ての楽しさ』りんごの木より)
初瀬基樹
わが家には中学生の娘が2人います。中学生ぐらいになると、娘は父親を煙たがって会話が無くなり、近寄らなくなる・・・なんてよく言われますが、幸いなことにわが家の娘たちは今のところ、そんなことは無さそうです。(そう思っているのは私だけかも・・・?)
最近では、ずいぶん少なくなってきましたが、それなりにいろんな出来事があり、子どもたちが困難にぶつかったとき、親としてどうすべきか悩むこともあります。数年前になりますが、クラスの男の子から体の特徴をからかわれ、変なあだ名をつけられて悲しむ娘の姿に、自分のこと以上に胸を痛めたものです。
そんなときに頭に浮かんだ文章がありました。はっきりとは覚えていなかったのですが、「子どもには子どもたちの世界がある。どんな子どもも、それぞれにいろんな荷物を背負っている。親(大人)は、そんな子どもたちの姿を見ても、代わりに背負ったり、中身を見て、捨てたりすることはできない(してはいけない)。ただ、『重そうだね』って言いながら温かく見守ってやることはできる。」というような内容で、誰の何という本だったかなと曖昧な記憶のままでした。
結局、そのとき私は娘に対し、アシュリー・ヘギちゃんという、難病を抱えながらも常に明るく、みんなを励まし、まわりに勇気を与え続けた女の子の著書『アシュリー』を「これ、読んでごらん」と言って渡すぐらいのことしかできませんでした。それが少しでも慰めになってくれていたのなら幸いですが・・・。とりあえず、そのときの娘の問題は妻や担任の先生のおかげで無事解決しました。
さて、話がそれてしまいましたが、そのときの文章を最近になって見つけました。柴田愛子さんという方の著書に出てきた話で、おそらく講演会でも聴いていたのだと思います。久しぶりにその本を開いてみると、また新鮮な気持ちで読むことができました。
少し、ご紹介したいと思います。
子育て中のおかあさんや、子どもにかかわる仕事をしている方には、基本として、子どもの心に添うということを忘れないでほしいと思っています。
おかあさんがこどもをしかるときに、「どうしてそうなの」「どうして、そういうことをするの」「なんど言ったらわかるの」って、どなっている光景をよく見ますけれど、子どもだって「どうしてなのか」は、わからないんじゃないかしら。どうしてだかわからないけど、そうしちゃうのよね。
けれど、どうしてだかわからないけど、とりあえず、こどもがどんなことを感じているのか、どんな気持ちでいるかを受け止めることで、こどもがわかってくるような気がするんです。
(・・・中略・・・)
もちろん、年中は無理ですから、ちょっと、こちらに余裕があるときに努力してみるんですけれど、そうすると「どうして」の中身が見えてきたりすることもあります。どうしたらいいかわからないとき、糸口が見つかることもあります。
(・・・中略・・・)
こども、いえ、人間は自分を受け止めてくれる人がいたとき、本来の自分の元気をとりもどして、前を向いて歩きだすことができるんじゃないでしょうか。
おとなの私だって、愚痴を愚痴として聞いてくれる人がいるだけで、ほっとします。愚痴を聞いてくれた人が、どうにかしてくれなくてもいいんです。
2歳ぐらいのこどもが、公園で他の子とおもちゃの取りあいをして、泣いて親のもとに帰ってくる。ひざの上に抱きかかえると、一瞬、ワァーンと泣き声は大きくなるけれど、やがて泣きやんで、もぞもぞして自分からひざをおりて、また他のこどものほうに向かっていくでしょ?そのまま一時間も二時間も抱きかかえられたままのこどもなんていないでしょ?あれですよ。
こどもが親の手の届かない社会をもったときから、そう、幼稚園や保育園に行くようになってから、親にはわからないことがいっぱいになってきますよね。
こどもが元気がない。でも、なぜかはわからない。理由を聞いても、こどもは頭で整理してちゃんと話せないし、整理できないことも多いですからね。
そんなときも「元気がない」ということを受け止めるんです。
ラジオの電話相談で、こんなことを耳にしました。
こどもは親の見えないところに行ったときから、みんな、なにかしらお荷物を持っているんです。でも、残念ながら、その荷物をとりあげて中身を見て、処分してあげることはできないんです。親にできるのは「あんたの荷物、重そうだね」って言ってあげることぐらいなのです。
そう、だから、こどもをよく見てください。そして、こどもの荷物が軽いのか重いのか感じられる親の感性を持ち続けてください。「なんか変」「なにかあったのかしら」と感じたら、こどもの好物でも食べるとか、いっしょにお風呂に入ってぬくもるとか、ちょっとやさしくしてあげてください。根ほり葉ほり問いただすのではなく、ともかく、心をやわらかくしてあげましょう。そして、こどもからしゃべりだしたら、ゆっくり聞いてあげましょう。
親だからこそ、こどもの先が心配になって、足元のこどもの気持ちが見えなくなってしまうことって多いと思うんですけれど、親だからこそ、こどもの心を感じてあげてほしいのです。
心に添うということを、お話するときに気をつけたいと思っていることがあります。
そのひとつは、こどもを飲み込んでしまってはいけないということです。
こどもの気持ちを思い、親が先に手出しをしてしまうことです。
わかりやすく例を出してみると、こどもがじっと他の子のおもちゃを見ている。おかあさんは『うちの子、あのおもちゃが使いたいって思っているわ』と、気持ちに添って「それ、ちょっと、うちの子に貸してくれる」と、お母さんが言いに行ってしまう。
幼稚園で劇あそびがあるとします。先生から与えられた役がウサギ。でも、家でこどもは「ウサギはいやだ。カエルがいい」と言ったとします。「じゃあ・・・」といって、おかあさんが先生のところに行き「うちの子をカエルにしてください」って言ってしまう。
この場合は、「カエルになりたいのかぁ」と、まず、受け止めて、「自分で先生に言ってみるか、ちょっとがまんするか、どっちにするかねぇ」止まりです。
あくまでも『添う』というのは、別人格の人と人が寄り添うということなんです。
こどもの領分まで踏み込んで、出しゃばっちゃいけません。
(・・・中略・・・)
もうひとつ、『添う』ということは、親としての意見を言ってはいけないということではありません。「おまえの気持ちはわかるけど、お母さんなら…と思うわ」で、いいんです。そして、ときには「おまえの気持ちなんて考えていられるかぁ」ということがあったっていいんです。
いつもいつも「おまえの気持ちなんて考えていられるかぁ」と言われちゃたまりませんけど、それぞれの価値観でこれだけは許せないということは踏ん張ってくださいね。
だって、この頃、「しかったほうがいいですか?」という質問を受けるんです。いいか悪いかなんて考えなくちゃならないようなことなら、しからなくてもいいんじゃないって思ったりするんですが、「どうも、万引きをしているみたいなんです。受験を控えているんですが、しかったほうがいいでしょうか」なんていうのもあります。
カウンセラーの人から聞いたのですが、今のこどもはゲーム感覚でワルをする。悪いという自覚がないので、捕まったときにも平然としている。親に連絡すると、やってきた親は80パーセントが「なにかの間違いじゃないですか。だれか、悪い友だちに誘われて」と言う。そして、つぎに「学校に知らせるんですか?」さらに「いくら出せばいいんですか」とくるそうです。
ちょっと、どうかしていませんか?
頭で子育てするんじゃなくて、もっと、心を動かして子育てしてほしいと、つくづく思います。
ちなみに、私が、こどもに添っている場合じゃないと、ほとんど考える暇もなく一方的にしかるのは、命の危険があるあそびをしているとき、お金を盗んだとき、人を差別したり侮辱したりする行為をしたときくらいです。
(柴田愛子『もっと話したい子育ての楽しさ』りんごの木より)
いかがでしたでしょうか?
「子育て」って悩みの連続ですよね。「これが絶対正しい!」なんて子育て(保育)は存在しません。子どものためを思ってやることが、実は子どものためになっていなかったり、周りから見れば、「子どもがかわいそう」に見えたとしても、実は子どもにとって良いことだったりするのかもしれません。
先日、研修で聞いた話ですが、フランスの保育士と日本の保育士がお互いに保育の様子をビデオで見せ合ったらどうなるか?
日本の場合、0歳の子が泣くとすぐに保育士が駆け寄って抱っこし「○○だったのね。」と子どもの気持ちを代弁して声をかけるのが一般的ですが、そんな姿をみて、フランスの保育士たちは「あんなに早く抱っこしたら、子どもは自分が何で泣いてるのか気付けないじゃない!」と言うのだそうです。フランスでは子どもが泣いても、しばらくそのまま。だから、そんな姿を日本の保育士が見たら、「子どもが泣いてるのに、なんで放っておくの?」って感じなのだそうです。文化の違いなのでしょうね。さらに4.5歳児の様子を見ると、日本の子どもが友だちとケンカしているときに、泣きながら、チラチラ保育者を見るのに対して、フランスの子は保育士なんかには目もくれずに、ケンカしている相手に向かって自分が何で腹を立て、何で泣いているのかを必死で伝えようとしているというのです。・・・考えさせられますね。
どちらが正しいというものでなく、文化の違い、考え方の違いなのでしょうけど、何を大切に考えるかで対応は変わってくるのです。
子育て(保育)の方法は、永遠に曖昧なものなのかもしれません。行きつ戻りつ、子どもの姿をよく見ながら、その時々で何を大事にしたいのか、何を育てたいのか、複数の目で見て考え、かかわっていくものなのでしょう。
|