ART(アート)の時間
初瀬基樹
つくし組は、お昼寝の時間を「年長の時間」として様々な活動をしてきました。木曜日は私が担当する「アートの時間」。「アートの時間」というのは、私が勝手にそう呼んでいるだけなのですが、初めは「絵の時間」と言ったりもしていました。しかし、「絵」にこだわらず、いろんな活動もしたいなと思い、「造形?」「製作?」「図工?」「美術?」「芸術?」「表現?」・・・いろいろ考えてみたのですが、どれもしっくりこなくて、全部ひっくるめて「ART(アート)」にしようと思ったのです。
クラスを持っていない私にとっては、子どもたちと直接かかわりが持てる楽しみな時間でもありました。何より、私は、小さいときから、絵を描いたり、モノを作ったりするのが大好きで、保育士になる前は「工業デザイナー」になりたいと思っていたほどでしたので、私自身が一番楽しみにしていたのかもしれません。
来週からの作品展で、この「アートの時間」の作品も展示しますので、各クラスの作品と併せて、ぜひご覧頂きたいと思います。
子どもの内側にある様々な表現を引き出すのは、本当に難しいと感じています。私たち大人はどうしても子どもを枠にはめようとしてしまいます。大人好みの表現だけを子どもから引き出そうとしてしまいます。「できるだけ枠にはめないように」と思ってかかわってきたつもりですが、なかなか手が出ない子に対しては、つい、「こうしたら?」「ああしてみたら?」と声をかけてしまっていました。「子どもが何をどのように表現したいのかを見極めて、その援助をしたい」と思うのですが、子ども自身が、自分が何をどう表現したいのかをつかめていないこともよくあるので難しいのです。保育では「導入」という言葉を使いますが、いかに子どもたちにイメージを湧かせるか、楽しみにできるか、やってみたいと思わせるかがポイントです。年長児ともなると、すでに自分の中で「得手、不得手」、「上手、下手」という価値観(思い込み)が出来ていますので、自信のないことにはなかなか取り組めなかったりもします。
そもそも、絵や造形物に「上手」、「下手」はあり得ないと私は思っています。見る人が「好き」か「嫌い」か、単にそれだけなのだろうと思います。技術的に言えば、上手、下手があるのかもしれませんが、「技術的に優れている作品」が「良い作品」とは思いません。むしろ、「自分の思いが存分に表れている作品」のほうが素敵だと思います。描いた(作った)本人が満足していれば、それでいいと思います。とはいえ、私たち大人は、子どもが「できた!」と作品を持ってくると、条件反射のように「じょうずに出来たね。」と声をかけてしまいます。それはそれで、子どもを認めるという点では、悪いことではないと思いますが、子どもにとってみれば、もしかしたら、「本当はもっとうまく描けるのに、今日はうまく描けなかった」など、いろんな思いを抱えているかもしれません。なんでもかんでも「上手!上手!」とほめることは、3歳ぐらいまでなら通用するかもしれませんが、4,5歳になると返って「自分のことをしっかり見てくれていない」と不信感を募らせることにもなりかねません。ですから、私は、「この部分がのこういうところ好きだなあ。」と声をかけるようにしています。
さて、保育園の食事ルームに飾っている詩を読んだことがありますでしょうか?
世界的に注目され、評価の高いレッジョ・エミリア保育の創設者の一人であるローリス・マラグッツィの詩です。(レッジョ・エミリアとはイタリア北部にある小さな町(市)の名前)数年前にも、この「からたち」で紹介しましたが、もう一度、紹介させて頂きます。
でも、百はある。
子どもには
百とおりある。
子どもには
百のことば
百の手
百の考え
百の考え方
遊び方や話し方
百いつでも百の
聞き方
驚き方、愛し方
歌ったり、理解するのに
百の喜び
発見するのに
百の世界
発明するのに
百の世界
夢見るのに
百の世界がある。
子どもには 百のことばがある
(それからもっともっともっと)
けれど九十九は奪われる。
学校や文化が
頭とからだをバラバラにする。
そして子どもにいう
手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい
話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい
愛したり驚いたりは
復活祭とクリスマスだけ。
そして子どもにいう
目の前にある世界を発見しなさい
そして百のうち
九十九を奪ってしまう。
そして子どもにいう
遊びと仕事
現実と空想
科学と想像
空と大地
道理と夢は
一緒にはならないものだと。
つまり
百なんかないという。
子どもはいう
でも、百はある。
ローリス・マラグッツィ (田辺敬子 訳)
年長児作成
鬼のお面
(鼻の形など写真では立体的に見えないのが残念・・・)
自画像
(卒園アルバムの表紙に使う自画像 それぞれとっても個性的)
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