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送信日時: 平成 20年3月15日土曜日 20:38
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件名: 二十一世紀企業研究会
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二十一世紀企業研究会とは
「人が全国どこでも学び、生涯現役で働ける企業」を提案し研究する会です。研究しながら二十一世紀企業を始めましょう。
人間の社会とは何か
社会問題を議論する時にそもそも人間の社会とは何かということを考えてみる事は重要であると思います。一日たりともお金無しには暮らせない私たちには人間の社会を離れた生活は想像することもできませんが、数百万年の人類史からはつい昨日のことに過ぎないほんの一万年前には今日我々が暮らしているような人間の社会は存在もしていませんでした。
この一万年の文明の発展はまさに天文学的な膨張ですが、現在はついにその限界に来つつあるという気がします。そこでそもそも人間社会とは何かということを考えてみました。
人間の社会
1. 職業の分化と共に生じたる社会は人の相補いて成る
2. 人間を支配する国家を生じたる階級分裂ぞ世の基本的矛盾なる
3. 数千年の歴史の上に人間は自由と平等を回復しつつあり
4. 世の中は人と人との助け合い、競争よりも共創あるべし。
解説
1.原始社会
原始時代の自然採集経済においては人は小集団で暮らし、食料を求めて絶えず移動していました。やがて植物の栽培が始まり、人間は条件の良い場所に定住するようになりました。それと共に農具の製造などの分業が始まりました。それが更に進んで職業が分化し、人間の社会が出現しました。社会にはまだ貧富の格差もなく部族の重要事は全員の集会で決める原始民主制でした。これは過ぎ去りし歴史の黄金時代として例えば中国においては堯や舜などの理想的な天子の時代として、我が国においては高天原や竜宮としてかすかに記憶せられていると思われます。
歴史的には北米大陸に西洋人が到来したころの原住民の社会が相当し、Geneve生まれのフランスの思想家J.J.Roussauに「人類の自然状態」の思想的素材を与え、そこから社会契約論の思想が生まれ、フランス革命や米国の独立につながる源となりました。モルガンの「古代社会」によるとIroquois族の間では兄弟姉妹の子供は皆吾が子であり、おじ、おばは皆「親」と呼ばれていました。一人の子が孤児になっても親族が皆で育てました。部族の一人に危害を加えると部族全体の重大問題となりました。このように国家成立以前の社会の北米原住民についてはその誠実、勇気、堂々たる態度に対して米国の独立宣言を起草し、後に合衆国の第三代大統領となったトマス・ジェファーソンをして「高貴なる野蛮人」(noble
savages)の賛辞を呈しせしめました。独立性の高い州の連合(United States)として国王のいない民主主義の国として近代史に出現したアメリカ合衆国の政治形態も北米原住民の部族連合に範を取ったものと思われます。この点にご興味があれば下記書物をご覧下さい。
Bruce.E.Johansen著
Forgotten Founders (Gambit,1982)
原始社会においてすでに交易が広く行われました。海の民は海産物を山の民は山の産物を交換しました。職業の分化こそ人間の社会の起源だと思います。人間は社会において各自の職業と交易を通じて互いに補いあって生活しています。世に役立つものであればどの職業に貴賎は無いと思います。
2.文明と国家の発祥
今日では国家の無い社会は想像も困難です。国家とは人間を支配する権力機構であり、それが如何に発生したかは歴史のはるか彼方に消えていますが、私は牧畜の発生と関係があると思います。中国は中央の農耕民族と周辺の遊牧民族との絶え間ない抗争が歴史を形作っています。遊牧民は動物を飼いならして生活の資のすべてを家畜から得ています。人間も動物の一種ですから、人間を支配してそこから収奪する生活様式が生じるのは自然だと思います。一旦始まると戦争は利益の多い事業と
なり、支配範囲の拡大は国家の誕生にまで行き着きました。日本の建国に関する学説の一つとして大陸からの騎馬民族来襲説がありますが私はそれが多分に説得力を持っていると感じられます。
3. 民主制の回復
前述のJ.J.Roussauとフランス革命、T.Paineとアメリカ合衆国の独立革命、日本では明治維新などの社会的大変動を経て、人間の自由と平等思想に基づく民主主義はかなり進展しました。これが如何に偉大な人間解放事件であったかは日本の明治時代を振り返ると良く分かります。福沢諭吉、北里柴三郎、野口英世その他多くの明治の先達は変化の激しい時代に普通人の何倍ものスケールの大きな人生を生き、偉大な業績を残しました。
この段階はいまだ完成してはいません。現在の間接民主制の限界と将来の直接民主制への移行に果たす、情報通信網の役割については二十一世紀を楽しく生きよう会のHPをご覧下さい。
4. 競争よりも共創
今日の社会では競争ばかりが強調されています。海外企業との大競争に勝たなくては成らないと言う口実で非正規雇用による賃金引下げと正規雇用者の長時間労働にサービス残業、「過労死」が国際語になる状況は日本の恥だと思います。勝者と敗者、バスに乗り遅れるな、猛烈に働こうなどという言葉がビスネス書に氾濫していますがそれには一体どんな意義があるのでしょうか。
オリンピックで金メダルをとるのとメダルを逃すのと待遇に差がありすぎます。競技に勝つために体を極限まで鍛えることは健康には返ってマイナスです。スポーツ選手は短命に終わることが多いことを考えると勝利至上主義は有害な面が大きいと思います。
これらの問題の根は学校教育における過度の競争助長があると思います。試験で一番を取ったり、有名大学に何人も合格させたりするのは悪いことではないにしろ、学問的には大した意味はありません。
学者はノーベル賞をもらうとまるで神様のように扱われますが、学問の業績の評価は実は難しいものだし、遺伝の法則のメンデルのように後人に再発見されるまで埋もれて半世紀以上の時が過ぎた例も多々あります。
高木貞治の近世数学史談によると大数学者のガウスは後年の研究成果は殆ど発表しませんでしたが、結局は「一人の大天才がふせておいたことも多くの小天才があらかた発見した」実例を幾つか解説しています。
日本の学校制度は明治初年の学制発布により、殖産興業、富国強兵政策の柱として西洋諸国に追いつくことを至上命題としたために殊更に競争意識を植え付けるものと成ったと思います。我が国の学校は軍国教育に絶大な力を発揮し、第二次世界大戦の終わりとともに日本人は「教育の恐ろしさ」を心底痛感したものです。
そもそも人間の社会は職業の分化により発生し、社会とは即ち人と人との補い合い、助け合いのための共生組織に他ならないことを学校教育においてしっかり教えて頂きたいと思います。「受験の為の教育」のために英才教育にまい進する「もうれつ先生」よりも「生徒のための教育」を心がけて丁寧に教え、生徒の話をよく聞いてくれる対話による教育を行って頂きたいと思います。
競争が必要なのは人が自ら設定した目標を実現するための自分との競争であり、他人を蹴落とすための競争ではありません。我々がオリンピックの勝者を讃えるのは他人を蹴落としたからではなく目標の実現に対して払ったその人の努力と克己心に対してです。
これからの人間社会はその起源と本質に立ち帰り競争よりも共創 (共存、共栄、協力共同、共立、、、、)が鍵になると考えています。
それがどんな世界になりうるのかは次回に提案させていただく予定です。
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市吉 修
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二十一世紀を楽しく生きよう会
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