ガクモンのススメ

      21世紀を楽しく生きよう

 

 

 

                            

 

 

 

                            

 

 

                                                                      

 

 

 

 

市吉 修  著 

                                                                       (西暦2000春)

 


 

 

 

ガクモンのススメ

 

目次

 

1.                      新学問のススメ

 

2.                      社会経済の基礎

 

第三章 二十一世紀企業へ

 

第四章 歴史的現代に生きる道

 

第五章 二十一世紀企業人のあり方

 

第六章 帰りなむいざ、田園まさに荒れむとす

 

第七章 二十一世紀の世界

 

 

 

学問立国、人間交流、国民共立、産業興隆

独創共学、学問畢生、生涯現役、独立共成

人生多難、命運転変、一生問学、自立開運

学問立世、汎人間網、到所人生、安心立命

(2002正月)

 

 

 

 

 

 

 


第一章 新学問のススメ

             

福沢諭吉の「学問のススメ」は明治時代の日本人に大きな指針を与えた。永い鎖国の後に海外からの圧力によって門をこじ開けられるが如くにして開国した日本人には当時の海外事情は正に驚天動地の驚きであった。永い鎖国の眠りから目を覚ましてみると、世界は西欧の列強国によって余す所なく分割され、漢学者にとっては聖賢の国たる中国すらも半植民地状態にあった。福沢の学問のススメは日本国民の寝ぼけ眼を覚まし、西欧列強の植民地主義から如何に国を守るべきかを説く警世の書であった。モクモクと黒煙を吐く黒船とそれに積まれた大砲の威力によって彼我の技術力の差を見せ付けられた日本人は明治の世になって西洋諸国の事情がより良く分かるにつれてその差の大きさをますます思い知らされる事になった。伝統的な日本文化の評価が極端に低くなり貴重な美術品が数多く海外に流出した。舶来の文化に対する盲目的な信仰から日本語の廃止と英語の採用を説く人すら出たほどである。幕藩体制の下で人々を縛り付けていた士農工商の身分制度は明治維新によって廃止され、四民平等の世の中になった。多数の武士が一挙にその特権的身分を奪われて、各々自立せねばならぬ事となった。福沢諭吉もその一人であり、彼は喜んで武士の身分を捨てたのである。帝国主義の世界の中で如何に日本という国を成り立たせて行くべきか深く考えた福沢の思想は国が成り立つにはその国民が等しく自分の足で成り立たなくてはならぬという事であった。学問のススメの冒頭の文「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」は永い間身分制度の社会に生きてきた当時の人間には如何に新鮮に響いた事であろう。更に福沢の考えは人が自立するには学問をせねばならぬという事であり、これが彼をして「学問のススメ」を世に問わしめた動機であった。

              然らば私はなぜ今「新学問のススメ」等と大層な題の本文を書いているのであろうか。それは世紀末の現在がある意味では幕末から明治の頃に似ていると考えるからである。日本は第二次世界大戦後の荒廃から驚異的な経済復興を遂げ既に1970年代には国民総生産が米国に次ぐ経済大国となった。 Japan as No.1という本がベストセラーになったのもこの頃である。地下資源に乏しく狭い国土に一億人もの人口がひしめく日本がどうしてかくも豊かな国になり得たのであろうか。その要因としてはよく「日本式経営」が挙げられる。日本式経営の特長としては先ず終身雇用が挙げられる。しかしながら最近の十年間に日本式経営は大きな曲がり角に突き当たっている。日本経済の高度成長が終わりを告げた十年ほど前に大企業の中に窓際族なる管理職が生じた。窓際族とは地位はあるが部下はいない管理職である。それは経済成長が鈍化した社会で日本式経営を続けると当然生ずる事態である。同様な事例は我国の歴史において戦国時代から江戸時代にかけての頃に見られたと思う。即ち世が太平になって仕事がなくなっても数多くの武士を家臣として雇用し続けた幕藩体制の抱える矛盾である。士農工商の身分制度の最高位とはいっても江戸の時代が下がるにつれて武士の生活貧窮はますます著しくなった。幕藩体制を維持するためには農民への収奪を強める他は無く正に「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」六公四民と呼ばれるほどの激しい収奪の下で、農民はできた米は殆ど年貢に取られて自分は粟、稗等の雑穀を食べ、間引き等の悲惨な人口調節を余儀なくされた。江戸時代を通じて日本の人口は殆ど増えず経済は停滞して何回となく悲惨な飢饉を繰り返した。福沢をして「門閥制度は親の仇」と言わしめた息の詰まるような身分制度は明治になると廃藩置県によって一挙に崩れ去った。同様に今膨大な社内失業者を抱えて沈滞した空気の淀む日本の大企業も大競争時代と呼ばれる海外企業との激しい競争裡に根本的な変革を迫られている。企業の変革とそれに伴う大量の失業という意味で現代は幕末から明治にかけての時代と類似しており、福沢諭吉の「学問のススメ」から学ぶ点は多々あると思われる。

              人の自立が国家の発展の基礎であり、それには学問が必須であるという福沢の思想は今日において もそのまま正しいと思う。学問は人の自立の基なり。帝国主義の時代にアジア、アフリカの地域が悉く西欧の列強国によって植民地化され、厳しい搾取の下に社会の発展を著しく阻害されていた中で日本だけが例外的に近代文明を己が物にして世界の強国の一角を占め得たのは何故であろうか。私はその解の一つは教育、しかも福沢の慶応大学をはじめ、新島襄、津田梅子、大隈重信等の先覚者によって設立された私立大学の存在にあったと思う。広大な国土と巨大な人口、永い歴史と高い文化を有するインドが近代においてはイギリスの植民地と成り果て遂には大英帝国に併合されて、そのクビキの下に長らく申吟したのは何故であろうか。複雑なカースト制度によって社会的に分裂していたインドの支配層が子女をイギリスのオクスフォード、ケンブリッジ等の名門大学に留学させ高等教育を受けさせる事によって却って社会の分裂を深めてしまったからではないかと思う。教育の貧困は即ち国家の貧困なり。私立大学は言うまでもなく学生の支払う月謝のみが収入源であるから経営はなかなか大変である。その代わり学問の本質たる自由がある。他方国立大学は国庫の補助によって経営は安定しまた月謝を低くする事ができるため国民に教育の機会均等を保証する上では確かに意義があるが、やはり国家の制約を受けやすい事は否めないであろう。またどうしても自立の精神が弱くなり、反対に国家の権威にすがる傾向が生じ易いこともうなづけるであろう。実際福沢は欧米の大学に官費留学して帰国したいわゆる洋行帰りが官界ばかりに入っていく傾向について警告を発しているのである。国家にとって政府の果たす役割が極めて大きい事は言うまでも無い。しかしながら国を支えて成り立ち行かせるのは政府ではなく、その国民である。国富を生産するのは国民であり、政府は国民が内に秩序を保ち外に外交と防衛を行うために結成する一つの機構に他ならない。経済的に見れば政府は国民の支払う税によってのみ支えられるのであり、いくら政府に人材が集まってもそのために国民の間に不足するのであれば国の発展は望むべくもない。国家による表彰を拒否した福沢諭吉や文部省の文学博士号を受け付けなかった夏目漱石の行動等に典型的に見られるように在野の明治人の意気と活力こそ開国後半世紀も経たぬ間に日本をして世界の一強国に成長せしめた原動力であったと思う。明治維新によって身分的特権を奪われ禄を失って経済的困難に陥った士族は各地で新政府に対する反乱を起こしたが、遂には明治維新の第一の功労者たる西郷隆盛を擁して決起した明治十年の西南の役を最後にきっぱりと刀を捨て以後は言論を武器としてある者は自由民権運動に入り、ある者は実業にあるいは学芸の道に進んだ。また多くの人は海外に新天地を求めた。今日に至るも明治人には独立独歩、刻苦勉励、天下国家を思い雄大な構想と大胆な行動力を備えた青年像を連想するのは私だけであろうか。野口英世や長岡半太郎、志賀潔や北里柴三郎のように世界的な業績を上げ不朽の名を残した明治人は誠に数え切れない。官ばかりでなく野に人材を得た事こそ我国が帝国主義の世界の中で殖産興業、富国強兵に成功した原因であると思う。

              明治維新と同様な変革は第二次世界大戦の敗戦時に起こった。第二次世界大戦はいわば帝国主義の最後にして最悪の戦争であり我国の歴史で言えば上述の明治維新と西南の役に当たるものと言えよう。戦前と戦後の世界の本質的な差異は一言で言えば帝国主義の終焉であろう。多くの旧植民地が新興国家として独立し、政治的には国際連合によって国際紛争を調停し世界の平和を守るための機構が設けられ、経済的にはGATT,IMF,世界銀行等によって国境による市場障壁を低め、また経済成長のための開発援助を行う事を目的とする機構が設けられた。永い歴史の中に生じた、就中帝国主義時代が残した歪みのために世界の至る所で今だに地域紛争の種は尽きず、また経済成長も紆余曲折が多くて貧困は依然として憂慮すべき問題として残ってはいるが、戦前に比べれば一段の進歩を遂げている事は確かであろう。我国においても農地開放、財閥解体による経済の民主化と国民主権、三権分立、平和主義を柱とする日本国憲法の公布による政治の民主化が行われた。新生日本は軍隊をもたず多数の職業軍人が民間人としての再出発を余儀なくされた。一般の大企業においてもいわゆるパージによって経営者の大幅な交代が行われた。要約すれば戦争という大きな犠牲を払って日本は帝国から民主国に再生したのである。その結果多くの識者が憂慮したように日本は滅びるどころか世界史上にも稀有な経済成長を遂げて、今日の豊かな国となったのである。日本の何十倍もの国土と人口を有し、地下資源にも恵まれた中国、ロシア、インド等の大国の経済成長の遅れに比べれば誠に際立った違いである。

              それでは戦後の日本の大躍進を可能とした原動力は何であろうか。それはその時々のKeywordを拾って見ればある程度分かるであろう。竹の子生活、闇市、新円切り替え、傾斜生産、オート三輪、技術導入、トランジスタ、ナイロン、テトロン、ビニロン、カラーテレビ、トヨペット、技術革新、スーパーカブ、スーパーミニ、最早戦後デハナイ、所得倍増計画、高度成長、東京オリンピック、新幹線、高速道路、大阪万博、半導体集積回路、パソコン、出稼ぎ、減反、環境破壊、過密過疎、東京一極集中、インターネット、衛星テレビ、等々。もはや戦後半世紀も経って戦後という言葉も用済みになるべき時であろう。

              戦後も半世紀を経て日本の産業が大きな曲がり角に来ていることは明らかである。戦前と比べて戦後の日本の著しい違いの一つは大学進学率の高さである。戦前は多くの有望な若者が家庭の貧しさの故に小学校だけで教育を終えざるを得ず、社会に出てから如何に苦労したかは山本有三の「路傍の石」や豊田佐吉、野口英世等の伝記を読むまでもなく我々の父母が常々語っていた事である。戦後はその反動とも言うべく、子供に財産は残さずとも教育だけは受けさせてやりたいというのが多くの親の共通の願いで、小中学校の義務教育は言うまでもなく今や高校は殆ど義務教育の如くなり、大半の人が大学に進学するようになった。学問のススメの福沢諭吉も全く予想もしなかった事態であるに違いない。しかし果たして福沢が今日の我国の教育の状態を是とするかどうかは分らない。確かに過去半世紀の我国の経済発展を支えた原動力が高い教育レベルにあった事は間違いない。日本の高度成長の端緒が主として米国からの技術導入にあったのも事実であるが、成長を持続させ米国にも肩を並べる豊かな国民経済を実現するに到った原動力は技術革新、即ち日本国民の技術創造力そのものであった。団塊の世代と呼ばれた我々が学校から世に出た1970年代には心配された就職難は起こらず、反対にむしろ少子化が心配されている二十世紀末の現在、若者の就職難が社会問題となっているのは歴史的に皮肉な現象である。

              今日の日本企業がぶつかっている問題は社会経済そのものの変化に起因している。例えば量的な成長から質的な成長への変換、経済的な国境の消失による国際競争の激化、コンピュータ通信網(C&C Network)の発展に伴う産業構造の変革等である。世界市場が変化しているのに高度成長期には適していた「日本式経営」を変えない所に日本の企業の問題が多々生じているのである。例えば事業部制度等の縦割り組織、ピラミッド型階層組織、それによって当然生ずる窓際族等の社内失業、出向あるいは高級官僚の天下り等の問題である。日本企業が直面しているのと同様の問題に日本の教育も直面している様に思われる。世の中は多様な人材を求めているのに教育は文部省の支配の下にますます画一化する。教科書検定、学習指導要領、センター統一試験等。また国際化の進展に反する閉鎖的な各種の規制、例えば朝鮮高校生に対して国立大学の門を閉ざしている事等をいつまでも改めようとはしない。世の中に統制された教育ほどクソおもしろくないものは無い。それは「学ぶ」事のみ強調し、「問う」事を制限する。ところが学問の本質は「問う」ところにぞある。「問」を欠く学問はマネであり粕である。私はPTAとして何回か小中学校の授業を参観したが学問の精神を欠いた一方的な教育の下で、いじめ、登校拒否、学級崩壊等の問題が生じるのも無理は無いと思う。子供は本来好奇心の塊である。幼時のエジソンに限らず子供は誰でも「なぜ」を連発する。そこに学問の芽が出かかっているのである。その芽を伸ばす事こそ教育であり古代ギリシアの哲人ソクラテスが用いた対話法であった。文部省の学習指導要領で指定された事を指示された方法で教え込もうとしても子供はそれを消化できない。なぜなら「なぜ」という消化酵素が活かされていないからである。心の消化不良が引いては種々の行動不良を生ずる原因となるのである。学問による教育は画一的な方法では実行できない。なぜなら子供は一人一人皆独特であり、また置かれた環境も千差万別であるからである。言い換えると有効な教育は創造的な活動以外にはありえないのである。

尤も私は時代の要請に応じて教えるべき内容を選択し、一定の基準を造る事に異論を唱えるものではない。しかしそれは学習指導要領と呼ぶより学習指導参考と呼ぶ事を提案したい。教育の主体は生徒であり、教師はその補助者なのである。ましてや文部省はその又補助者であるに過ぎないのである。従って学習指導参考を造るのも文部省よりも教師主体で行う方が良いと思う。   

              子供は本来遊ぶものだ。日の暮れるのも忘れて遊ぶ所に子供の本質がある。遊びにおいて子供は実に創造的だ。子供の時に充分遊ぶ事は成長してから特定の職業に就き、寝食を忘れて仕事に没頭する創造性を培うのである。それなのに早期教育と称して小学に上がる前から幼稚園にやられ、おまけにピアノやダンス等のけいこ事に、サッカーや野球のチーム練習、果ては夕方から学習塾と、本人よりは親のために日々追いまくられているのは果たして本人のためになのであろうか。里山や小川でメダカやオタマジャクシ、チョウチョやトンボ、クワガタやカブトムシ等の生き物と遊ぶ事こそ成長してから生物学を学ぶ上での基礎となる。山に登ったり、木登りをしたり、ママゴトの家をつくったり、竹を切って笛を作ったりして遊ぶ事は決して時間の無駄ではない。それらは長じて物理学や建築学その他あらゆる学問芸術を学ぶ際の基礎となる原体験を養うのである。それだけではない。子供の時を充分楽しむ事は何事にも楽しみを見出す遊びの心を養い、後の人生でどれだけ貴重な力になるか測り知れない。親や国の都合で子供時代を奪われた人はいつまでも子供時代を卒業できないために後に色々な問題を起こし易い。小人をして充分小人たらしめよ、さらば長じて大人とならむ。

人格の基礎を形成する学年教育を改善するにはどうすべきであろうか。基本的には子供の主体性を尊重すべきであろう。頭ごなしに教え込むのではなく生徒に問いかけ、生徒が発する問いに答えるのである。対話こそ人間の教育の基本となるべきである。そこが動物の調教と根本的に相違する点である。数千年の時を越えて今なお人類の教師と仰がれるゴータマ仏陀、イエスキリスト、孔子の教育法の基本は何れも対話法であった。彼らの死後、教えの散逸を防ぐために編纂された仏教経典、新約聖書、論語等は何れも師と弟子や一般衆生との間に交わされた問答の記録である。更に強調したいのは読書の重要性である。何千年もの時を隔てて今なお我々が先人の教えに触れる事ができるのは全く書物のおかげである。読書とは単に書を読む事ではない。書物に問い、書物に学ぶ、読書の本質は正に学問なのである。子供時代に読書の習慣を身につける事の重要性を私は特に強調したい。

私が福沢諭吉の学問のススメに付け加えたい点は「学問を楽しもう」と言う事である。福沢にとって学問は自立のための道具であった。蛍の光、窓の雪の灯りで貧苦の中にも苦学して身に付けるものであった。すべては大学を卒業した後の立身出世のための苦労であった。中国の古詩にある「笈を負うて郷関を出づ、学ならずんば死すとも帰らず」の精神に通ずるものが考えられるが、ちと気張り過ぎではないだろうか。そんなに気を張って長い勉学の途を歩むのは全く苦痛以外の何物でもない。それでも王朝時代の中国においては科挙に合格しさえすれば以後の人生はバラ色であったため、頭に霜を戴く年になっても諦めない受験生が多々いた。今日の日本においても毎年の大学入試の結果発表の場面では似たような光景が見られる。しかし学校の試験というものがそんなに重要なものであろうか。豊田佐吉、松下幸之助、本田宗一郎等は小学校しか出なかった。マイケル・ファラデー、アブラハム・リンカーン、ジョージ・スティブンソン、トマス・A・エジソン等は小学校にすら行けなかった。その他アンドリュー・カーネギー、ヘンリー・フォード等も殆ど学校教育は受けなかった。これらの人々の成し遂げた偉業と人格の高さを思えば、いわゆる一流大学に入る事はそんなにも重要な事であろうか。私は問いたい、所謂受験勉強のために失われているものは無いであろうか。我国の歴史を紐解けば法然や親鸞は比叡山延暦寺の数ある学僧の中でも指折りの俊才であったが、結局そこの教義では救いは得られないと悟って山を降り、市井の中に念仏を説く道を選んだ。また一休は師が下した印可状を却って悟りの邪魔であるとして燃やしてしまった。こうして見ると、学校その他の教育機関の重要性はもちろん否定できないが、さりとて絶対視するのも又危険である。学歴社会とは学閥が支配している社会である。一種の身分制社会に外ならずその息苦しさと不公平、無気力が如何なる結果に終わるかは超大国ソ連邦の崩壊を見れば明白であろう。何々大学卒といってもその卒業証書が役立つのは就職の時だけであり、その後は結局その人自身の実力が物を言うのである。誠にアインシュタインの言うよう、学校教育の成果とは学校で習った事をすべて忘れてしまってなお、その人の中に残っているものの事なのである。自営事業を営む人にはそもそも学歴なぞは大した意味はない。その人の実力は直に客が知っている。本来大学とは学生が学ぶために結成した学生の、学生による、学生のための組織であって、大学を卒業してもそれだけでは何の資格にもならないのである。例えば調理士や理容士、建築士等の資格をとるにはそのための勉強をして国家試験に合格しなければならないのである。職業のために資格を取るには大学よりも専門学校に行く方がよほど効果的であろう。それでは何の資格も取れない大学に一体なぜ人は行くのであろうか。それは学問をするためである。中世にオクスフォード、パリ、ローマ、ボローニャ等の都市に成立したUniversityとは本来学問をするための学生の組合であり、入学試験なぞはそもそも大学の理念にはそぐわない代物なのである。

最近の放送通信網の発達によって毎日会社に行かなくても在宅で、あるいは世界の何処にいてもコンピュータ通信網を通じて仕事ができる仮想企業(Virtual Company, VC)が新たな企業形態として出現している。同様に教育においてもわざわざ笈を負うて遠方へ移住しなくても家にいても、或いは世界の何処にいても教室にいるのと同様に教育を受ける事が技術的には可能になって来ている。例えば通信放送衛星を用いたディジタルTVと通信網を使えば日本全国どこにいても学問はできるのである。すなわち画面を見ながら先生の講義を聞き、しかも質問もできる。学びて問う、問うて学ぶ、これができれば何処にいても学問はできるのである。しかも帯域圧縮技術により現在のテレビ1チャネル相当の帯域を通じて同時に百もの講義を提供する事ができる。その放送に要する費用は一時間の講義あたり約100円であり、学生が100人いれば一人当たり1円で済む。一流大学の集まる東京に居住する学生にかかる生活費に比べたら如何に安価にできるかわかるであろう。私はこれをネットワーク学園(Network Academy)と名づけVirtual Companyと並んで21世紀の有望な教育システムとして位置付けている。

二十一世紀に入り世界は交通通信網の発展によりますます一体化していく。まさしくLocal is Global、地方即中央の世界になりつつある。その中で国家の統制の下で自由を許されぬ教育は息が詰まって死に絶えて行く事であろう。新しい時代には新しい教育が必要である。しかしてその本質を問えば古くは古代ギリシアの哲人ソクラテスが教えた対話法であり、また東洋の言葉で言えば学問である。哲学を意味するPhilosophyという言葉が「知を愛す」という意味である事からも分かるように学問の本質は学ぶ事、即ち問う事を楽しむ所にある。読者の皆さん、大いに学問をして21世紀を楽しく生きましょう。

(完)

 


新学問のススメ付録

 

[教育]

学問は人と人との対話に成る、学問に基づく教育をすべし。

対話は対等なる人の間に成る、対話に基づく教育をすべし。

 

[学問]

学問は人と人との対話に成る、人は自己との対話で思考す

一人の経験は学問を通じて、万人の知識となる。

思考で深まり対話で広がる、学問は人の自立の基なり。

 

[読書]

学問の成果は本になる、本物を知るには本を読むべし

読書の本質は学問にあり

扉を開けて本を読む、学問の門は万人に開かれり。

 

[学問の本質]

学びて問う、問うて学ぶ、学問の本質は何れにやある

学ぶ事は機械にもできる、問う事は人のみができる

我は問う、ゆえに我あり、デカルトは教えり、人の由来を

自己に由りてぞ問いは生ずる、学問の本質は自由にぞある。

 

[知識と学問]

習いて忘れまた習い、忘れて学ぶ知識なり

分らぬ事は分るまで、問うてぞ学ぶ学問の道

 

[ガクモン]

学びて問う、問うて学ぶ

ガクモンとは、問う事を学ぶ事なり

学びて問う、問うて学ぶ

ガクモンとは、問う事を楽しむ事なり

 

[楽しみ]

世の中に、楽しみの道、多々あれど

学ぶに勝る、楽しみは無し。

 

On British Education Problems

                                           8, October, 1999  @London

A BBC program surprised me to see a pupil of a problematic behaviour excluded from a school on the day the Prime Minister visited the school.  It is a deep concern to me that so-called problematic children are expelled from schools in order for the teachers to get “a good mark” in evaluation by the government.  In fact, additional bonus to “excellent” teachers is quite a silly policy.  I am convinced that so-called excellent teacher to the eyes of government or parents can be a bad teacher to pupils.   The program surprised me even more to hear the headmaster talking about “contract” with the pupils to justify expelling problematic children from school.  Contract with ten-year old children! 

The basic root of problems in education in many advanced countries is “compulsory” education.  Historically it was first established as a duty for parents to ensure certain exercise of the rights of children for education.  Now it is reversed.  It is now the duty for children to go to school, follow instructions given by teachers and behave well.  The politicians always talk about more investment into education and boast about a small increase in the mean score of GCSE- or A-level tests.  These are quite contrary to the essence of education. 

The essence of education is not in teaching but in learning.  At schools teachers ask questions and pupils answer.  Teachers give exams and pupils are quite afraid of failing in the tests.  The true education should be in the opposite way.  Pupils should ask and teachers answer.  Pupils must take exams to check their own knowledge about the subjects.  The exams should be therefore voluntary instead of compulsory.

I think childhood days are the most important in one’s whole life.  The basic characters, knowledge and culture are established in the childhood days.  The education must be elementary education, not elementary school education.  It must be children that should be at the core of education.  Teachers, schools and government are simply assistants in that order.  The reality is set in the reverse order and pupils are actually neglected.  They are regarded as sort of animals to be trained with teaching, tests, prizes or whips.  The teaching method tends to develop cheating and other problematic behaviours among the pupils.  It is essentially similar to a concentration camp.  The reality becomes quite clear once children start to hate going to school because of some minor problems as a poor mark in an exam, bullying by classmates, or unfair treatment by teachers.  Do not force children to go to school if they do not want to but provide a means to help them learn in the way most suitable to them.

Children are curious.  Just like little T. A. Edison all children ask many questions.  All children have strong curiosity that is the basic driving force of all scientific, artistic and cultural researches.  Today’s school education does not help children develop basic ability to develop themselves by nurturing their natural curiosity but simply suppress the buds by giving pre-programmed curriculum and pre-set standards and exams.     

Schools must be above all enjoyable places for children.  I do not much care about the mean scores in A-level or GCSE-level exams.  I am very interested how they enjoy schools and after-schools.  I am interested in the pictures they draw, books they read, sentences they write, questions they ask and how they play.  I think what matters really are how pupils enjoy lives; enjoyable childhood build positive attitudes that help them immensely in the process of growth and later professions and family lives.  Pupils learn best when they enjoy the subjects.  And nothing is more enjoyable than learning.  Just remember how enjoyable it was when we could first ride a bicycle.  Learning must be spontaneous.  The mission of teachers is to help pupils learn.  The mission of the governments is to help teachers help pupils.  The education must be always pupils-centric.  Expelling problematic pupils from schools is nothing but self-denial of educators.

I want to emphasise the importance of reading.  Thomas A. Edison was rejected to a school because he made too many questions about matters that seemed trivial to his teacher.  Therefore he did not go to even elementary school.  His elementary education was provided from his mother.  He became quite a reader.  He began to sell newspapers, candies and sandwiches to passengers on the train to Detroit every morning when he was still a boy.  Then he stayed in the public library of Detroit until evening.  In his memory he said, “ I read the whole library.”  His genius as the greatest inventor of mankind was nurtured through his enormous reading.  Reading is the essential way for education; books do not teach in themselves but readers learn from books.  The readers ask questions to the books and try to find answers; it develops the dialogue that is the essence of education.  It is much more important for the children to acquire a good custom of reading early in childhood than getting accustomed to keyboards and computers.  Children also achieve writing ability through reading.  Reading does activate imagination, broaden the realm of knowledge and develop creativity.                

I was also very surprised to learn that the college education in Great Britain is totally state-owned.  The college education is free, but it is a minority that goes to college.  Elitism sits at the centre of college education.  In Japan, it is quite expensive to send children to colleges but it is the majority that goes to colleges.  In the U.S. most of the most prestigious colleges are private and very expensive but many people apply hence the gates are very narrow.  Elitism is obsolete and quite contrary to the very ideal of university education.

If we look back the world history, a remarkable difference in the modern era is the dominance of Occidental countries culminating in the British Empire.  Europe had been always in the defensive till then but a clear reversal of the wind occurred around the 15th century.  What are the basic causes that brought the great offensive of the West over the East and the New World?   History textbooks say; invention of gunpowder, printing, and magnetic compass.  My interpretation is a bit different.  It is, I believe, the universities rising in Oxford, Cambridge, Paris, Rome, Bologna and other cities that broke the cultural darkness of the Middle Age and opened people’s view to the new world and led the West to modern era before any other parts of the globe.  What is then the university?  It was formed as one of guilds; trade unions dominant in the Middle Age. It was formed as a union of students.  The university is the union of the students, by the students and for the students who are eager to learn.   They hired first-ranking intellectuals from all over Europe, appointed them to professors to learn from.  It was the students that chose the professors.  It is now reversed.  It is the college professors that choose students through entrance exams.   It is quite apparent that the original spirit of the university is lost in today’s educational system.

 

Conclusion;

Let us revive the principle of education.

The essence of education is not in teaching but in learning.

The education must be pupil-centric and teachers are essentially assistants for pupils.

The method of teaching should be based on Dialogue; questions and answers between Equal partners.

Pupils learn best when they enjoy the subjects.  And nothing is more enjoyable than learning.  The blessing of reading is the skill we must help children develop early.

All tests must be essentially voluntary.  Pupils must be offered choices to have tests to check their own mastery or get qualifications of the subjects or simply skip them.  You must win qualifier races and run hard in the final to get a gold medal in the Olympic games.  Or you can avoid competition and simply enjoy jogging.  Pupils must be given the same choices as adults. 

The role of government in education is to help teachers help pupils.  It is never to dictate teachers what to teach or how to teach.   //


第二章 社会経済の基礎

             

複雑な現代経済の中に生きる我々には経済とは何かという事が分かりにくくなっている。人間の生活に必要な一切のものを財と呼び経済とは財の生産、消費、分配に関するすべての活動であると定義するならば、分かろうと分かるまいと人間はみな経済に関って生活するわけであり、多少とも経済について考える事は全くの無駄にはならないであろう。

              経済が分かりにくいのはお金という便利なものに我々が慣れ過ぎているからではあるまいか。現代社会においてはお金なしには一日も生活が成り立たない。しかしながらお金は大昔からあるわけではない。我国最古の貨幣と言われる和同開珎は八世紀の初めに発行されたが通貨としてはなかなか定着しなかった。蓄銭叙位法の公布に見られる様に通貨としてよりも富の象徴としての性格が強かった。今日においては通貨は象徴というより富そのものと殆ど同義語である。何故なら市場に存在するあらゆる財はお金で買えるからである。しかし同義とは言えてもお金と富は同一ではない。インフレーションの状態ではお金として所有している財産はどんどん目減りしてしまう。結局お金は売買を簡便に行うための道具に過ぎない。それにしても便利な道具ではある。市場に出ている千差万別の財がお金で交換されあらゆる財の価値が数値として表現できるからである。

              人間は交易する動物である。古代の哲学者アリストテレスは「人間は社会的な動物である」と言った。しかしながら今日の生物学で明らかになっている事はアリやハチに止まらず高等な鳥類、哺乳類は各々何らかの構造をもった社会を形成して生存している事である。ベンジャミン・フランクリンは「人間は道具を作る動物である」と言った。この定義は長らく厳に正しいものと考えられてきたが、これもまた生物界の研究が進むにつれて、道具を作るのは人間に限られないという事が分かってきた。ある種の鳥は小枝をしごいて棒を作りそれで朽木の中のイモ虫を追い出して捕らえるし、チンパンジーに到っては長い草なり小枝なりを白アリの巣の中に入れ、それに噛み付いてくる白アリを舐めとるいわば白アリ釣りを好んで行う。また怒ると石や木ぎれを投げつけたり、また太い木の枝を振りまわしてヒョウに立ち向かう事もある。他方よく言われる定義としては「人間は言葉を使う動物である」がある。これも生物界の研究から鳴き声、吠え声、身振り等単純な形の意思の疎通手段は殆どの高等な生物は有している事が分かっている。それだけではない。動物は人間が教える言葉をも理解し得る事は家庭で飼われている犬猫を見ても明らかであるし、チンパンジーは教えられれば何百という身振り言葉を覚えて使いこなす。更には言葉を組み合わせて新たな言葉を作り出す事もするのである。今日の生物学の教える所によれば人間とチンパンジー、ゴリラとは殆ど百パーセントに近い遺伝子を共有している。実際「人類は皆兄弟である」にとどまらずあらゆる生物は共通の祖先を持っている。即ち何億年もの太古の地球に現れたごく単純な生物から数知れぬ世代交代り返しつつ無数の異なる種に分かれて進化してきたものである。この様にみてくると、人間を他の生物から分ける決定的な違いは物理的には存在しない様である。しかしながら人間を他のあらゆる獣から差別する特長として「人間は交易する動物である」という事が成立すると思われる。

              明らかに人類の祖先かと思われる動物の化石が見られるのは300万年以上も前の地層からである。そして凡そ250万年前当たりからは確実に人工的な加工の跡が見られる石器を伴っている。人類の祖先がゴリラやチンパンジー等の類人猿から分かれて進化するようになったのは何故かあまり定かではないが、極めて早い時期から石器を作り始めていた事は確実である。石器の作成は一つの技術、しかも相当に高度な技術である。即ち素材となる石材の種類や性質、石器の製作方法、あるいは石材の産する場所についての知識が必要である。これらの知識は人から人へ、世代から次の世代へと受け継がれたのであり、そこに当然言語の使用が想定される。また石器に適した石材の得られる場所は限られているが、石器そのものは広汎な地域にわたって発見されている。大昔の人間の移動の困難さを思えば交易が広く行われていたと考えられる。即ち人間は極めて早い段階から言葉を使用し、物物交換によって広く交易を行っていたのである。言葉の機能は考えを交換する事であり物の交換と共に発生したものと考えられる。即ち人間は物や考えを交換する事により他の類人猿とは明確に異なった進化の道を歩き始めたものと想像される。人間とは正に交換する動物なのである。人間の社会は交換を軸とした経済を基にしている。人類の歴史を振り返ってみれば交易が盛んであった時代は経済的にも文化的にも大きな発展があった時期であり、交易が衰えた時期には社会は停滞した。世界の多くの地域において古代には広大な領土を有する大帝国が築かれた。帝国の隅々まで道路が作られ駅逓制により迅速な交通通信網が築かれた。古代ギリシャ、ローマ時代には今日の科学技術の基礎をも成す知識の総合化が行われた。文字が発明されたのも古代における交易あるいは税の徴収、法律の布告等の必要からであった。多くの地域において古代に続く中世は停滞、あるいは学問芸術においては暗黒の時代と呼ばれている。古代帝国の崩壊と共に地方には多数の有力な領主が分立し荘園等の閉鎖的な小国を形成して人民を支配すると共に支配地域を巡って相争った。敵対的な小国の分立によって地域間の交易が衰え、自給自足経済となった。自給自足とはなかなか牧歌的な響きのある言葉でその様な社会は一種の桃源郷の趣があるが、よく知られているように中世は決してそのような理想郷ではなかった。学問が衰え、迷信がはびこり、疫病や自然災害に対して人々はなす術を知らなかった。人々の生活圏は狭い荘園内に限られ封建領主の激しい収奪の下に貧困に喘いだ暗黒時代であった。

              ヨーロッパが中世の停滞を打ち破って発展を始めたのは11世紀の終わりに始まった十字軍による東方への拡大と十五世紀に始まった地理上の大発見による西方への拡大、同時に興ったルネサンスによる文芸復興運動による所が大である。十五世紀の中頃行われた印刷技術の発明も見落とす事のできない歴史的な事件である。これによりごく限られた僧院や教会の中で手から手へと書き写されてきた古代の学芸がより広い階層の人々に普及するようになったのである。地理上の大発見と文芸復興による科学技術の発展に支えられてヨーロッパは世界に拡大し、より孤立しまたより低い産業段階にあった新大陸やアジアアフリカの地域を征服した。始めは主としてポルトガルとイスパニヤが世界を二分割し、次いで蘭、英、仏等が先の二国と競争して十九世紀までには世界は余す所無くヨーロッパ列強によって分割されてしまった。中でも他国に先駆けて産業革命を起こし国力を充実させた英国がいわゆる日の没する所無き大英帝国を築いて世界に覇を唱えた。20世紀において戦われた二度の世界大戦は世界の分割を巡る戦争であったと言えよう。先に世界帝国を形成した英仏に対して遅れて台頭してきた日独伊が挑戦したのである。それでは何故未曾有の惨害を生じた世界大戦が二度も生じたのであろうか。それは英仏の世界帝国が植民地を囲い込んで他の国との自由な交易を妨げたからである。現代において市場を閉ざされる事が如何に致命的であるかは我国の二百年に及ぶ鎖国の間に生じた著しい科学技術の遅れと何回も起きた大飢饉、多くの農民が余儀なく行った間引き等の悲惨な人口調節を思えば充分であろう。現代においては物と思想の自由な交換、即ち交易と学問芸術、思想言論の自由とは生存のための基本条件と言っても過言ではない。それは「交換する動物」としての人間の基本的権利なのである。

              今日の社会経済の基本は交易である。あらゆる生産物は市場において取引される。人々は特定の職業について特定の生産物を生産し市場に出して販売する。販売によって得たお金で自ら必要とするものを市場において買う。お金の役割は売買の仲介手段である。というよりお金そのものが特殊の産物でありその売り買いにより物の買い売りが行われると考えてよい。お金が多すぎればその価値が下がり物の値は高くなってインフレーションが起こる。お金が足りなければその逆が生じ、お金が極端に不足したりあるいは逆に多過ぎたりすれば交易の用を為さなくなり金塊や米等がその代用を果たすようになるのである。従って適正な量のお金つまり通貨の管理は社会経済の根幹に関ることであり各国において政府からは独立した中央銀行、例えば我国においては日本銀行によって管理されているのである。

              それでは経済活動において財が創造されるのは市場における交易過程の何処なのであろうか。市場において人は材料を調達しそれを加工して製品を製作し販売する。今iなる事業家がある期間に市場より調達した材料費の総額をRiとしそれを加工するに要する製作費Ciに利益Piを乗せてSiなる総売上額を得たとする。この時

              Si = Ri + Ci + Pi

あるいはiの利益は

              Pi = Si − (Ri + Ci)

そこで社会のすべての事業家の利益の総計は

              Σ{Pi}= Σ{Si} − Σ{Ri} − Σ{Ci}

あるいは

              Σ{Pi}+ Σ{Ci}= Σ{Si} − Σ{Ri} 

上の式の左辺は付加価値の総和であから国民総所得である。ところが市場の交易においてはある物の売上は次段階の材料費に他ならないからすべての人について総和を取れば上式の右辺はゼロとなる。それならば市場の交易における付加価値の総和はゼロとなる。これは明らかにおかしい。なぜであろうか。交易の中間段階においては確かにある段階の売上と次段階の材料費は等しく互いに打ち消し合う。しかし交易の始点と終点においてはそれは当てはまらない。従って交易の始点と終点において価値の創造が行われていると考えられる。始点は原生産であり、終点は最終消費である。例えばある工作機械を百万円で購入して10年間使用するものとするとその機械は毎年10万円ずつ原価償却していかなくてはならない。ところがその期間にその機械を用いて生産する産物が同じ期間に10億円の付加価値即ち利益を産むならば1000倍の利益がある事になる。またある人が一年間生きるのに必要な生活費が200万円だとしよう。しかしその人が一年間働いて稼ぎ出す富が一億円であればそこには50倍の利得がある事になる。この様に考えると最終消費とは即ち生産に他ならない。人間が生きていく上で最も必要なものは食糧である。食糧についてどこで創造が起こっているかを考察すれば、それは結局一粒の種から例えば百粒の実が収穫されるところにすべてがかかっているのである。人間が生産する一切のものは自然の産物である。人間は土地をもその中にある地下資源をも創造しはしない。ただそれを利用するだけである。石炭も石油も太古の昔において太陽エネルギーが生物体に同化されたものが更に地下に埋没してできたものであり人間は単にそれを利用しているに過ぎない。原始採集段階において人間が毎年消費したものを再生したのは自然そのものの再生力であった。それ以来長い時をかけて人間は農牧業を発明し、金属の利用法を発見し、科学技術を創造し、産業革命を繰り返して今日の高度な物質文明を築き上げてきた。しかしながら人間はいつの時代にも究極的には自然の産物と再生力に依って生存してきたのであり如何に文明が進もうともその事実にはいささかの変化も無いのである。

              それでは今日の人間の経済社会も広く言えば自然界の一部に過ぎないのであろうか。明らかにそうではない。地球の歴史において人間が出現して以来それまでとは全く性質の異なる事態が生じた。それは何であろうか。それこそ人間の知的能力である。知識が他の物と根本的に異なるのはそれが創造され、増殖し、しかも形を持たない事である。形を持たないが故に知識は自由に形を変えて広がり、集積し、進化することができる。遠い原始時代のある日、Aなる人が山の中でたわわに実をつけた一本の柿の木を見つけその一個をちぎって持って帰ったとしよう。村の入り口でBなる人に出会った。AがBにその柿をあげればAの手元には何も残らない。そこで柿はあげずに代わりにその木のあるところを教えてあげたのでBもまたその木のところに行き何個も手にいれる事ができた。Aは自分の小屋に帰り柿を食べ種を庭の隅に捨てておいた。数ヶ月後Aはそこに小さな柿の芽が双葉を広げているのを見つけ、良く見ると小さな茎と根が柿の種から出ているのを見出した。その時Aは種を埋ければ何本でも柿の木が殖やせる事を発見した。Aはその発見をBに伝え、Bはそれを更に他の人々に伝え、こうして種から木を殖やすという知識がその地域全体に広まり、数年後にはどの小屋の周りにも柿の木が数本はあり秋には実をつけるようになった。この仮想例から分かるように知識の創造、伝播、発展は自然界には無い不可逆な過程である。長い原始採集経済時代に人間は植物についての観察を続けて知識を集積し、遂には農業を開始して文明を発生せしめた。その後も人間は自然法則の探求を続け技術発明を繰り返して今日の機械文明を作り上げた。こうして人間は自然界に後戻りのできない不可逆過程を持ちこんだのである。既に原始時代において人間は自然界には無かった交換経済を創造した。それは自然界に見られる共生、例えばアリとアリマキの助け合いとは本質的に異なる。市場経済は人と人の間で行われる物とサービスの交換である。一つ一つの交換は等価交換であり、各交換段階で加わる付加価値の総和は究極的には交換の始点と終点の間で創造される価値に等しい。創造は本質的に不可逆的でありまた非物質的である。如何なる物も無からは産まれない。種の生成と絶滅を限り無く繰り返しつつ進化してきた生物、生命はこの点で単なる物質とは本質的に異なる。人間の文化の創造過程も生物種の発生過程に似た点があるが、根本的な違いは生物が自らの細胞の核の中に物として存在するDNAによって形成され且つその形質が遺伝されるのに対して、人間の文化は文字や絵として肉体の制約を離れた形で表現され且つ人から人へと伝えられる事である。しかしながら文字や絵が発明されたのは人類史の上ではつい最近の出来事である。人間の文化が人類の発生段階においては文字や絵の形に依る事無く創造されたのは明らかである。言葉を変えれば人間の文化は形が無いところにその本質がある。即ち概念の創造こそ文化の本質である。概念とは人間が定義することにより成立するのであり、それを表現するために言葉が作られるのである。何だか禅問答の様になってきたが要は人間の文化は物や形に依らない概念の創造にその本質があり、それは言葉として表現され人から人へ、世代から世代へと伝えられるのである。言葉は概念の表現手段として欠かせないが概念そのものではない。人間の知力によって創造される概念は創造過程を通じてのみ伝えられるのである。正に「馬の耳に念仏」という諺や「学びて思わざれば即ち暗し」という孔子の言の通りである。伝わる過程で失われるものもあれば、新たな創造によって付け加わるものもある。インドで発生した仏教はその伝播の過程で各地の文化の影響によって大乗、小乗、ラマ教、真言、密、禅等と多様に変化しつつアジア大陸の東端に位置する日本にまで伝来した。その間にヒンズー教の強いインドや儒教の優勢な中国や韓国においては仏教は衰退してしまったが、我国においては平安、鎌倉時代に古代から中世への社会の大変動と共に独自の発展を遂げたのであった。人間の知力によって創造されるあらゆる思想は形が無いが故に再創造によってのみ伝えられる。言葉によって表現されると共に言語の違いを超えて異なる文化圏にも広がっていく。技術知識の普及によってぞ産業も又発展するのである。換言すれば社会経済において生産されるあらゆる形の富の源は究極的には形の無い知識の創造に他ならない。故に学問無くして産業無し。殖産興業を実現するには学問をせざるべからず。イロハニホヘドチリヌルヲと詠まれるように形あるものはいつかは壊れて消え去る。人間の文化は形を持たないが故に何回もの氷河期と間氷期を繰り返し、山や河、大陸の形まで変わってしまった数百万年の時の流れにも消ゆる事なく、むしろ進歩しながら世代から世代へと継承されて現人類へと伝えられたのである。

              言葉の発明が人類を発生せしめたとすれば文字の発明は文明を発生せしめたのである。文字は言葉に形を与え、時と所を越えた知識の保存と伝達が可能となった。書物を通じて何世代もの昔の人の教えに接し、また会う事もできない遠くの人とも思想の交換ができるのである。文明の発生は数千年前、長い人類史の上ではつい最近の出来事であった。文明の発生以来ごく短期間に人類は地球環境を劇的に変えた。今や50億人にも達する人口の爆発的増加に伴って数知れぬ動植物が絶滅した。人の移動と共に動植物の分布も大きく変わった。今や人類は自らが創造した物質文明によって地球全体に取り返しのつかない破壊を生じかねない危機的状況にある。人間に未来はあるであろうか。私はあると信じたい。そして問題を認識しその解決を探求する道こそ学問に他ならないと信ずるのである。


第三章  二十一世紀企業へ

 

世紀末の現在過去を振り返って見れば、大体10年位前に日本企業は世界市場において一つの頂点にあったと言えるのではないかと思う。当時の日本は多くの分野で技術優位性を誇り、海外では「日本式経営」と題するセミナーが人気を集め「21世紀は日本の世紀」とまで言われたものである。21世紀を目前にした現在、我が国企業にはその頃の勢いは見られない。今や多くの分野で日本の技術優位性はゆらいでいる。過去数年間の不況とそれに伴う失業の増大、学生の就職難等のために日本人は迷い、焦り、元気を失っている。ここでは一企業に働く一技術者の立場からこれまでの日本企業のあり方を振り返り、できれば21世紀へ向けた何らかの指針を得る事を試みてみよう。

              私が入社した1973年は所謂高度成長期に当たっていた。毎年10%の経済成長は当たり前で、その数年前には一年で三割もの賃上げが行われた事もあったという。日本企業は急激な成長に対処するため多くの企業で事業部制度を採用し分身会社、関連会社等を次々と設立して、系列と言われる企業グループを形成しつつ急激な成長を続けていた。事業部制度の一例としてはNECの小林社長が唱えたマトリクス経営が有名である。即ち縦軸を事業分野別の事業部、例えば通信事業部とかコンピュータ事業部とかとすると横軸は顧客別の営業、例えばNTTとか官庁とか民需営業とかで表される。両軸の交点において事業が行われるのであるが、その際プロフィトセンタは事業部にあるとした。簡単に言えば営業は顧客を回って注文を取り、受注した事業は事業部が実行し、製品納入後の代金回収はまた営業の仕事となる。即ちおのおの特定の業務に専念する事により全体として大きな力を発揮する事ができる。事業部制度は当時の経済情勢においては合理的な制度であった。高度成長下の事業の拡大に伴い限られた人数の経営陣では会社の事業全体に目が行き届かなくなった。そこで全体の事業を分野別に幾つかの事業部に分け、事業部長に経営責任を分担させる事により全体としての経営を分かり易いものにした。いわゆる管理の長さ(スパン)を適正化したのである。また事業部長に大きな権限を持たせる事により現場に近い所で経営決定ができ迅速な事業展開が可能になる。総じて言えば事業部制度は企業の成長には適した制度であると言えよう。

              しかしながら前述の如く日本企業の強さは約10年前に一つの峠を越え、以後幾多の困難に直面する事になった。基本的な要因は高度成長が終了し経済成長が鈍ってきた事である。その結果社内に余剰人員を生じいわゆる窓際族の発生を見たのもこの頃である。日本企業の組織は余りにも高度成長に適応し過ぎており、安定成長に向かった経済環境にうまく適応できなかった。それでは世界の経済成長は止まってしまったかと言えば決してそうではない。量的な成長は確かに一つの限界に来たけれども質的な成長は決して止まる事は無いのである。例えば今日ではオフィスや家庭でありふれた物になってしまったPCは十年前の大型コンピュータにも勝る性能を有している。1995年までに四半世紀もかかってやっと25万台そこそこの普及に留まっていた自動車電話は最近の五年間にその二百倍もの台数に爆発的に増えた。個々の物が極めて小さくなりまた価格も大幅下落しているので金額的な成長としてはそれ程でもないかも知れないが、質的には画期的な飛躍が行われている事は明らかであろう。経済成長の質的変化は製造業だけには止まらない。十年前にはまだまだ海外旅行は多くの人には高根の花であったが、今日では国内旅行とさして変わらない費用で多くの人が海外旅行を楽しんでいる。また配達物の輸送が郵便と国鉄に限られていた時代には物を送るには郵便局や駅に持って行って自分で厳重に荷造りをし荷札をつける必要があった。そして早くても三日位はかかるのが普通で、私の学生時代には田舎から両親が送ってくれた柿が腐ってしまっていた記憶がある。今日では近所の米屋等が兼ねている宅配便の店に適当に荷造りして預けた荷物が日本全国どこにでもたいてい翌日には着いてしまう。広大なUSAにおいてもFEDEXが同様のサービスを行い、品物を送れば翌日には届くというのが常識になっている。この様に質的な成長は従来以上に急速に起こっているのである。我が国の企業が突き当たっている壁はこのような世界市場の量的成長から質的成長への変化に対応しきれていない事だと思う。

              それでは何故日本企業は経済の質的変化に遅れをとっているのであろうか。一言で言えばいわゆる大企業病である。各事業部が既に事業計画室、システム本部、開発部、製造部等の部門を有し従業員の数も千人をこえる歴とした大企業である。また入社して或る事業部に配属された人は退職するまで同じ事業部で働く事が多く、異なる事業部間の人的技術的交流が極めて少ない。新たな事業分野が二つの事業部にまたがる場合にはどちらがやるべき仕事なのか決めかねて市場の変化に着いて行く事ができない。事業部間の事業提携は事業部長レベルで話を通さなくてはならず、多忙な事業部長どうしではなかなか実のある対話ができない。総じて言えば事業部間には高い壁があり企業としての総合力を発揮しくいのである。それだけではない。工場すなわちライン組織を内に抱える事業部には次のような体質的欠陥が生じやすい。即ち本来スタフ組織であるべき開発部にも無理にライン組織をあてはめ、開発力そのものが低下してしまうのである。本来ライン組織とは工場や軍隊によく適合する組織であり、その仕事は設計図面に基づいて物を製造したり、或は命令された作戦を実行する事である。一言で言えば決まった事をやる組織である。従ってライン組織とは軍隊に典型的に見られる様にピラミッド型の階層組織を形成し、上から下への命令伝達と下から上への報告を軸とする組織である。その本質は決まった事を如何に効率よくまた失敗せずに実行するかという事である。

              これに対して開発の本質は人々が生活の上で何を必要としているかを調査し、その必要なものを如何に提供できるかを研究し、事業の概念を確立する事である。その技術可能性確立するためには理論解析を行い、時には実験的な検証も行う事が必要となる。ライン組織の要点が失敗を出さない事であるとすれば、開発の要点は失敗を出す事であると言っても過言ではない。出るべき失敗はすべて出してしまう所に開発の本質がある。一つの成功に至るには千もの失敗を越えなくてはならないのである。当然開発部の組織は製造部とは異なるべきである。調査研究の主体は一人一人の人間であり、個人を中心とした組織になる。開発の仕事は概念の提案に始まりその実証に終わる。実証作業によって事業化は困難という結論が下されたとしても開発としては決して失敗ではない。むしろ誤った事業を本格的に始めて結局大損を出すよりも遥かに増しである。製造部の仕事が決まった事業を実行する事であるとすれば、開発部の仕事は実行する事業を決める事なのである。

              製造部と開発部とは仕事の性質が異なるのでその組織にも違いが生ずるのは当然である。その違いをまとめると下表の様になる。

 

 

開発部

製造部

目的

事業概念の創造

製品の製造

入力

営業からの市場情報

自らの調査研究

設計図面と文書

検査手順書

出力

事業提案書

システム仕様書

―>事業化決定または受注−>

システム設計書

出荷製品

運用説明書

 

研究課題

研究すべき課題の探究

事業可能性の検討

設計技術力の向上

生産効率の向上

納期短縮

適正な設備投資

組織の要件

臨機応変の柔軟性

継続性

組織の形態

課題中心のスタフ組織

作業中心のライン組織

 

 

私見によれば製造部を有している事業部はとかくライン組織の概念を事業にあてはめ、その為に開発力の低下を招いているのである。上の比較表に示す様に開発部は課題中心のスタフ組織でなくてはならない。即ちある課題(タスク)が生じたら直ちにその検討グループ(タスクフォース)が結成されてその課題と取り組む。それが一応決着すれば検討グループは解散する。この離合集散を柔軟に行う組織でなくては変化の激しい市場の動きに先んずる事は困難である。研究の結果その課題が達成不可能という結論に至ったとしても研究そのものは失敗ではない。失敗を許されない研究開発なぞはその名に値しない。多くの失敗を重ねて一つの成功に至る事こそ研究開発の本質なのである。

              事業部制度を採用している日本の大企業は上述の如く事業部に内在する体質的な問題、事業部間の高い壁に由来する分割損に加えて、営業と事業部のマトリクスそのものに由来する本質的な欠陥をも抱えている。前述の如く受注と売上金の回収は営業の仕事であり事業の実行は事業部の仕事である。これは同じ会社としては当然の分業であるが利益を上げている事業部においては自分たちが稼いだ金を会社に取り上げられ、別の不採算事業部に注ぎ込まれているとの不満を生じやすい。即ち事業部と営業部の間にもまた壁が存在するのである。それでなくても営業と事業部の間にはとかく相互の不満が生じやすい。典型的な例を下表に示す。

 

 

営業

事業部

当社の製品には有力な玉がない。事業部は市場における当社の競争力の低下に十分注意を払っていない。

営業は技術知識が無さ過ぎる。自社の製品の特長をうまく顧客に売り込んでいない。

有望な引き合いがあるのに非協力的である。

営業は事業部の実情に疎すぎる。こちらは多忙でそれどころではない。

市場に於いて価格競争が厳しい。今一段の原価低減を。

原価がそんなに簡単に下がるものなら苦労は無いよ。

より納期短縮を。

こっちばかり責めないで適正な在庫を持て。

等々

等々

 

営業と事業部が別の組織になっているため市場の情報は事業部長とか開発部長等のTopに集中する。一日に何百というEメールが来るとは部門長の半ばぼやき半ば自慢している事である。パイプが細いためにその情報の流れはたいてい途中で消失してしまう。営業から見ると事業部の応答の悪さに不満はつのる一方である。このように停滞している企業の内部には相互に対する不満が渦巻いているのである。

              それでは上述の内外の問題を解消して再び企業を活性化するにはどうすれば良いであろうか。その鍵は市場をよく研究してその変化の本質を把握する必要がある。前述の如く私が大学を出て会社に就職した1970年代には大きい事は企業の強みであった。当時はコンピュータ市場においてはIBMという巨大企業が圧倒的な力をもっていた。通信分野では米国のATTが世界最大の企業として全国の電話網を独占していた。我が国においても国内電話網は日本電信電話公社(現NTT)の法的独占の下にありまた国際電話はKDDの一社独占のもとで運営され、各社とも独占的な市場支配から巨大な利益を挙げていた。また当時産業の米と言われた製鉄業においては八幡製鉄と富士製鉄が合併して世界最大の新日本製鉄を形成していた。また国内に張り巡らされた鉄道は日本国有鉄道(国鉄)によって独占的に運営されていた。また日本の造船業は世界の船舶の大半を製造していた。このように巨大な生産設備を所有し、何万人という従業員を雇用するいわゆる重厚長大産業が当時の我が国の経済成長の原動力となっていたのである。過去三十年間にそれらの産業は大きな変化を受けた。韓国その他のアジアNIESの成長により我が国においては鉄鋼と造船は典型的な構造不況業種と言われる状態に一時落ち込み、また国鉄は清算事業団に債務を押しつけて分割民営化されたが、いまだに20兆円もの負債が国民の肩に残っているのである。また米国においては地上最大の企業ATTが地域分割され、輝かしい技術開発の歴史を有するベル研究所も大きな変革の中にある。我が国においても通信における電電公社の独占は崩れ、複数の通信業者が激しく競い合う市場に変貌した。他方通信の主力が電話からデータ通信に変わると共にインターネット市場におけるシスコシステムズのように新たな企業が台頭している。コンピュータ市場においても主力が大型コンピュータからPCに変わり同時にその主役もIBMからアップル、マイクロソフト、インテル、コンパックそして台湾のPCメーカへと変わって来た。

              以上ごく簡単に展望した市場の変化の本質はどこにあるであろうか。その鍵はおそらく故小林社長が提唱されたC&Cにあると思う。小さな個人用のPCが一昔前の大型コンピュータに勝る能力を有しているならばそのPCを自由に使いこなせる人間は昔の人の何倍もの仕事をなし得るわけである。さらにはそれを結んで事業網を形成すれば個々のコンピュータは何層倍にも機能を拡充し種々の仕事のための有力な手段、文字通りWork Station (WS)と成り得る。ここで私自身の経験からC&C通信網が仕事に如何に活用できるかを検討してみよう。

市場調査と営業活動

―、インターネット、パソコン通信等による情報の収集

―、外回りの営業員がPCを用いて自社製品情報を引き出し顧客に説明。

―、引き合い情報を社内ネットワークに流し関係者と見積もり提案書を共同作成。

―、受注と共に受注伝票を作成、工場に送付。

 

研究開発

―、市場情報の分析

―、Needsの掘り起こしについて関係者のネット打合せ。

―、研究テーマの選択、実行計画、予算化

―、研究チームの結成

―、技術問題点について意見交換

―、各人の作業進捗状況の相談、打合せ

―、研究報告書のまとめ

―、事業概念の確立と基本仕様書の作成

 

装置設計

―、徹底的なCAD

―、標準部品或は半製品の探索

―、C&C通信網を通じ客先も交えて設計レビュー

―、設計が完了したら電子データ形式で工場に送付。

 

検査、デバッグ

―、検査手順書の作成

―、運用説明書の作成

―、Simulation Programの作成

―、実機を組み合わせてシステム試験 (於工場)

―、Programの修正、再投入

 

出荷、納入、現地試験

―、現地との連絡支援

―、運用説明書を用いた現地立会い試験

 

アフターサービス

保証期間内

―、障害発生時に関係者に連絡

―、障害が大きい時にはタスクチームを結成し解決に当たる。

保証期間以降

―、工場の保守チームに業務移管

 

上の仕事の流れを見て分かる事はC&C通信網の活用により

1.               実機の検査段階においてはおそらく一号機は設計者による直接的な技術指導が必要であるが、その他の段階はすべて基本的にはC&C通信網を通じた仕事が可能である。

2.               C&C通信網を介して意見交換、会議を行う事によりVirtual Company化が可能となる。即ち毎日何万人という社員が通勤してくる会社や長々と続き結論の出ない会議等は不要である。いわゆるHome Officeでも仕事の多くが可能となる。

3.               製造と製品の検査のためには明らかに工場が必要である。しかしながらここにおいてもC&C通信網の利用は本質的である。

―、製造において最も手がかかるのは部品の収集である。昔の様に抵抗一本毎に袋に入れ伝票をつけている様では納期は忽ち一年かかりまた量産効果は全く得られない。徹底したCADにより設計データ(部品表)から直に部品発注収集作業が自動的におこなわれなくてはならない。

―、プリント板の製造はマスクの設計からパターンの確認まで全工程が自動化される事が必要である。従って製造工場に於いては最終組み立てと目視による機構検査以外のすべての作業は自動化される事が必要である。ただし人間でなくてはできないような複雑な作業まで無理に自動化する必要はないがそのような工程は極力減らすような設計を行う事が必要である。

4.               アフターサービスは顧客の満足に直接関連し次の事業へとつながる重要な事業である。また保証期間を経た後では最も利益を出しうる事業である。但しそのためには装置が保守しやすい設計になってなくてはならない。保守マニュアルが完備しまた必要な部品の有無がすぐ分かり、無ければ工場に発注して数日以内に届く体制が必要である。即ち保守こそC&C通信網の効果を最も良く発揮して顧客の満足を得、かつ長期的な利益の源泉となし得る貴重な仕事である。

 

以上のように見てくるとC&C通信網の活用こそ21世紀の企業の鍵となる事が分かる。それではC&C通信網を駆使した21世紀の企業は如何なるものかを如何に概観しよう。その特徴は

1.               営業と事業部の一体化

2.               事業部と製造部の分離

これらは先に概観した企業の問題の解析から直ちに出て来る考えである。即ち営業と事業部が別の組織に分かれていたのでは企業はうまく機能し得ない。本来企業の事業とは顧客に商品の概念を提案し、その意見を充分に入れて商品の概念を作り上げる所から始まる。売れるものでなくては如何に高性能の製品も商品としては意味がないからである。商品の概念創造は営業と事業部が一体となって行わなければ困難である。従って営業と事業部は組織的にも一体化するのが自然である。次に事業部と製造部即ち工場の分離という事を検討しよう。工場の機能は設計図面と検査手順書を与えられて部品収集、加工、組み立ての工程を経て出来あがったものを与えられた検査手順に従って検査し、それに合格したものを出荷する事である。本来工場はその製品が市場においてどれくらい売れるかどうかには関係が無い。工場の経営者は如何に原価を低減し納期を短縮するか、そのためには如何なる設備投資をすべきかという事が主たる関心事となる。明らかに工場の機能は営業/事業部とは大いに異なる。従って組織的にも分離するのが自然である。分離して関係を明確にする事が重要である。なぜなら営業/事業部と製造部即ち工場の間の関係にこそ、商品の概念を確立しそれを商品として物にするという事業の本質があるからである。事業会社と製造会社の間の仕事を円滑に行うにはC&C通信網の徹底活用が本質的である。入力された設計書と検査手順書から如何に短期で高品質の製品を出荷できるかというところに工場と事業会社の共同の責任がある。この接続関係が不備であれば会社を分離することは却って損失が生ずるかもしれない。そしてその時はその企業が市場において敗退する事を意味するであろう。何故なら既にあるパソコンメーカは注文を受けてから三日以内に生産しお客に納入する体制を整えており、そのような企業には不良在庫を抱えるリスクは全く無いからその分価格競争力があるからである。そのような注文後生産体制を確立するには自社の製品系列と標準部品、標準シェルフ、発振器、MODEM,マイコンあるいはDSPボード等設計データベースを整備し容易にC&C通信網上で利用できる体制を常に整備する並々ならぬ努力が必要である。

              以上述べた新しい企業の組織を現行の事業部制度と対比させて模式図

として描くと次図のようになる。


上の図に示す新たな企業の概念は次のようにまとめられる。

1.               企業は事業会社と製造会社に分かれる。

2.               製造会社は製造に専業し、それによって利益を上げ自らの方針で設備投資を行う。

3.               事業会社は現行の事業部制度における営業と事業部を合わせた会社とする。

4.               IC事業のように巨大な設備を必要とし技術の進歩が速くて基礎研究を必要とするものは事業会社の一部として残す。

5.               研究所は事業会社の一部として残し、強化する。

6.               事業会社の中に於いては固定的な事業部は設けない。専門から自ずと幾つかの分野に分かれまた市場の変化と共に新たな事業グループが発生する事はあるが、原則として事業会社員は自らの責任の取れる範囲で自由に事業を行う。

7.               事業会社の中には制度としての事業部は無い。存在するのは特定の事業を遂行するために結成されるタスクチームである。外回りの営業員が顧客の引き合いを受けると社内Networkを通じて技術担当者と共同で提案書を顧客に提案する。受注活動においては必ず営業と技術担当者がチームを組んで顧客と十分打ち合わせを行う。受注したら社内Network上に実行団(Task Team)を結成して業務を遂行する。

8.               実行団は受注と共に発足しその事業の完成と共に解散する。その間は一つの小企業として機能する。即ち社内通信網上に仮想的な企業を設定し複式簿記方式で経理を行い事業の進行を管理する。会社とは各実行団の集合であり各実行団の経理を総括すればそのまま全社の経理になるのである。

9.               企業のBackboneとしての会社の役割は全社としての資金管理、業務のための基盤ネットワークの構築、部品や半製品等のデータベースの整備、全社的大規模事業の遂行、研究予算、設備投資等の業務を行い社員に事業遂行のために必要な基盤システムを提供する事である。

1.         社長は社会に対して会社を代表し、会社全体の事業方針を決め、一企業体としての会   社の経営に責任を負う。

 

上のような事業会社の事業のやり方は現行とは相当変わって来る事は当然考えられる。営業部員が顧客を回って注文をとったり、製品の納入と代金の回収を行うのは現行と本質的に変わらない。今と変わるのは営業部員と開発部員が必ず共同で、できるだけ頻繁に顧客の所に行き商品の概念を売り込みまた作り上げる事である。勿論開発部員は研究開発という仕事があるためそう頻繁に顧客を回る事はできないが、そこは社内C&C Networkを活用して不足を補い連絡を密にする。受注が取れたらその実行団を結成しC&C Network上に仮想企業(Virtual Company, VC)を設けて以後VCを介して相互連絡、日程管理、費用管理等を行いつつ事業を実行する。商品の具体的な設計は担当の開発部員の責任で自分でやっても良いしまた内外のリソースを用いてもよし。設計が完成すれば設計図面と検査手順書を工場、製造会社に入力する。製品ができてきたらその性能を確認して運用説明書と共に顧客に納入し、仕事が完了したら決算を行ってVirtual Companyを解散する。

              それでは新しい企業の中で人々はどのようなCareer Pathを通過して行くのであろうか。まず事業会社に採用された新卒はいずれかの事業所に配属される。そこで特定のプロジェクト即ちVCに入り与えられた業務を行う。適当なVCが無いときは社内VCの一つであるVirtual University (VU)に入学し研修を受けて次の仕事に備える。現行の会社にある上司と部下の別は無いが経験年数による職級の別はある。新卒は一年目は新入社員、二年目から担当となり、約5年で主任、約10年で主幹という肩書になる。主任までは与えられた仕事を行う義務があるが、主幹になると逆に仕事を与える義務が生じる。即ち前述の如く特定の事業を受注してVirtual Companyを起こす義務があるのである。各VCは必ずxx事業営業主幹と技術主幹とが分担主宰する。かくして故小林社長が唱えた営業と事業部のマトリクスの交わりを確実なものにするのである。尤も小さな事業であれば一人で営業と技術主幹を兼ねてもよい。仕事はC&C Networkを介して裁量労働制で行い給料は年俸制である。即ち各社員は年功によって決まる固定給を受けるのである。但し一つの事業を完了してVCを解散する場合には決算を行い、得られた利益の 1/3はVCの成員に還元される。会社に於ける全ての現業部門は仕事の発生と完了の度に結成と解散を繰り返すVCの集合として機能し、一見アメーバのようであるのでアメーバ経営と呼ばれる事もある。

              それでは会社の役割は何であろうか。それは上述のVC形態で社員が事業を行うために必要不可欠なC&C通信網基盤と市場情報、技術情報データベースの整備、個々の主幹では不可能な大規模事業の遂行、他社との提携、政府に対する企業としての交渉その他予算、資金管理、人事、経理、公報等の業務を行う。固定的な事業部制度が無いアメーバ企業に於いては人事の方法もまた当然異なる。経営陣の選出は株主総会に先立ち主幹全員の記名投票で選挙する方法が考えられる。経営者たらむとする候補者は社内C&C Networkに公約を掲げて全主幹に所信を明示する。投票はC&C Network上で全主幹が記名投票で行い、公正を期す。社内投票で当選した社長は自らの経営陣を結成し、経営方針を明文化して株主総会に提出する。株主総会で承認されて正式に経営陣が発足するのである。主幹は日常業務に於いてVCを主宰しまた会社の社長にも立候補できる。即ち21世紀の大企業は今の会社員より遥かに高い自立性を有する企業家の集団となるであろう。

 

 


第四章  歴史的現代に生きる道

                                          

世の中で生きて行く上で最もつらい経験の一つは長期失業であろう。空腹を訴える子供に対して与える食物が無い時の親のつらさは正に身を切る様な苦痛である。社会的に何の寄与もしていないと思うと世間で肩身の狭い思いをする。また今は失業していなくてもいつ会社をクビになるか、あるいは会社がつぶれて失業するかも知れないと考えると毎日の生活が不安である。それでも人は人間社会を離れて生活する事はできない。それは千年以上も前の万葉歌人山上憶良がうたった貧窮問答歌の通りである。世の中を憂しとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。万葉の時代から千年以上も経て今なお我々は憶良と同じ様に苦悩している。それはなぜであろうか。ここでは人間社会の歴史段階を振り返ってその解決の道を探って見たい。

              原始採集経済において人口を養ったのは自然であり、人間が消費したものを毎年補ったのは自然そのものの再生力であった。人類発生以来の数百万年の間に人類は自然についての知識を集積し、長い人類の歴史で言えばつい最近、即ち約一万年前から自ら種を蒔いて作物を収穫する事を覚えた。即ち農業を始めたのである。農業の開始と共に作物の改良、耕作、施肥等の農業技術は加速度的な進歩を遂げ、遂に人類は全面的に食糧を農業によって自ら生産するようになり、自然採集段階から原始農耕段階へと歴史的発展を遂げたのである。農業の始まりは同時に文明の始まりあった。この事は英語の文化Cultureと耕すCultivateが同源である事からも推察される。歴史学によって明らかにされているように文明は早くから村落や都市国家等の社会、そこには既に王や祭司と戦士、自由民、奴隷等の階級に分かれた社会を出現せしめた。その具体的な発生過程は今は遥かな過去の中に消失しているけれども、その必然性は容易に推察できる。即ち農業によって食糧の余剰が生じると一部の人口は農業を離れてその道具、鍬、鎌、鋤、荷車等を生産しそれを食糧と交換する方が全体として農業の生産力は何倍も上がるのである。即ち社会的分業によって全体の生産力は向上する事ができるのである。時代が下ると道具の材料も石材から金属へと変わってきた。金属の利用は高度の知識と技術を必要としそれを専門として生計を立てる職業人、即ち山師やタタラ師無しには成立し得ない。他方食糧の余剰と共に略奪も生じ、その防御のために人々が団結して防御体制を組織する事が必要となり、その指導者の地位が長い間に世襲化されて階級社会を生じたものと想像される。古代中国の文献によれば大体西暦元年の頃、即ち約二千年前の我国にはこうして成立した小さな国が百余もあって互いに争っていた。そして大体五世紀までには統一王朝が成立し、七世紀の始めあたりから日本という国号を使い始めたのである。こうして社会は職業の分化という水平分化と、階級の分化という垂直分化によって複雑な構造を有する国に進化したのである。

              水平分化においては生産物は自由売買により等価で交換される。垂直分化においては上層の階級全体の生計は下の生産者層から徴収する税によって支えられている。近代以前においてそれは人頭税として厳しく取り立てられた。その苦悩は先の山上憶良の貧窮問答歌にある通りである。果たして人間は文明の発展と共に幸福になったであろうか、不幸になったであろうか。階級社会が収奪に基づいているのであれば政府なぞは無い方がよろしいという考えもでてくる。果たしてそうであろうか。歴史を振り返れば容易に分かるように統一政府が衰えると世は弱肉強食の戦国時代となり、人民は却って塗炭の苦しみを舐めることになる。長い中国の歴史は統一と戦乱の世の繰り返しを何回も示している。よく言われるように権力は真空を嫌い、悪い政府でも無政府よりは増しなのである。問題は人間社会の統合という事業が社会の分化そのものによって生じた一部の階級によって独占される所にある。以後の人類の歴史はこの矛盾を解決するための過程であったと言っても過言ではないと思う。

              このような不平等がいったい何故必然的に成立するのであろうか。それは人間の組織という問題にあると思う。階級社会の構造は組織されたる少数者による組織されざる多数者の支配である。理由は簡単で組織されたる少数者は組織されざる多数者よりも強いからである。支配階級は文化を独占し、神話等によって自らの支配権を正当化し、位階や領地の封建、血縁関係等によって階級的団結を強めると共にできるだけ人民を無知の状態に置き、また人民の組織化を厳しく弾圧する。正に「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」とか「知らしむべからず、依らしむべし」とか「徒党を組む者は死罪」とかは支配者の論理を雄弁に語っている。それでも人間の歴史においては農民一揆や反乱が数限り無く起こった。古くは古代ローマのスパルタクス奴隷団の反乱や新しくは十九世紀のパリコンミューン等が典型的な階級闘争とその弾圧の残虐性を端的に示している。それでは長い歴史を通じて、抑圧されたる多数者の組織化を困難にした根本的な原因は何であろうか。私はそれには二つの原因があると思う。一つは交通及び通信技術の低い発展段階による物理的制約と他は人民の低い知識水準による文化的制約である。人民には乗馬を許さず、道で大名行列に出会えば土下座させ、また一見して身分がわかるように服装にも制約を加え、苗字帯刀を禁ずる事などはいずれも少数の武士による多数の農工商階級の支配を確固としたものにするための制度であったと思う。交通及び通信網の未発達な段階では農民一揆は地域的にも限られたものに止まらざるを得ず、常に支配者によって残酷に弾圧されたのである。慶安のお触書等に見られる様に人民に教育の機会を与えず無知文盲の状態に置き、支配者に好都合な説を教え込む事こそ最も基本的な支配の道であった。長い幕藩体制の支配は明治維新によって終わりを告げ、西洋の議会制度に習って「万機公論に決すべし」という近代への幕が切って落とされた。しかしながら数百年続いた幕藩体制の影響はそんなに簡単に変えられるものではない。明治維新はあらゆる社会階層の人々の生活と思想に深刻な影響を及ぼした。変化の大きさと速さに人々は迷い、苦悩した。この時期に出た福沢諭吉の「学問のススメ」が空前のベストセラーになったのは当然であろう。

              現代が近代以前の社会と異なるのは何であろうか。基本的には国民主権に基づく民主主義の確立であろう。普通選挙によって選出された人民の、人民による、人民のための政府こそ文明の発生以来数千年間に人類が達成した歴史的偉業であると思う。ここに到るには基本的に二つの発展が必要であったと思う。一つは生産力の向上に支えられた交通通信網の発達と他は社会についての人間の思想の発達である。十五世紀の地理上の大発見の結果、西洋諸国は世界中にその活動の場を広げた。それは世界の歴史を根本的に変えたが、中でもアメリカ大陸において初期農耕段階にあったアメリカ原住民との遭遇は世界の歴史に根本的な影響を与えたと思う。当時のアメリカ原住民は文明化した西洋人に比べると遥かに自立性の高い個人として、より平等な社会に住んでいた。文字はもたなかったが自己の言葉に忠実で、誇り高く勇敢なアメリカ原住民はトマス・ジェファソンをして「高貴なる野蛮人」という賛辞を呈せしめたのである。アメリカ合衆国という国の形態も東部のインディアン部族が結成していた部族連合を範としている所が少なくないと思われる。民主国家の出現という意味でアメリカ独立革命は正に世界史的な偉業であった。アメリカ独立革命のわずか三年後にはフランス革命が勃発しているのである。これらの世界史的大事件を発生せしめた要因としてジャン・ジャック・ルソー等による自然権思想の影響が大きいと思う。ルソーは人間が文明に毒される以前の自然状態を想定してそこにおいては人は生まれながらに平等であったと考え、社会は人間が秩序を保つために相互に結ぶ契約に基づくのだという社会契約論を唱えた。そこからもし政府がその契約を破れば当然交代させねばならぬという革命思想が出てくるのである。近代への歴史の扉を開いた社会思想が初期農耕段階にあった新大陸の原住民の社会に範を得た自然状態の思想に由るとは何とも面白い歴史の巡り合わせではなかろうか。現代において我々国民は生まれながらに平等な基本的人権を有する国の主人なのである。ここに文明の発生によって人類に課された社会の分化と統合の矛盾は数千年の歴史的努力の末に今や解消されつつあると言って良いであろう。

              それではなぜ冒頭に述べたように人間はいま猶しばしば不幸で不安に怯えているのであろうか。文明とは社会の分化を意味する。人は社会において何らかの組織に属する事なしには生きていくのが困難である。時には自己の信条に反しても組織の命ずる犯罪行為に加担する事すらある。人間が組織の歯車としてしか生きて行けない状況を人間疎外という。人間疎外の克服こそ現代人に課せられた課題であろう。

              それでは如何にしたらこの人間疎外を克服できるであろうか。それにはその原因たる社会の分化の意味を問い直すのが良いであろう。前述したように万人が農業に従事していたのでは農業そのものの生産力も向上できない。既に原始時代に特定の地域でのみ産する石器や海産物が広汎な地域で交易されていた。職業の分化によってぞ社会全体の生産力は向上するのである。スティブンソン父子による鉄道の発明と実用化によってそれまで徒歩や馬車に頼っていた旅は遥かに迅速かつ快適になった。また運河に頼っていた石炭その他の物の価格は一挙に半分以下に下がった。馬車業者や運河業者の失業という痛みを伴っても社会全体の利便と福祉は大いに向上した事は確かであろう。我国の明治維新も多数の武士の失業という痛みを伴ったが身分制度を打破してより平等な近代社会を実現する上では画期的な大変革であった。これらの例から分かるように社会においてある産業が衰退している時には同時に別の産業が台頭しているのである。幾多の産業分野の生成消滅を繰り返してぞ社会は進歩していくのである。固定した社会は停滞し、成長する社会は変化するのである。

              この様に考えてくれば失業を恐れたり恥じたりする必要は無い。人間が生活の向上を望む限り社会は成長し変化する。社会のある部分が衰退する時には必ず別の部分が成長する。失業は単に社会の変化に対する人間の不適応を示すに過ぎない。従って現代に生きる我々は社会の進歩に合わせて自らの能力を高めていく事が必要となる。失業したらそれは新たな道に進む機会であると把えるべきであろう。現在は失業保険による生活保護や職業訓練による再就職を支援するための社会的な仕組みが整っている。それらを利用して自らの能力を高め又働き口を求めれば良いのである。

              今日の高度に発達したコンピュータ通信網と交通網を利用すれば毎日会社に行かなくても自宅においても或いは世界の何処にいても仕事ができる条件が整いつつある。但しそのためには自ら価値ある仕事を為し得る高い能力が必要である。それには教育が必須であるが衛星通信やコンピュータ通信網の利用によって時と場所を越えて多種多様な専門教育を多数の人々に極めて安価に提供できる通信網教育システムが整いつつある。政治における究極の形態が自由にして且つ平等な人民の、人民による、人民のための政府として実現しているように、近未来の産業においては各人が独立した事業家としてコンピュータ通信網を介した分業と協業によって事業を行う形態が定着すると期待される。そこでは学歴なぞは通用しない。常に実力が問われるのである。福沢諭吉の「学問のススメ」は120年もの年月を経てなお、行くべき道を指し示しているのである。

 


第五章 二十一世紀企業人のあり方

                            

企業人とは何か。ここでは事業を企て、企てを事業化する人と定義しよう。即ち世の中に有益な事業を提供する事によって報酬を得、生計を立てると共に事業を推進して行く人である。そう考えると企業人に必要なのは社会に有益な事業を発明し、企画し、事業化する能力であると思う。発明、企画、事業化の三段階がうまく回転して初めて企業は成り立つ。そして事業の成否を最終的に決めるのはそれが世の中に真に必要とされる事業であるかどうかという事である。発明王エディソンの最初の発明は議会向けの自動投票集計装置であったが、それを採用すると種々の駆け引きが不可能になるため政治家に受け入れられず、事業化には失敗した。エディソンはこの失敗から社会に必要とされるものでなくては如何なる発明も無意味である事を学んだのである。従って発明の第一歩は社会に必要なものは何かを見ぬく事である。日常生活の上で発生する「こんなものがあれば」とか「こんな事ができれば」とかいう願望こそ発明の種なのである。しかしながらその願望をものにするにはその実現方法を確立する事が必要である。既存の方法で不足であれば研究を積み重ねて自ら開発するより他に道が無い。発明とは創造なり。事業の種となる発明が成立すると次に企画と事業化の段階となる。ここでは生産方法の確立、販路の開拓、潜在顧客への売り込み等が行われ、事業資金の調達も必要不可欠となる。企画と事業化は発明とは相当仕事の性質が異なるため、多くの発明家は事業化段階で躓く事が多い。明らかに企業の全段階を一人で実行するのは極めて困難である。そこで多くの人々が力を合わせて事業の各段階を分担する組織、即ち会社が必要となるのである。現代においては研究開発、企画、生産、販売の各部門に所属する何万人という従業員を雇用し、何兆円という売上を上げる大会社が多くの産業分野において支配的な力を発揮している。またそのような巨大会社を別にしても特定の分野に専門化した幾多の中小会社が我国の産業の主力を担っている。従って企業人と言えば現在では大抵会社人を指す事が多い。

しからばなぜ今企業人のあり方が問われているのであろうか。それはバブルがはじけて以来過去数年間の経済不況が示す様に、従来の企業のあり方そのものが時代に合わなくなっているという認識によるのであろう。我国の大企業には膨大な社内失業があると言われる。その傾向は高度成長が終了して社内に余剰人員が生じ、所謂窓際族の発生を見た十年程前から徐々に顕著になっていたのであるが、組織改革を先送りしてきた怠慢のつけが数年来の長引く不況や就職難となって現れているのである。十年位前まではまだ「日本式経営」は高く評価されていたものであるが今や話題にもならない。高度成長時代に大量に採用した所謂団塊の世代が本来最も力を発揮できる五十代に達した今、社内失業状態に置かれて持てる力を十分発揮できていない事は実に惜しむべき才能の浪費である。それでは何故そのような社内失業が生じているのであろうか。それは過去の高度成長時代には成功した組織、即ち事業部制度等の縦割り組織とビラミッド型階層組織が現在の低成長時代には最早整合していない事によると思う。一見して明らかなようにピラミッド型組織は低成長の下では不可避的に社内失業を発生し、また過度の地位争いのために無駄の多い組織であるし、縦割り組織では激しい市場の変化に対応するのは困難である。従って企業人のあり方として今求められる事は先ず企業の形態を時代に合う様に変革していく事であろう。先述の発明王エジソンの発明の一つは発明を使命とする研究所の発明であった。メンロパークのエジソン研究所からは幾多の発明が生まれて直ちに事業化され、今日の電気文明を産み出した。炭素電話器、白熱電灯、蓄音機、映画、無線通信等の発明が如何に世の中を変えたかを思えばメンロパークの魔術師というエジソンのあだ名は決して誇張ではない。その様に世紀の変わり目に生きる我々も新たな企業の形態を発明して行く事が問われているのである。

それでは如何なる方向に企業を変えて行けば良いのであろうか。私はその鍵となるのはネットワークと知識であると思う。インターネットの急激な成長に見られる様にネットワークは産業、報道、娯楽と生活の隅々まで浸透してきている。多くの企業においても社内イントラネットが仕事のやり方を日々変革している。文字だけでなく図、絵、音声、動画まで含んだマルティメディア情報が通信網を通じて企業の内外に大量に交換されている。今やコンピュータを用いて一度に多数の人々に大量の情報を送る事は日常茶飯事になっている。ネットワークが企業のあり方に意味する所は何であろうか。それはピラミッド型の階層組織の終焉であると思う。通信手段が口頭もしくは文書に限られた時代には最も効率的に通信を行う組織がピラミッド型階層組織である事は明らかである。通信に手間がかかる時代には特定の分野別に縦割りにした組織が効率的な事も明らかであろう。しかしながら如何なる分類も本来便宜的なものであり、市場は企業内の部門には関り無く独自の法則に従って変化する。通信及び交通網の発展と共にその変化は加速する。ある時期には如何に成功した組織でも早晩時代遅れになるのは蓋し当然であろう。十九世紀の中頃電信に始まった電気通信はやがて電話にとって代わられ、電話網は世界の隅々まで張り巡らされたが、今やその電話網を使ってインターネット等の非電話通信が大発展を遂げているのである。日米回線においては既に非電話通信が電話通信量を上回っている。電話網の開放が大論争となっていたつい十年前には予想も困難であった事態である。またCATVを用いた放送と通信の融合、通信衛星を用いた放送と移動通信の融合等従来の分類ではうまく当てはまらない領域の新事業が急激に発展しつつある。この様な市場の変革に対して我国の多くの会社は組織改革が遅れ、前述の如く大量の社内失業による人的資源の無駄と若者の就職難、そして長引く不況を生じているのである。

それでは上述の通信網をフルに活用する企業の形態は如何なるものであろうか。それは従来のピラミッド型組織とは打って変わって非常に平坦な組織であろう。電子メールによって多数の人々に大量の情報を瞬時に送る事ができるコンピュータ通信網を用いれば多数の人々が情報を共有して分業と協業、所謂Collaborationによって仕事を遂行する事が可能となるのである。通信網の特長を活かせば地理的制約に縛られず、どこでも仕事をする事が可能となる。衛星通信とインターネットを活用すれば従来会社に行かなくては利用できなかった情報や情報処理手段を自宅にも備える事ができるし、地理的には遠く離れた地点間で会議や打ち合わせを行う事も可能である。交通通信網の発達に支えられた産業の高度化に伴い、生産の多くの段階、即ち調査研究、事業化提案、研究開発、企画、設計、顧客サービス等は工場や会社に行かなくても大半の仕事が実行できるし、コンピュータ通信網で接続された工場に遠く離れた場所から設計書と発注書を入力して製造を行う事も可能になるのである。通信網を介する取り引きが普及してくると、企業人は相互に提携して通信網の上で仕事をする事が可能となるであろう。場所を選ばすに仕事ができれば人々は生活に適した場所を選んで住む事ができる。地価が高く大気汚染、騒音公害に悩まされる大都市を離れて地方の市町村に住みながら仕事は高度に発達した通信交通網を駆使して従来以上に効果的に日本全国ひいては世界市場の上で事業展開する事も可能なのである。我国においては久しく東京一極集中の弊害が叫ばれ、他方では地方の過疎化と高齢化は我国の原風景たる農山村の消滅が心配される所まで進んでしまっている。今こそ通信及び交通網を活用して東京一極集中と地方の過疎化問題を一挙に解決する道が開けているのである。

それではその様な変革を可能とする本質的な力は何であろうか。それこそ知識である。人類の歴史を通じて社会の生産力と発展段階を究極的に決定したのは知識の水準であった。近世に入って世界における西欧の優位を決定的にしたのは中世にパリ、ボローニャ、オクスフォード等に発生した大学における研究と知識の蓄積と普及であったと思う。時代は既に近代に入って長い鎖国の眠りから覚めた日本人は西欧文明との技術格差に衝撃を受けた。明治に入ってから西欧の制度を真似て大急ぎで設けられた教育制度が今日に到るまで大きな影響を及ぼしている。所謂有名大学も東京を始めとする大都市に集中している。統計によると東京の私立大学に通う大学生には年間二百万から三百万円もの経費がかかるという。それ以前の受験教育まで入れると何とも膨大な投資が青少年の教育に注ぎこまれている。しかしながらその膨大な投資に対する成果は充分に上がっているとは言えないようである。受験教育の弊害は学生から自主性と創造性および学問の楽しみを奪う事であり、たいていの人は学校を卒業したらもう学習を続けようとはしない。他方において市場は急激に変化して行く。学習習慣の無いひとが急速に時代に合わなくなるのは当然であろう。企業人には生涯学習が必要不可欠である。そして生涯学習を続ける原動力は学ぶ事に楽しみを見出す事である。生涯学習の一つの有効な手段として通信網の活用があると思う。既にNHK第二チャネルや放送大学は久しく用いられているが、現在の通信網技術を用いれば遥かに多数の講座を極めて多数の人々にかつ安価に提供する事が可能なのである。この様な通信網学園を活用して地方に住みながら生涯学習を続けて自らの能力を高めつつ世界市場を舞台に仕事をする企業人によって、大学における基礎研究と実社会への応用の道が短縮され、地方の産業が活性化し東京一極集中と地方の過疎問題を共に解決できるであろう。また受験地獄も自ずと解消し、大学は教育の負担を軽減されて研究機能を充実する事ができ、その研究成果は生涯学生たる企業家によって速やかに事業化されて技術立国の基盤が強化されるであろう。二十一世紀においては企業人とは会社人よりもむしろ事業を起こす起業人、事業の種を生み出す学問芸術を探求する学業人を指す言葉となるであろう。


第六章   帰りなむいざ、田園まさに荒れむとす

 

表題に掲げた文は古く中国は晋の時代に生きた詩人陶淵明(365−427)の有名な「帰去来の辞」の冒頭の句である。これを何故今掲げたかと言うと我国の現状が似たような状況にあると考えるからである。陶淵明は官吏生活が嫌になって故郷に帰り、大自然に親しみ農にいそしむ生活を送ったのであるが、我国の現状は帰るべき故郷も消失しつつあるという深刻な状況にある。1960年代の高度成長は農山漁村から大都会への人口の大移動を生じた。中でも東京一極集中と呼ばれる程に首都圏への人口の集中が起こり、今や我国の人口の二割近い人口が首都圏で生活している。人口移動は若年層に集中して起こったため首都圏の過密は同時に地方の過疎と老齢化を引き起こし、今や多くの農山村が消滅しつつある。私は数年前にそれこそ何十年振りかで故郷を訪れた。長い年月の間に多くの変化があったのは当然であるが、中でも人口の減少と高齢化が目だっていた。昔は村に三軒も店があったのに今は一軒も無くなっていた。昔は豊かな田畑であった所が今は荒地と化し、所によっては茅が生い茂って通り抜ける事も出来ない程になっていた。かと思うと山奥にゴルフ場ができて農薬を使うため井戸の水が使えないというので水道が引かれていた。昔は下の小川で子供が水浴びをし、バアさんが洗濯をし、夕方には主婦が米をといでいたものである。あんなに清い水が年中豊かに流れていた小川が今は両岸をコンクリートで固められて、殆ど水も流れていないドブの様な姿に変わっていた。父母たちが植林し下草刈りをして育てた町有林は今や天突くばかりの巨木の森となっているが、町には製材所も無くなっているので利用される事もなく、年々徒らに大きくなるばかりである。また台風と大雨で山はあちこち崩れて土砂が谷を埋めていた。山は青き故郷、水は清き故郷という詩は私の故郷には当てはまらなくなってしまった。

高度成長時代に集団就職列車に乗り、あるいは学校に入るために故郷を離れた我々が今や定年を迎える年代にかかっている。我が国の現状と将来についてじっくり考える時ではなかろうか。今後の日本の産業地図は如何なるものになり、人間は如何に生活して行くべきであろうか。大都市の過密と農山漁村の過疎は同じ現実の表と裏の関係にある。経済成長と文化の発展の上で都市の果たす役割が大きい事は文明Civilizationという言葉が都市(City)と同根である事からも納得できよう。古代文明は都市国家と共に発生したのである。西洋の諺にあるように「都市は人間を自由にする。」こう考えると我が国の高度成長が同時に著しい東京一極集中を生じたのも分かる。しかしながら大都市と地方の著しい不均衡が一方では大都市の貧しい住宅事情、通勤地獄、騒音公害、人間砂漠と呼ばれる孤独な生活環境を、他方では農山漁村の後継者難、人口減少、地場産業の衰退を招来している事は身にしみて分かる。特定の大都市への人口の過度の集中を緩和し、地方の中核都市により均等に分散して全体として均衡の取れた経済発展をする事こそ我が国のあるべき産業の姿であろう。

それでは如何にしたらその様な均衡のとれた産業の発展が可能であろうか。その解は高度に発達した情報通信網と交通網の活用にあると思う。今や日本全国どこにも電話の無い所は殆ど無く、通信衛星が日本だけでなく広くアジア地域を覆っている。コンピュータ通信網によって大量の情報を多数の人々に一度に送る事ができる。ディジタル放送衛星により日本全国に多数のTV、ラジオ番組が放送されている。大量生産技術の進歩によって経済における生産そのものの占める比重が低下し代わって観光、教育、医療等のサービス業や金融、物流、情報産業あるいは調査、研究、開発、保守等の知識産業の比重が高くなってきている。知識産業の主体は人であり今日の高度に発達した情報通信網と交通網を活用すれば人はどこにいても仕事をし、教育を受け、生活する事ができるのである。

陶淵明の時代には官を辞して故郷に引退する事は正しく異なる世界に移り住む事を意味した。しかしながら彼には自然の豊かな故郷があり、そこで彼が創造した芸術は千五百年の時を隔てて今日もなお我々に語りかけている。今や我々は故郷を失いかねない危機的状況にあるが、その代わり陶先生の時代には夢にも想像できなかった高度な情報通信網と交通網およびそれを産み出す科学技術がある。我々が持てる力を充分に活用すれば故郷に帰る事は決して世界と隔絶する事ではなく、反対により密に連携して働き、学びそして生活する事ができるのである。そしてそれは地方を活性化し、失われつつある故郷を再生する道でもある。

帰りなむいざ、田園まさに荒れむとす。

 


第七章    二十一世紀の世界

 

以上述べて来た事をもとに二十一世紀の社会がどうなるのか、如何にあり得るのかを考えてみよう。

 

産業

通信網と交通網の発達によって売り手と買い手、生産者と消費者が直結される。インターネットを利用した電子商取引(EC)や契約農家による有機農産物の注文生産、販売契約を受けてから生産を開始して三日以内に顧客に納入するパソコンの注文生産等は既に実現しているのであるが、今後この動向はますます発展して行くものと期待される。調査研究、営業提案、開発設計、製造検査、保守点検、顧客支援等あらゆる生産段階においてコンピュータ通信網が駆使され、社会に必要な事業の探求と実現の間隔が短縮される。事業家と投資家が直に結ばれて必要な事業に必要な資金が有効に投資され、開発の投資効率が高まる。生産技術の高度化によって設計と製造が自動化されて来ると、企業のあり方も大きく変わってくる。従来同じ企業の中の異なる部門であった営業技術部門と製造保守部門が分離独立して且つ相互に開放化する。従来の企業系列を越えた会社間の取引や事業提携が進展して行く。コンピュータを駆使する設計、製造即ちCAD/CAMの標準化が進み、必要なものが必要な時に最適な所で調達、製造される。消費者と生産者、顧客と企業、企業と企業とが有機的に結合されて産業が高度に発展して行くものと期待される。

 

教育

産業の基礎は技術にあり技術の基礎は学問にある。福沢諭吉の「学問のススメ」の精神は国家の支配下に運営されてきた教育制度の中で、ややもすると失われてきた。インターネットと移動通信、双方向TVと衛星通信等に代表される通信網と画像音声符号化に代表される信号処理技術に支えられたマルティメディア即ち多元情報技術を駆使すれば、時間と空間を超え広汎にして且つ多様な個々人の需要に応える学習教育システムを提供する事ができる。九年間の義務教育は国や地方自治体が主となって国民に基礎教育の機会を平等に提供する責任があるのは勿論であるが、それ以降はむしろ個々人が自己の目的に合わせて多様な選択肢を活用して学習を続けて行くようになるであろう。こうして家計は教育費の重圧から開放されると共に、与えられるものではなく各人が求めるものとして学習者主体の生涯学習の制度が確立して行くものと思われる。現在国立大学の独立法人化が検討されているが教育機関としての大学は今やその使命を終え、義務教育以降の生涯教育は通信網を活用した通信網学園が主となり、大学受験の呪縛から解き放たれた教育は本来の学問精神を復活して更に発展して行く事になろう。それは決して大学の終焉を意味しない。むしろ教育の足枷から解かれた大学は研究の場としての役割を強めて行くものと思われる。通信網学園においても大学は学問研究の中心として大きな役割を果たして行くに違いない。現在国立大学の独立法人化に関する議論のなかで国は大学にもっと金を出せと言う人があるが、世界にも類を見ない硬直化した財政状態にある我が国には最早そういう余裕は無い。そもそも大学が象牙の塔と化し、学歴社会の元凶として存在する限り、学問のための投資はますます先細りして我が国の学問そのものが活力を失って行く事になる。反対に学問研究の成果を広く世の中に還元して行く事によってこそ学問研究を支えるのに必要な資金が集まるのである。学問の成果を社会に還元する一つの有力な方法として通信網学園があり、その成果を産み出す研究の場として大学は発展して行く。おそらくこれからの大学は専門の研究を深め、諸分野の総合化を行う学問の場として、学問研究ばかりでなく起業と問題解決の場としてより多くの人々を引きつけ、発展して行くであろう。

 

社会

産業と教育の変化と共に社会もまた変化する。通信と交通網の発展によって東京一極集中と地方の過疎問題が同時に解決される。地方にいても中央にいるのと変わらず学問の機会があり、必要な情報源に接続できる。コンピュータ通信網を活用した分業と協業によって場所を問わず仕事をする事ができる。地方が自立を強めれば国家の仕事は外交と防衛及び国家的な基盤事業に限定され、より細かな行政サービスは地方自治体が担う事になる。インターネットと衛星通信の発展によって国の事も地方の事もすべての住民が参加できる形の会議によって議論し、決定する事、即ち直接民主制が実現可能となる。地方の自立が進めば世界のあちこちの国境紛争や民族の争いも徐々に意味を失って終息する。古代ローマ帝国のローマ市民のように世界市民としての自覚が広まり、人々の活動の舞台は地域から世界に広がり、世界から地域へと深まるであろう。

 

人生

上に述べた社会において人々の生活はどう変わって行くのであろうか。まず人々は今よりも遥かに自立性を高め、より自主的な生き方をして行くものと期待される。歴史時代を通じて人々は何らかの共同体、即ち家、村、部族、藩、幕府、政府、会社、宗教団体等に所属して生きてきた。何故ならば一人では世の中との接触が困難であったからである。今や高度に発達した交通通信網によって、国境をも超えて人々は日々通信し往来している。人は特定の組織に属さなくても学び、働き、生活する事が可能になりつつある。政治のしくみが先進国においては一人一票の平等な民主政治に進化してきたように企業もまた究極的には一人一社の形に発展して行くに違いない。もちろん従来の会社形態は特に工場を主とする生産法人においては長く続いていくであろうが、その中で働く人の仕事のやり方は今よりも遥かに自由かつ平等なやり方に変わっていくであろう。会社よりも組合が企業の主要形態になるかも知れない。研究や生産及び保守のための設備は組合が保有し運営するが、実際に研究、開発、設計を行うのは独立した企業家としての組合員である。販売は通信網を介する仮想店舗あるいは広域物流企業を通じて行われるであろう。二十一世紀に向けて人々は通信網で結ばれた大学、専門学校、電子図書館等の多様な選択肢を通じて生涯学習を続けると共に、発達した交通通信網を活用して時と所を超えた柔軟な実行団方式で仕事をして行く事であろう。交通通信網の活用によって人はより広い世界で働き、より近しい地域に住み、より大きな自由を持って生活して行く事ができるであろう。

 

(2005/2/12 uploaded to KaorinHP by Osamu Ichiyoshi)