二つの子ども観

初瀬基樹

 保育者向けの機関紙(『現代と保育』69)を読んでいると、以下のようなことが書かれていました。

 OECD(経済協力開発機構)加盟国で、「小学校入学前の子どもたちの保育や福祉に対して支出する財政規模(GNP比)」を比べたところ、加盟国28カ国中、日本は24位だったそうです。(『人生の始まりを力強く Starting Strong』2001年にOECDが世界各国の保育政策を分析した報告による)

 低いとは聞いていたけれど、こんなにも低かったんですね。わが国には、「少子化」「育児不安」「乳幼児虐待」などなど、子どもに関わる問題がたくさんあるにもかかわらず、なかなか解決できない(解決できないどころか、悪化している?)のもうなずけます。
 
 このOECDの報告書では、「世界には、『対照的な二つの子ども観』があり、その国の政府が、いずれの子ども観を基本にするかによって、保育政策のあり方が大きく違ってくる」と指摘しています。
 
 第一の子ども観は、激しい競争の時代にあっては「早くから学習のための準備を幼児期にしておかなくてはならない」、だから「未来への準備、学校への準備」をさせるのが保育・幼児教育の何よりの目的だとする見方です。これを「準備期としての子ども」観と呼びます。
 
 それに対して、第二の子ども観は、子ども時代を「準備期」ではなく、「それ自体が重要な意味を持つ人生の最初の段階」と見る立場です。
 オーストラリアのある州の保育指針の一節では、「子どもたちは、この社会の中で、今を共に生きるひとりの市民です。子どもたちの生活と学習と発達に対する投資は、未来の見返りを当て込んでのものではありません。今、ここに生きている子どもたちそのものが大事だとかんがえてのものです」という子ども観です。
 
 真に子どもを大切にする政府を創る原動力は、「準備期としての子ども」観ではなく、子どもを「一人の市民」をしてとらえる子ども観、「今、ここにある生活そのものこそ大事」という保育観にあると報告書は述べているというのです。

 考えさせられました。私自身、子どもは「今」を生きる存在であり、「今を大事に」と言いながら、どこかで、それは「将来のため」という思いもどこかにあることを否定できないのですから。

 先日参加した研修会でも、こんな話を聞きました。

 「教えられることが過剰になると、学ぶことが少なくなる。」
  (過度な偏った教育は学ぶ意欲をなくさせる)
 
 「要求が発達の原動力である」
  (やりたいと思ってやることが力になる)

 たとえば、目的地まで移動するのに、飛行機や電車を使えば早く着くことはできますが、車や自転車、または、歩いて目的位置へ向かうのと比べてどうなのでしょうか?早く着くことが本当にいいことなのでしょうか?早く着くことだけを目的にしていいのでしょうか?休憩したり、寄り道したり、のんびり、ゆったり目的地に向かったほうが、結果的に豊かなものが得られることも多いのではないでしょうか?

 今の日本の社会は、とにかく、わき目もふらずに先へ進むことばかりが求められている気がします。先ほどの、子ども時代を「準備期」ではなく、「今、ここにある生活そのものこそ大事」と見れば、子どもたちが、自分の人生を歩みながら、いろんなものを見て、感じて、しゃべって、寄り道したり、休憩したり、遊んだり・・・と感性を豊かにしながら、ゆっくりじっくり成長することが出来るのではないでしょうか。そして、大人の側も「早く!早く!」と子どもを急き立てることなく、ゆとりを持って、子どもが自らの力で育っていくのをゆっくり構えて、温かな目で見ていられるのではないかと思うのですが。

 みなさんはどう思われますか?

<参考> 『現代と保育』69号 ひとなる書房 
(巻頭論文 大宮勇雄 『レッジョ・エミリアやニュージーランドの保育者には「子ども」がどのように見えているのだろうか』)




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