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件名: 二十一世紀企業研究会 ; シーロと地域社会
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シーロ
二年前に近所をうろついていた子猫を拾った事は以前に報告したことがあります。色が白いのでシーロと名づけました。避妊手術も受けさせて繁殖の危険は無いので外を自由に歩きまわっています。今ではすっかり成長しました。
地域猫
現在シーロはうちではあまり餌も食べません。ご近所の何軒かで可愛がられて餌をもらっています。私は最低限の施設、すなわちねぐらを家の外に作ってあげているだけです。冬はそこで寝ますが夏はほとんどそこでは寝ませんね。シーロはうちの猫ですが同時に地域の猫でもあり、私はシーロに最低限の保障をしているだけです。シーロは毎日自由に生きています。近所の他の猫と仲良くしたり、けんかしたり、猫には猫の社会があるようです。時には丸一日姿を見ないこともあります。
子育てに似ている
私たちの子供二人は既に成人して独立しています。時にメールで連絡するだけで普段はお互いに自由に生活しています。あたかもシーロに対するがごとしです。
個性の尊重
人間社会の第一原則は人は互いに助け合え、第二原則は人は自らを助けよということだと思います。この互助と自助の本となる原理は個の尊重だと思います。人間に対しては人格の尊重ですが、対象はべつに人には限りません。殺生を禁ずる仏教の思想も根は同じだと思います。物もその特性を活かして大事に使えば長持ちします。我々の体も同じですね。
幼児虐待問題
明治維新前後に日本を訪れた西洋人は日本では子供が大事にされているのに驚嘆しています。それから150年後の現在幼児虐待が後を絶たないのは悲しいことです。先の大戦後の戦争孤児に対する扱いから既に半世紀前には幼児虐待は普遍的な風潮になっていました。幼児虐待の多い社会は動物虐待も多いですね。
幼児虐待の原因
それは現代人が社会の根本原理である個の尊重を忘れ去っているからではないでしょうか。個の尊重とは他者の立場に立てる事です。自己主張ばかりする人は他者の立場を理解できず、個性の尊重もありえません。幼くて弱いとは言え子供は一個の人間です。その個性を尊重する思想が現在社会的に欠落してはいないでしょうか。幼児虐待をする大人は「しつけだった」と言うのが常です。しつけが必要なのは大人の方であり学ばなくてはならないのは「人格を尊重する」心ではないでしょうか。
人の生き方
昔私が独身のころよく晩飯を食べた店はおばさんが一人でやっていました。戦争で夫を亡くしましたが女手一つで子供五人を育てあげました。生活に追われて世話が行き届かなかったと思いますが子供達は皆国立大学を出て立派な社会人になりました。それに対して二年前秋葉原で何人もの通り魔殺人を犯した青年は医者の家に生まれて医学部に行けという親の期待に押しつぶされて転々と職を代えた挙句にとんでもない罪を犯してしまいました。おそらく親はその子の育てに大変な苦労をされたと思いますが、その苦労が却って仇となり息子を大変な苦境に追い込んでしまいました。
近代化の負の側面
明治以来個性の尊重精神が薄れたのは身分制社会が崩壊して人間が平等になると同時に競争社会になった事だと思います。自己主張ばかりで他者の立場を無視するのは特に政治屋に端的に出ています。最近はNHKの日曜討論もあまり見る気がしなくなりました。各党の言い分は聞かなくても分かっていますから。長い歴史の中で先人の命がけの努力の上に確立した間接民主制も限界が露になっていると感じます。二十一世紀の現在では根本的な変革が必要ではないでしょうか。
社会のあり方
私の理想は個人が尊重され人間が助け合い自立できる社会です。狭い社会では当然軋轢も生じますが対話に基づき解決する調和した社会です。個の尊重は実は気楽でかつ充実した生き方だと思います。各人が自助努力をして足りない部分だけ助けあえば良いのですから負担も軽く、自由かつ気楽です。
人間の社会の基は人間の
対話に基づく調和にあるなり。
人間の社会の基は個人にある、
人の心は個人にぞあれば。
心と我
心とは我と世界の関わりにあり
我は我が心の全体なり
全体は部分の全体の一部分なれば
我が心には我も知らざる部分があり
我が知るのは
己が決めたる言葉と己がなしたる事なり
我は思う、ゆえに我あり
我は行う、ゆえに生きるなり
市吉 修
平成23年(2011)8月20日