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送信日時: 2012311日曜日 0:36

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件名: 東京大空襲と東日本大震災

 

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3.103.11

昭和20(1945)310日の夜には東京に米軍の大空襲がかけられ、下町一帯が火炎地獄となり猛火の中で一晩のうちに約10万人が焼死しました。それから約半世紀後の平成23(2011) 311日午後246分に福島県沖を震源とするmagnitude 9.0の地震とそれによって発生した大津波のために数時間の間に2万人近い人々が死亡または行方不明になりました。加えて福島原発の冷却機能の喪失と水素爆発に伴う放射能の広域飛散により周囲30kmの範囲の住民は取るものも取り合えず自宅を離れて避難せざるを得ませんでした。福島原発の事故によって東日本大地震の災害は筆舌に尽くせぬ悲惨なものになりました。一年後の今も34万人が避難生活を余儀なくされています。

 

自然災害より遥かに悲惨な人災

明らかに戦争と原発事故は人災です。人間が他の人間に対して如何なる災害をもたらしうるかはそら恐ろしいほどです。しかもその途中経過において当事者は時には良かれと信じながら結局は恐ろしい害を為したのではないかと思います。ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、毛沢東などはその最盛時には民衆から神のような崇拝を受けていました。大日本帝国では学校で天皇は神であると教育していました。これが軍部の独走を許した根本的な原因ではなかったでしょうか。

 

孤立を恐れざるべし

戦争も東北大震災も今から振り返るとその原因や過程はよく分かりますが当時は目先の問題に惑わされて根本的な問題が良く見えなかったと思います。車で避難して渋滞に巻き込まれ、道路に立ち往生している間に津波が来襲したが幸運にも助かった人が「津波の事は全く考えなかった」と言っていました。戦争は政府の宣伝に惑わされて国民が真実を知らないまま事態が進展して行く所に原因があります。日本の原子力行政も全く同様です。私は核燃料棒なるものが冷却しないと2000度の高温を発して熔け落ち、原子炉容器のコンクリートをも熔かすほどの始末に負えないものだとは全く知りませんでした。しかも原子炉の運転が続く限り増えるばかりの最終廃棄物(死の灰)の処理技術も保管場所も全く決まっていないまま原子力を推進して来た国や電力会社は国民を騙していると言っても過言ではありません。例え意図的にではなくとも騙す人間が悪いのは勿論ですが騙される方にも多少の問題があるのではないでしょうか。両者に共通するのは浅はかな思考でしょう。

浅はかな知識の原因は人間の孤立への恐怖ではないでしょうか。昔何かの本で後に東大で教養主義の哲学者として鳴らした河合栄次郎が若き頃ヨーロッパに留学中にドイツに行かなかったのはマルクス主義にかぶれると出世できないからと言っていたという挿話を読んだ記憶がありますがもしそうなら彼はまさしく曲学阿世の徒であったと言えるでしょう。かくいう私も彼を笑うわけには行きません。大学に入る時に両親に共産主義に染まると就職に差し支えると注意されました。大学に入ると民主青年同盟に誘われたりしましたが結局彼らとは距離をおきました。エンゲルス

の「空想から科学へ」、「自然の弁証法」や「家族、私有財産および国家の起源」などは愛読しましたが学生運動には違和感を覚えました。同様にキリスト教には興味と英語の学習を兼ねて新約聖書は三度も読み、またある時期には教会にもよく通いましたが自分がキリスト教徒だと言うわけには行きません。私は史的唯物論も弁証法も福音書も自然科学や文学と同じに捉えています。理系か文系かなどという区別はありません。問題は真実か否か、その問題にどんな意義があるかです。世の中で当然とされることも自分に納得が行かなければ賛成することはできません。そのために世間で孤立する事があろうとも止むを得ませんね。

 

他人に聞くべし

人は一人では生きられず。これは人間の本質ではないでしょうか。一人の時も人は心の中で対話しています。思考の形式は対話ではないでしょうか。対話形式でない思考はおそらく潜在意識、意識されざる意識でしょう。

思考が自分自身との対話だとすればその限界も明らかです。人は自分の知らないことは考えようがありません。思弁にとどまればすぐに行き詰ります。そこで他人に聞くことが必要不可欠になります。対話は人間性の根源であり、あらゆる人間の問題は対話以外には解決の方法が無いのではないでしょうか。

イエスは「汝の敵を愛せよ」と説きました。私にはそれは困難ですが「汝の敵と対話せよ」と信じています。

 

学問

学問は人と人との対話に成る

人は自己との対話で思考す

一人の経験は学問を通じて

万人の知識となる

思考で深まり、対話で広がる

学問は人の自立の基なり。

 

自然災害も人的災害も防止するには学問が必要ではないでしょうか。

 

 

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      市吉 修                                Osamu Ichiyoshi

二十一世紀を楽しく生きよう会  Human Network for Better 21 Century  http://www5e.biglobe.ne.jp/~kaorin57/

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