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送信日時: 平成 2154日月曜日 2:52

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件名: 二十一世紀企業研究会

 

配信無用の方はお手数ですが返信願います。本MLは会員の紹介により加入する会員の自主研究会です。返信または全員へ返信により意見交換をお願いします。二十一世紀企業研究会とは「人が全国どこでも学び、生涯現役で働ける企業」を提案し研究する会です。研究しながら二十一世紀企業を始めましょう。

 

代々木図書館

四月は新宿で働き始めましたが、時あたかも新入社員の季節で真新しいスーツに身を包んだ若者のあふれる街を35年前を思い出しながら通勤しました。会社の名刺を貰ったところで近くの代々木図書館に行き登録をして本を借りました。どこに住んでも図書館に登録して本を借りるのが私のやり方です。図書館に行くとその地域の住民になったという実感が湧きます。図書館は地域の一つの中心であり、人種、国籍、宗教の別を問わない学問への入り口だと感じています。Washington,D.C.近郊のFairfax LibraryやLondon, Ealing Library, 日比谷図書館等の図書カードも記念に今も私の机の中にあります。

 

国の本は法なり

代々木図書館で最初に借りたのは「薩摩藩留学生」です。著者は失念しましたが、薩英戦争で西洋に対する軍事技術の遅れを痛感した薩摩藩

は五代友厚と松木弘安(後の寺島宗則)の建白に基づき、約20名の留学生を密かに英国に送りました。その概要については下記URLをご覧下さい。http://washimo-web.jp/Report/Mag-SatsumaStud.htm

当初の目的は海軍軍事を中心とした技術の習得が大半でしたが、英国で暮らす内に森有礼などは日英の絶望的な差の本は国の構造に有り、それを知るには法学を学ばなくてはならないと悟り、勉学の分野を変えました。これは今でも真であると思います。専門分野が何であれ、日本国の基は日本国憲法であり、憲法記念日の今日だけでも日本国憲法を思い、あるいは手に取って読み返して見るのは意義ある事だと思います。

 

人間の知力は限りがある

と思います。今日のNHKスペシャル「大日本帝国憲法と天皇」を見てつくづく人間の知力の限界を感じました。美濃部達吉の天皇機関説論争は

国家の一大事の如く社会問題化されましたが、今から見ると幼稚な論理だと思います。マルクスは存在が意識を規定すると言いましたが言い得て妙ですね。国立大学の教授や国家公務員は国家主義に傾き、無産者は革命思想にかぶれ易い。学生は経済的にも思想的にも無産者ですからとかく過激思想に染まり易い。ローマ教会がジャンヌ・ダルクを火あぶりの刑に処したのは彼女が「直接神の声を聞いた」と言ったからです。なぜなら人が直接神の声を聞くものならその独占仲介業者としてのローマ教会の立場が無くなりますから。恐怖の代名詞になっている異端審問所も人と神との独占仲介業者としてのローマ教会の権益、つまりメシのタネを守るためでしょう。国家と共に生じた国の人民支配の正当性は常に何らかの神に結び付けられてきました。我が国の天皇制だとて例外ではありません。天皇支配の正統性を明確にするために編纂されたのが古事記と日本書紀だと思います。現在の立場から過去を振り返ると時代に制約された人間の知識の限界を思い知らされます。人間の知能の限界は「知らない事は考えられない」ということでしょう。人知に限界がある事を知る事、ソクラテスの教えたように「汝の無知を知れ」という事は学問の基本だと思います。教養主義の思想家として学生に大きな影響を与えた河合栄次郎は若い頃「出世に響くからマルクス主義は勉強しない」と言ったと昔読んだ記憶がありますが、もしそうなら正に曲学阿世の徒と言わざるを得ません。

最近はあまり言いませんが前世紀には何々主義、すなわちIdeologyが幅を利かせましたが、これは自らの限界を宣言しているのに等しいと

思います。主義者は自説がすべてで中身が共通しても他の名の主義を排斥しますので。大学4年の時に米国に留学して米国の社会学は社会をUpper, Middle, Lower classesに分類しているのを読んで「人類の歴史の原動力は階級闘争であり、現代のそれはブルジョアジーとプロレタリアートの闘争である」というマルクス主義に比べて何と「非科学的な」と感じたものですが今から振り返るとどちらも半分正しく半分無意味であったと

と思います。自然科学においても古典的な物理学を用いたほうが解き易い問題もあれば量子論でなくては解けない問題もあります。哲学的には相容れなくても両方とも問題解決に役立つのですから真理の一端を含んでいる事に違いはありません。量子主義で古典物理を排斥していたら今日の科学技術はありえません。Euclid幾何学と非Euclid幾何学の違いも同様に根本的な違いにも係わらず皆「真」でありPoincare先生の言われるように問題によって「どれが便利か」の違いしかありません。それは我々が出かける時に徒歩、自転車、自動車、鉄道、船、飛行機のどれを使うかと似たようなものです。何々主義の正体は学問の粉飾をした欲望の表現に他ならない事があること、人間の思考力には「知らない事は考えられない」本質的な限界がある事を忘れずに謙虚に、あらゆる意見に耳を傾け、何でも排斥せずにやって見る事、そうして得られた経験を充分吟味することが必要だと思います。今日に生きる我々もまた現代によって知能を制約されている事は昔と全く変わりません。先の第二次世界大戦のように「皆が騙され、言語に絶する惨害を世に与え、誰も責任を取らない」事が今も世界の到る所で繰り返されているのではないでしょうか。

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*  市吉 修   

*  二十一世紀を楽しく生きよう会

* URL; http://www5e.biglobe.ne.jp/~kaorin57/

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