前書き

約三年半「二十一世紀企業研究会MLを続けていますが、以下は最近の三週間に私が発信したメールです。安倍内閣が差重要課題として教育基本法の改定を始めとする教育再生政策を推進していますが、私には本質的なところを忘れて枝葉末節な所をいじくりまわしていると感じています。教育再生問題とその解決案について以下の私案を公開します。皆様のご参考になれば幸いです。

 

 

差出人: O-ichi [osamu-ichiyoshi@muf.biglobe.ne.jp]

送信日時: 平成 19715日日曜日 21:49

宛先:

件名: 二十一世紀企業研究会

 

配信無用の方はお手数ですが返信願います。

MLは会員の紹介により加入する会員の自主研究会です。返信または全員へ返信により意見交換をお願いします。

二十一世紀企業研究会とは

「人が全国どこでも学び、生涯現役で働ける企業」を提案し研究する会です。研究しながら二十一世紀企業を始めましょう。

 

教育問題

先週の東京新聞によると東京のある小学校が学力試験で44位から一躍1位に躍進しましたが、内部告発によって分かった事は試験の時に先生が指で答えを示したり、特定の生徒の答案を採点から外していた事が分かりました。

私の英国勤務時代の1998年に当時のブレア首相が学校訪問するに先立ち校長が特定の問題児に当日学校に来ないように計らっていたことがありました。また問題を起こす子を学校から排除するために生徒と学校が契約を結ぶシステムを導入しようとしていました。

昨年大学入学試験のため必須科目の世界史を教えていない高校が多く出てきた問題はまだ記憶に新しいところです。

また陰湿ないじめが横行しているのに学校は外部の評価を恐れて実態を報告せず、統計上はいじめが無いという結果になっている問題も明らかになりました。

以上の問題は今日の学校教育が袋小路に入り込み、その解決には根本的な方策が必要な事を示していると思います。

 

学問の段階

知識の習得には次の4段階があると思います。

段階1 「知る」

これは対象の存在と内容を知る段階です。教師の側から見ると教える事にあたります。

段階2 「分かる」

これは習った事の内容を理解する段階です。試験をして理解度を測定する事ができます。

段階3 「なす」

これは段階1,2で学んだ事を実地に応用する段階です。英語を習い始めた中学生が外国人に出会って一生懸命英語で話しをしたり、高校生が英語弁論大会に参加したりする段階です。学校でのクラブ活動や就職してから学校や職場で学んだ知識を意識的に実地に応用する段階に当たります。

段階4 「なる」

これは知識が完全に身について特に意識しなくても自然に活用できる段階です。例えば英会話では言いたい事が自然に英語で出てきて、聞いた英語が日本語に訳さなくとも直接意味が分かる段階です。英語で考え、時には夢の中でも英語でしゃべっている段階です。これはあらゆる分野の学問、芸術、技能、運動において一角の達人とか名人と言われる人が到達している段階です。

 

上の段階1,2は「学ぶ」段階であり、段階3,4は「問う」段階であると思います。段階4に到って初めて「学問」をやったと言えると思います。このうち学校教育でできるのは1だけです。

段階2,3,4はすべて本人の自主努力によります。段階2は学校の試験で評価されますが、学校教育だけでは既にこの段階も達成困難です。動物の調教は鞭と褒美でできます。田舎では牛に前進、左へ曲がれ、右へ曲がれ、止まれなどを教え、車を引かせ、田畑を耕すのに使っていました。人間の教育は動物の調教とは全く違います。1+1=2となる事を教えることはできますがそれを分かるのはあくまで生徒当人の努力に待たなくてはなりません。

発明王エジソンは小学校でなぜ1+1=2になるのか分からず先生が知恵遅れと断定した為に小学校には行かずお母さんが家で教育しました。そのためエジソンは学問が無かったかと言えばとんでもない間違いです。まだ十をそんなに出ていない頃から朝はデトロイト行きの列車の中でサンドイッチや新聞を売り、昼は帰りの列車が出る夕方まではデトロイト図書館で勉学しました。エジソンが言うには「デトロイト図書館にある本は全部読んだ」そうです。大発明家および事業家(例えばGEはエジソンによる創立)としてのエジソンの基盤は学校ではなく、自学自習によって作られました。私はエジソンの本を一冊持っていますが、読む度に思います。エジソンは発明家である以前に偉大なる思想家です。

全く学校に行けなかったもう一人の偉人はA.リンカーンです。私は高校の英語の教科書に載っていた有名なGettisburg演説を何回も朗読したものですが、その思想の深さ、言葉の力強さ、リズムと響きは正に芸術品だと思いました。

 

教育再生の道

上のように学校教育は学問のほんの入り口でしか機能しません。政府や教育関係者はもっと謙虚になるべきだと思います。私が高校で最も大きな影響を受けた先生は担任の二人の先生ですがお二人とも元はサラリーマンでした。昔は大学を出れば専攻を問わず学校の先生になれたようですね。

高杉晋作、伊藤博文、山形有朋など幕末の長州藩の人材を輩出したことで有名な松下村塾は吉田松陰に教えを受けに集まった人のサークルでした。

アインシュタインが定職も無く、結婚もできず、アルバイトでやっと生活していた1900年代初頭のベルンで友人と三人定期的に集まって物理学、哲学、数学その他ありとあらゆる事を議論したオリンピアアカデミーは他に知る人もいない単なる勉学会でした。しかしこれが奇跡の1905年の論文の下地を作ったことは間違いありません。

 

安倍内閣が教育再生と称する政策を私が危惧するのは次の点です。

 

(1)「国と郷土を愛する心」は教えられるものではありません。私自身の経験によると道徳教育は偽善者を作る結果に終ってしまいます。なぜなら道徳は生活を通じて前述の段階2,3,4を通じてしか身につかないものであるからです。段階1しかできない学校教育でいくらやっても的外れだと思います。道徳を教えるには何よりも人類の歴史や先人が努力の末に達した思想をできるだけ広くかつ、ありのままに教えるほかに道は無いと思います。大学受験に集中するために世界史を教えないなどと言うのは教育の名に値いしません。広く真実を教え、生徒が段階2,3,4に進んで行く道を指し示すことが学校教育のできるすべてであると思います。

 

(2) 次に校長の下に副校長を置くのも感心しません。教師の本務はあくまで教えることではないでしょうか。年を取るほど教師としての技量は向上するはずですが、教頭、校長、教育委員会へと進むのを出世と考える教師は教師の本分を間違えていると思います。前述のお二人の先生は教える事に徹して校長への道は拒絶されました。教え子の立場から見て実に立派な教育者であったと思います。

 

(3) 教育免許を十年間有効にして期限が切れたら研修を受けさせ、だめ教師はやめさせるというのもいただけません。これでは教師は萎縮してしまい、教科書に書いてあることしか教えなくなります。戦前の日本は皇国史観、ソ連はスターリンの個人崇拝、文化大革命時の中国では毛沢東思想一色で教育されましたが何れも悲惨な結果を生じました。国会議員は犯罪の容疑があっても警察に逮捕されず、外交官は仮令犯罪を犯しても外国の警察に逮捕されない特権が認められています。サラリーマンも正当な理由無く解雇されることはありません。学校の先生も同様の身分保障が与えられて然るべきだと思います。

 

教育再生の提案

上の学問の4段階説に基づき次の方策を提案します。

 

[1] インターネットを通じた生涯学問網の構築

何らかの理由で中学、高校を終えられなかった人も大検を突破すれば大学を受験することができます。インターネットを通じて大学受験の勉学ができるシステムを作りたいと思います。同時に社会人に対しては生涯学問の場を作りましょう。ご興味のある方は連絡願います。

 

[2] 学校教育の改革

前述のごとく、校長、副校長、教頭、教育委員会などの階層を全廃して学校教育に一般社会がもっと参画できるようにする事を提案します。具体的にはPTAの強化を提案します。私は小中学校のPTAをやりましたが単に生徒の親だけでなく地域の代表も入れたらよいと思います。

だめ教師は辞めさせるなどと単純な発想ではなく問題のある先生はPTAにおいて話し合えばよいと思います。校長はPTA会長と同様に毎年選挙で選ぶのが良いと思います。教育委員会にはベテランの先生を大勢囲い込んでいるようですが、教育は大事業であり幾らでも人手が要るはずです。中国語では年齢に関係なく教師を老師と言いますが教育の本質を捉えた名称だと思います。人生経験を積むにはどうしても年月が必要です。何でもそうですが教育には特に年の功が有効だと思います。

 

スイスは教育主体が各カントンであり、米国は各州です。米国には国立大学はありません。地方の自立はまず教育の自立であると考えています。

 

[3] 地域教育網の充実

明治時代までの農村には若者組、娘組、子供組などの地域の人的繋がりと若者宿、娘宿のように集まる場所があり、宿親という年長の相談役がいて面倒を見ていました。明治の学制により学校教育が中央集権化するにつれてそれらは廃れていきました。学校でのいじめ、受験競争の歪、学力低下など教育が行き詰っている今日、明治以前の我が国の郷土の文化と伝統を研究して良いものは復活したいと思います。

中高校生がコンビニやゲームセンター、公園などにたむろすると不良にならないか親は心配でなりませんが、ここで提案するのは逆に中高校生がたむろできる場を提供することです。そこには地域の年配者も来て中高校生の学習や進路の相談に乗り、話を聞いてやるだけでかなり効果があると思います。

公民館や学校などの公共施設のほか空家の活用なども考えられます。何台かのソファ、おもちゃ、学習机、文庫、テレビ、パソコン、卓球台、台所等のある地域センターを子供から老人まで利用できるようになれば地域の人的交流から色々な効果が生じると思います。

 

以上の提案にご意見のある方は是非お知らせ願います。

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*  市吉 修   

*  二十一世紀を楽しく生きよう会

*  e-mail;   osamu-ichiyoshi@muf.biglobe.ne.jp

* URL;        http://www5e.biglobe.ne.jp/~kaorin57/

*  TEL/Fax;    042-761-7318

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差出人: O-ichi [osamu-ichiyoshi@muf.biglobe.ne.jp]

送信日時: 平成 19723日月曜日 0:19

宛先:

件名: 二十一世紀企業研究会

 

配信無用の方はお手数ですが返信願います。

MLは会員の紹介により加入する会員の自主研究会です。返信または全員へ返信により意見交換をお願いします。

二十一世紀企業研究会とは

「人が全国どこでも学び、生涯現役で働ける企業」を提案し研究する会です。研究しながら二十一世紀企業を始めましょう。

 

教育問題

先週の報告の原因が分かりました。

「先週の東京新聞によると東京のある小学校が学力試験で44位から一躍1位に躍進しましたが、内部告発によって分かった事は試験の時に先生が指で答えを示したり、特定の生徒の答案を採点から外していた事が分かりました。」

<==足立区は学校の成績順に教育予算を割り振る方針だそうです。

 

更に昨日の東京新聞には「足立区だけではない、学力テスト不正の温床」という記事がでました。「格差は中学校で400万円、上位校には希望者殺到」という事態が東京に限らず全国に広がっています。

 

もっとケッサクなのは同じく昨日の新聞記事で「合格73人、実は一人、大阪私立高、"水増し"発表、授業料140万円も負担」というのがありました。できる子に大学を幾つも受けさせ、合格者の数を水増し発表していたものです。

 

これらは現在の学校教育が学問の正道から遥かにわき道にそれ袋小路に入り込んでいることを示していると思います。

 

根本的な間違いは学力テストについての盲信にあると思います。真の学力は測定できるものでは無いと思います。本質は問題の作成にありそれは根本思想によります。皇国史観の元では「高千穂の峯にニニギノ尊が天下った」と書けば合格で「そんな非科学的なことはあり得ない」と書けば不合格になります。唯物史観の元では「歴史とは階級闘争の歴史であった」と書けば合格であり、「歴史はそんなに単純なものではない、それなら階級の発生以前の歴史はどう説明できるのか」なとど書けば不合格になったことでしょう。

おそらく試験で正確に測定できるのはせいぜい読み、書き、算盤の範囲であり、実際これだけあれば学校教育の成果は十分だと思います。すなわち戦前の義務教育の範囲です。これが基礎教育でありそこがしっかりすればその上に高等教育を築いていくことができます。そのためには「読む楽しみ」、「書く喜び」、「計算の威力」を生徒が実感して体得する事が重要です。学力テストがあたかも百メートル競走のように学力を測定できると思うのは根本的な間違いだと思います。高等教育は無数の異なる側面があり一つのコースを設定すれば他の面が見えなくなります。あたかも量子力学の不確定性原理の如しです。

(注、特定の専門分野における資格試験はこの限りにありません。)

 

学力テストの盲信のため生徒は折角習った読み、書き、算盤の能力を磨く暇もありません。昔の小学校の図書館ではイソップ物語、クオレ物語、グリム童話、日本昔話、家なき子、母を訪ねて三千里、アンデルソン童話、世界の偉人伝、中学校の図書館ではああ無常、赤毛のアン、若草物語、ターザン物語、路傍の石、白鯨、高校の図書館ではチボー家の人々、ジャンクリストフ、戦争と平和、不思議の国のトムキンスなどの本がぼろぼろになるほど読まれていたのを覚えています。また夏休み明けに同級生がやっと読み終えたといってトルストイの戦争と平和全10冊くらいの本を返しに来たのを昨日のごとく覚えています。ところが約10年前私は中学校のPTA委員をしていた時に中学校のどの本を見ても全く読まれた形跡が無いのに驚きました。

 

前回紹介したT.エジソンは小学校にも行きませんでしたが、まだ小学生の年頃にデトロイト図書館の本は全部読んだと本人が書いています。発明家としてのエジソンはよく知られていますが、思想家としてのエジソンは殆ど知られていません。昨日エジソンの本を読み返しましたが、二十世紀の前半に既に「一国の富が特定の金属の量に縛り付けられるのは馬鹿馬鹿しいことだ」と説いています。すなわち金本位制度の限界を喝破していたわけで当時の如何なる経済学者よりもよく経済の本質を捉えていたと思います。エジソンが書き残した日記やメモは膨大で未だに整理が済んでいないそうです。エジソンは小学校の先生に知恵遅れと言われ、ほんの数ヶ月で小学校をやめましたが、家でお母さんにならった読み、書き、算数の基礎の上に超人的な勉学を重ねたことが発明王とかProdigy of Menlo Parkとか言われた偉業の真の原因でした。ちなみにMenlo Parkとはエジソンの研究所があったところです。他人には魔術師としか見えない偉業が本人にとっては極く当然の努力の結果でした。実際エジソンは次の発明について報道機関に大風呂敷を広げることがありましたが、その偉大な所は不可能を可能にした実績にあります。おそらく当人には事前に何らかの確信があって宣伝したのでしょう。

 

前回提唱しました学問の4段階説によれば学校教育は段階1,つまり学問の入り口でしか機能しません。それはエジソンやリンカーン、ファラデー、牧野富太郎、吉川英治、松本清聴、松下幸之助、豊田佐吉、本田宗一郎その他の偉人の偉業と、何千万円もの教育投資を注ぎこんだ成果としての我が国の大学生の嘆かわしい低学力によって十分証明されています。

 

その実例は特に政治家の低学力にも明確に現れていますが、彼らの迷妄に教育者が盲従し、その矛盾は生徒にしわ寄せされ、前述の馬鹿馬鹿しい学校の実態ばかりでなく、生徒にはいじめ、不登校、引いては引きこもり等の深刻な事態を引き起こしています。

 

安倍内閣の教育再生政策は教育問題を更に深刻にすると思いますが、その理由は以下の通りです。

安倍首相は「バウチャー制度の実現」が持論だそうです。これは学区制を廃止して生徒が何処でも行きたい学校に行く事、生徒の数に応じて教育予算を割り振ること、こうして良い学校は栄え、悪い学校は滅びても良い、競争原理を教育に持ち込むのだ、という事らしいです。

私が思うにはこれは教育行政の放棄です。「だめな先生はやめてもらう」とか「バウチャー制度により成績の悪い学校は滅びてもしょうがない」とかいった無責任な思想が見えます。

 

子供は国の宝であれば「最後の一人までも落伍させず、教育の機会を与える」事こそ根本思想であるべきでしょう。口を開けば地域の関わりの重要性を宣伝していますが、それなら学区制こそあるべき姿だと思います。近くの学校に通うことが親の経済負担も、生徒の通学負担も小さく地域の協力も得やすいのは明らかです。その上で問題のある学校があればそこに優秀な先生を優先的に配置するとか教育環境を整えるとかすべきでしょう。バウチャー制度で生徒が集まらず廃校になれば地域の関わりも何もあり得ません。

 

「教育に競争原理を持ち込む」などという発想は学問の何たるかを知らない者の発想だと思います。学校教育は単に学問の入り口に過ぎず、ここで競争して疲労困憊したら卒業生は学問の道を知らずに終わってしまいます。学問の道とは前述の偉人が実証しているように読み、書き、算数の基礎学力の上に自主的に勉学を重ねていく「心と態度を養う」事だと思います。

 

昨日は麻布のテンプル大学に、今日は町田の桜美林大学に見学に行きました。両校とも米国式の教育方法を基礎としていますが、日本の大学との明瞭な違いは「学生本位主義」です。これに対して日本の大学は「大学本位主義」ですね。

 

テンプル大学は年三学期制であり桜美林大学は二学期制です。四月、九月、一月の何れにも入学および卒業可能です。また入学してから専攻を決め、また途中で変更も可能です。また主専攻の他に副専攻をもつこともできます。集中的に単位を取って最短二年半で卒業することもできるし、アルバイトをして学費を稼ぎながら何年もかけて卒業することもできます。我が家の豚児も米国のある州立大学を出ましたが、夏休みにはCommunity Collegeで単位を取ることもできるので実質年四学期制でした。我々もそのCommunity Collegeに行って見ましたが、設備も教科内容もれっきとした大学でした。

 

これに対して日本の大学は学校側の都合が良いようにできています。毎年の入学試験狂想曲の光景や自分で結果を見に行くのが怖くて人に見てもらい「桜咲く、桜散る」などの電報を打つなどというのは学問とは無縁でむしろ中国の科挙に類似しています。科挙制度こそ中国の歴史を遅らせ今日に到るまで中国を歪ませている主要な原因であると私は考えています。

 

以上の事を考慮すれば我が国の教育を学問の正道に戻す道も自ずと明らかになると思います。詳細は次回にさせて頂きます。

 

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送信日時: 平成 19728日土曜日 21:20

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教育問題

先週の報道の類似例は他にもぞろぞろあるようです。

7/24東京新聞 「受験料負担さらに4校」大阪学芸高校、大阪清涼高校、履正社高校、仁川学院絞、神戸学院大付属校などでできる生徒に受験料を学校が負担して受験させ一人が数十絞に合格し、合格者数を水増し発表していた。

同日の新聞投書

「疑問残る公立校売却」 東京都江東区は2002年度から学校選択制を採用した結果、公立校に過大絞が生まれる一方、小規模絞ができて統廃合が進んでいる。私の家の近くの旧白河小学校もその一つ。2002年廃絞となり、これまで他校改築の仮校舎などとして利用されてきたが、昨年突如、民間の学校法人に売却されてしまった。、、、

 

安倍首相の持論とする教育バウチャー制度はこれを全国規模でやろうとするものです。

 

教育問題の根本的解決案

 

[1] 大学の改革

上の問題の直接の原因が硬直的な大学制度にあることは明らかです。40年前の我々団塊の世代はいざ知らず、少子化が問題になっている今でも大学受験が教育をゆがめているのは進歩が無さ過ぎると思います。

前回Temple大学と桜美林大学の例を報告しましたが、米国の大学制度を見習って次の改革を提案します。

 

(1) 3,4学期制の採用

政府の教育諮問会議は「外国に合わせて」入学を4月から9月に変更することを提言しているようですが、私は4,9,1月入学、卒業のできる3学期制を提案します。

そうすれば4月の入試に失敗しても9月を目指せばよく受験地獄は解消します。

 

(2) 単位互換制度

私は21歳の時米国の大学に留学しましたが、日本の大学の単位はそのまま通用して4年に正規留学しました。ところが米国の大学で取得した単位は日本の大学では認められない為、6月に帰国してから翌年の3月に卒業するまで不足の単位を普通の倍くらい履修しました。

米国の大学の単位制度の利点は学生が大学間を自由に行き来できることと境遇に合わせて最短期間で卒業したり、アルバイトで学費を稼いだり、途中で趣味に没頭したりして時間をかけて卒業するなど自由度が高いことです。

最近では日本の大学も海外の大学と提携して相互に留学できるようにしていますが、日本国内の大学相互でも単位互換制度を確立することを提案します。

単位互換制度が徹底すれば入学した大学と卒業する大学が異なる事もあり得ますし、複数の専攻科目を取って例えば物理学と日本文学の課程を終了することも普通にあることになると思います。

 

大学とは本来そういうものです。西欧の中世に発生した大学は学生の組合であり学生は有名な教授のいる大学に遍歴を行うものでした。地動説を唱えてコペルニクス的転回といわれる世界観の根本的変革を達成したコペルにクスはポーランド人ですが、「1491年クラカウ大学に入って神学、医学、数学、天文学を学び、1495年イタリアに留学し、パドヴァ及びボローニャで法律、医学、天文学を、1500年ローマに行き、さらに数学と天文学を学んだ。ボローニャではNovaraの下で実地天文学の訓練を受けた」(平凡社、世界大百科事典)

1491年といえば日本では北条早雲が伊豆に戦国大名の活動を始めた年ですが、西洋では既にUniversityが各地に勃興していました。

日本の大学は明治の始めの学制発布により始まった為最初から国の関与が大きく、大学の理念が捻じ曲がってしまいました。大体大学という名称も本来のUniversityとは無縁ですね。小学校はさらにひどく、Primary schoolとかElementary schoolとは全く無縁の名称です。正しく訳ば基礎学校とか最重要学校とかなると思います。小、中、高、大学とはいかにも役人的発想の学校名称であり、大学受験が中国の官僚制度の根幹を成す科挙の進士試験に似た感じになるのは必然的であったと思います。ちなみに現在の中国は日本に輪をかけた受験地獄のようであり、数日前に上海で受験勉強を苦にした生徒が何人か自殺したと報じられました。

 

MLの会員には大学関係者もおられますので提案しますが、独立行政法人になり、自立性を求められているいまこそ大学が本来の総合学(Universityの訳として推奨します)の場として自己変革をして頂きたいと思います。

 

[2] 自主問学会

これは私が提案する学問の方法です。前々回提唱しました学問の4段階説(1-知る/教える、2-分かる、3-成す、4-成る)から見ると学校教育でできるのは基本的には1だけで、その役割は人を学問の入り口に案内することでした。

その成果は人が基礎学力、即ち読み、書き、算数の力をどれだけ付けたかですが、本質的なのはどれだけ「学ぶ楽しみ」を身に着けたかです。東大に何人合格したかを誇るのは学問の立場からは大した意味はありません。受験教育に適応しすぎると「試験が無いと意欲が湧かない」症状をきたします。道を示されれば全力疾走するが、自ら道を求めるのは苦手である、すがるべき権威が無いのはとても不安であるという症状が生じます。大学の五月危機はその表れですが人によっては一生それが続く場合もあるようです。

学問段階2,3,4を支えるものは「問うて学ぶ」事と、「学ぶ楽しみ」です。今日は午前中NHKの夏休み子供質問箱を聴いていました。小は幼稚園から大は中学生まで子供が発する疑問にその道の専門家が答える番組ですが、実に面白く、終りまで聞きました。権威的な教育は「学ぶ事」のみ強調し、「問うこと」は制限します。それが極端に進むと「ただ信じよ、疑うな」という独断の世界になります。西洋の近代への道はローマ教会の独断と支配を脱した宗教改革と「すべてを疑え」という学問の方法の復活、人文主義の勃興にあります、

デカルトの「我は疑う、我はあり」はそれを簡潔に表現したものだと思います。

 

以上の学問の方法を私は問学と呼んでいますが、その意味は「問うて学ぶ、学びて問う」という繰り返しにより螺旋を描いて進歩することです。二千年も前に孔子が教えたように「学びて思わざれば即ち暗し、思いて学ばざれば即ち危うし」の思想とおなじです。学問の原動力は同じく孔子の教えで「学びて時に習うは楽しからずや」の通りに「学ぶ楽しみ」だと思います。学ぶ楽しみの元は「問う自由」と「問題を解決する楽しみ」だと思います。

学問の原動力は「問う」ことにあると考えるので「問学」としています。しかし「学ぶ」ことを軽視しているわけではありません。孔子の教えのように如何に努力しても「一人よがりは危険」なことです。

「学ぶ」という事は通常学校の先生、先輩、友人、書物、経験など自己と他の関わりから、いわば自己の「外から学ぶ」事であり、問うことは自己の「内から湧いてくる」ものです。内と外という方向の違いだけで両者は一体です。

各人にとって本質的なのは自己のうちから生ずる「問い」であると思います。

自己に問うてはじめて段階2,3,4に進んで行くことができます。段階1の所でがんばりすぎると前述のごとく、合格者数で世間を欺き、学校歴を学歴と誤解していわゆる学歴偏重の弊害を生じます。アインシュタインは博士号など取る積もりは無かったけれども大学の私講師の資格を得る便宜上論文を出したら教授が短すぎると文句をつけたので一行付け加えたら受理されたそうです。おそらく教授に対する謝辞だったのかも知れません。

文部省が家に使者までよこして文学博士号を受け取れと言うのを断固拒絶した夏目日漱石こそ本当の学者であったと思います。

 

そこで具体的な方策ですが

(1) インターネットを通じた自主問学会によって万人に生涯学問の場を提供する。

私のHPには自主問学会に通信工学関係の資料が公開してあり、自習目的に限り誰でも利用可能です。またC&C基礎技術公開講座として体系化しており、ある程度の人数が揃えば全国何処にでも出かけて講義を行います。

同様のことを他の専門家にもしていただき相互にリンクしてインタネットの中に生涯学問の場を作ることを提案します。その目的の一つは一般社会人の生涯学問に加えて、高校を卒業できなかった人の大学資格認定試験、いわゆる大検の受検勉強のお手伝いをすることです。前述の大学改革は直ぐにはできないかも知れませんが既存の制度でも大検を通じて大学への道は開けています。自主問学会は活動の一環としてこの道を歩む若人の手伝いをする事ができます。

 

(2) 地域学問

前回紹介しましたが明治以前の我が国は地方分権社会であり、教育を支えていたのは主として各地の寺子屋でした。農村では若衆組、娘組などが若者宿、娘宿等にいわば合宿して年長者から学び地域の名望家が宿親として面倒を見ていました。明治の学制によって教育の中央集権化が強まるにつれてこれらの伝統的教育制度は消滅していきましたが、中央集権化された教育が行き詰った今こそ「我が国と郷土の伝統と文化」を研究してよいものは復活したら良いと思います。

例えば地域の子供会の手伝いをしたり、地域のサークル活動に参加したり、新たなサークル活動を始めたりするのも良いと思います。私は数学愛好会や英語弁論会、サイクリングクラブなどを地域に作りたいと考えています。

 

私の経験によると教育の荒廃の原因は親の狭い了見にあると思います。約十年前、PTA委員としての私の主たる仕事は冬の約三ヶ月にも渡って次年度PTAの役員のお願いに各戸を回ることでした。重要な子供の教育に親が何故かくも消極的なのか当時も今も全く分かりません。良い学校、荒れた学校、出来る子、出来ない子、良い子、不良、勝ち組、負け組みと皆さん二分法がお好きですね。そして世の中競争だ、バスに乗り遅れるな、勝ち馬に乗れといった利己主義と浅はかさを感じます。

学校選択制の弊害は前述の通りですが安倍首相がよく言うように「だめ先生にはやめてもらう」式の短絡的な発想は教養の無さを感じます。年金問題については「最後の一人まで支給する」と宣伝している方が軽々しく言うべきことではないと思います。前回ものべましたが教育の根本思想は「生徒は最後の一人まで平等な教育機会を提供する」ことであるべきで、そのためには学区制の堅持こそ重要です。最寄の学校に通うことが親も子も負担が最小で地域の関わりも可能になります。大体教育に競争原理を導入するなどと言う事は学問の本質を知らない発想だと思います。石油資源は有限で争奪戦が激化して価格も急上昇していますが、私が公開講座で応用代数学を講義してその知識を他の人々に授けたとしても私の知識は減るどころか、益々増えています。このように学問の世界は物質とは異なり無限です。かの偉大なニュートンですら「自分の学問の業績は子供が海辺できれいな貝殻を見つけて喜んでいるようなものだ」と言いました。一度こういうことを言ってみたいものです。

  

学校のPTAに親、教師に加えて地域の有志も入れParents, Teachers, Areaの三者会とすれば教育基本法を変えなくてもおのずと教育は良くなると思います。「だめ教師は辞めてもらう」式の短絡的な考えではなく問題のある教師はPTAでよく話し合えばよいわけです。教壇に立つのが不向きなら縁の下の力持ちの仕事も教育にはたくさんあると思います。

安倍内閣が続くとしたら教育の国家統制が強まり、教師が萎縮して教育はますます歪む恐れがあります。副校長などは不必要です。教育の拠り所としてPTAの強化は必要不可欠だと考えています。

 

前述のごとく明治の学制の伝統を引きずる我が国の教育制度においては学校は政府の統制に対して極めて弱いものです。先生自体が教頭、校長への昇進を目指すのはサラリーマンが重役への昇進を目指すのと同様ですが、それが目的化すると本来の教育の目的、即ち生徒こそ主役である教育の本質を見失い、まるで動物の調教のような考えで英才教育に邁進し、世間を欺いてでも有名大学合格者数を増やす結果に終わってしまいます。

 

地域学問の興隆とPTAの強化こそ今後の教育に必要不可欠であり、我々は身近な所から始め、インターネット等を通じて連携を強めていくことを提案します。

 

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