LD「ハワイの若大将」パンフレットから

シリーズの第4作
「ハワイの若大将」は
昭和38年8月11日
に公開、併映作品は「マタンゴ」。
シリーズ初の海外ロケ、配給収入2億9,200万円、観客動員295万人を記録しました。

パンフレットの特集記事は
さだまさしさんのインタビュ−「我らが若大将」、「加山雄三 ロングインタビュ−C」、そして田波靖男さんの若大将・外伝C「若大将の世界」。

それらの一部を、原文のまま掲載いたしました。お楽しみください。

我らが若大将
さだまさしさん インタビュー

”若大将体験”

僕が最初に観たのは「ハワイの若大将」なんです。もちろん後で「大学の若大将」からシリーズ全部を追っかけて観てます。
”夜の太陽”は今でも唄えます。しかし、映画の中のキャンパス・ライフには憧れなかったですね。大学ってこんなノンキな所なのかなと思った。勉強してる場面がほとんどないんだもの。
飯田蝶子さんが良かった。
加山さんもそうだけど、僕もおばあちゃん子だったんですよ。だからりきおばあちゃんと若大将の関係がいちばんよく判る。
大人になったら、田能久に行ってスキヤキを喰おうと思ってましたもの。

日本的風景への想い”

日本という国は、実はほんとはとってもいい国なんですよ。みんな優しくて暖かくて、おせっかいで、そそっかしくて、そんな佳き日本が”若大将”シリーズに詰まってるんですよ。
”若大将”シリーズというのは、あの当時の青春を回顧するだけに
とどまるもんじゃなくて、今の若い人たちにも十分によいものと感じてもらえると思います。本当のニッポンのよきものをきちんと記憶した代表的な作品のひとつとして観てほしいですね。

音楽的影響”

メージャー・セブンスの使い方に加山さんの影響を受けてますね。(中略)「リオの若大将」で初めて”ある日渚に”を聴いたとき「♪渚に〜、あっメージャー・セブンスはこれか。カッコイイ」それからしばらくはメージャー・セブンスの歌ばっかり書いてましたよ。

グレープ時代の”昔物語”は完全に加山さんのメロディを意識してます。コンサートでは中間演奏に”君といつまでも”のメロディを入れたりしました。男二人女一人のトリオの話を曲にしてるんですが、若大将と青大将と澄ちゃんを意識してました。
実に爽やかでいいんですよね。”若大将”シリーズのあの3人の関係というのは。

作曲家・加山雄三(弾厚作)”

加山さんの音楽には強く惹かれた。自分で曲を書いてるのはスゲエーなと思いましたよ。
(中略)日本の歌謡曲の中では
半音のメロディをとる作曲家というのは、当時少なかったんです。そんな中でミュージシャンではない加山さんが、半音を非常に効果的に生かした曲を書いていたんです。
僕は加山さんをミュージシャンだと思っているんですけど、世間の評価はいまだにそうではないんですね。
ちゃんとした音楽家としての評価をされていないと思います・。僕の中では、アクター、シンガーとしての存在よりは、作曲家としての加山さんの存在が際立って高いんです。音楽家としての加山さんの技量というものに、みんな気がつかないのは「加山雄三メロディ集」みたいなものを、オーケストレーションでやらなかったからだと思うんですよ。数曲選んでフルオーケストラで演奏すると、素晴らしい演奏曲になりますよ。そういう力を持ったメロディなんです。

旅人よ”

”旅人よ”は加山さんの”イエスタディ”だと思うんだけど、あの辺の影響が僕の中に今でもありますね。
加山さんの中にあるグローバルな資質と言えばよいのかな。
”アロハレイ”などのメロディの吸収の仕方。ハワイアンを咀嚼して、日本の歌として表現する加山さんの力。これはすごいと思いました。”霧雨の舗道””幻のアマリリア”なんかは実にロシアンなんですね。
ワールド・ミュージックというのかな、世界の音楽に対する反応の早さ。それを自分のものにして表現する力というのは、これはすごいと思うんです。

エレキ!エレキ!エレキ!

”若大将”には、不良の楽器だったエレクトリック・ギターのイメージを大きく変えたという功績があるんです。
当時はエレキ・ギターを
持つだけで不良呼ばわりされたんですよ。ところが加山さんの明るく爽やかな存在感が、不良というイメージを払拭したんです。

エレキ・ブームの火付け役でもありましたね。そしてグループ・サウンズ・ブームが来るんです。
つまり加山雄三なしには、グループ・サウンズも存在しなかったはずですよ。

加山雄三
ロングインタビューC

日本で初めてサーフィンをしたのが加山さんなんですよね。新聞にも紹介されてましたけど。

それはいわゆるハワイアンスタイルのサーフィンを初めてしたということだよ。

そのときのサーフボードはご自分でお作りになったんですか。

そう。自分で作ったよ。見よう見真似というか、ハワイでやった体験を元にして、まあ大体こんなもんだって感じでね。

この映画で初めて、加山さんはオリジナル曲を唄ってらっしゃいますが、それは藤本プロデューサーの発案だったんですか。

一番最初はね、渡辺晋さんが聴いたと思うんだよ。
俺の唄ってるデモテープを藤本さんのところへ持って行ったんだけど、
藤本さんがそれをすぐ渡辺さんに聴かせたんだと思うんだ。

藤本さんは映画はわかるけど、音楽は専門じゃないから、その歌がいいか悪いか晋さんに判断してもらおうと思ったんじゃないかな。そしたらこれはイケるって晋さんが言ったんだ。

日本語の歌はカッコ悪いみたいなことを言われてましたが、抵抗はなかったんですか。

抵抗あろうとなかろうと、レコード会社は日本語で唄わないと売れないと言ってくるし、こっちとしては「ああそうですか」って言っちゃうよ(笑)

当時は俳優としても歌手としても大活躍でしたから、大変な忙しさだったんじゃないですか。

そうだね。一番きつい時は平均睡眠時間三時間というのが三週間も続いて、周りのスタッフが一人、二人とだんだん倒れて、最後に残ったの俺一人だけだったということがあったよ。付き人も運転手も、全部倒れちゃった。それで俺だけ最後に残ったからね。
やっぱり天性体力には恵まれていたことと、世間の注目を集めている責任感というか、非常にノリまくっている時は何もかも活性化しているから、抵抗力も非常に強くなっているんだと思うんだよ。だから耐えられたんだと思うし、すべてがいちばん楽しかったね。

若大将・外伝
田波靖男

”若大将の世界”

学生の頃は若大将が家を出るきっかけとしては、父親の久太郎から勘当されるという事態を考えた。それには原因となる若大将の不始末がなければならぬ。いくら久太郎が頑迷な父親であっても、理由もなしにわが子を勘当するはずがない。その原因の一つが、大学の停学処分である。大学は停学になる、家には莫大な損失をかける。そうなって初めて久太郎も息子に勘当を言い渡すのである。
だが停学になるような不行跡を本当にやったのでは、若大将のキャラクターに相反することになってしまう。ファンの支持も得られない。
そこで青大将や親友・江口の罪を引き受け、身代わりに停学処分を受けるという物語上の工夫をすることになる。各作品ごとに、若大将が何をやらかして停学や勘当になるかに注目するのも、このシリーズの見所の一つであろう。

家に出入りの植木屋の源さん宅(藤原鎌足&菅井きんが老夫婦役)に身を寄せれば、たちまち一家の家計を危うくする(大学の若大将)
それでも父親の勘当宣言平然と受け止め、家を出てゆくところに若大将の真骨頂がある。持ち前の明るい性格で苦難をものともせず、好きな音楽の才を生かして、自由で独立した生活を獲得し、食べるだけのものを確保するばかりか、傾きかけた「田能久」の暖簾を立て直したりする。(エレキの若大将)

食べ物といえば、毎回おなじみなのは若大将が中心となって行う、合宿でのコンパのシ−ンである。

これは第一作の「大学の若大将」でやった焼肉コンパが大好評だったので、恒例化したものである。このときはトイレの浄化槽の蓋を肉を焼く鉄板代わりに使ったのが、面白いギャグを生んだ。

第一稿ではマンホールの蓋を使うことになっていた。
それが学生の良識を重んじるプロデューサーの反対でボツになるところであった。マンホールでない別なものをと、ない知恵をしぼった結果、思いついたのが、私有地内で通行人も関係ないであろうトイレの浄化槽の蓋だったのである。それ以後は最初反対したプロデューサーの注文で、毎回コンパのシーンを入れることになった。
若大将にとって食欲は優先順位の高い欲求であるが、だからとて喰うために節を曲げたりはしない。彼は自分のやりたいことをやるため、あらゆる忍耐努力を惜しまぬ意志の人である。だから安穏な生活を保証する「田能久」の家業も、妹照子と婿の江口にゆずり会社に就職する。(リオの若大将)
だがどんな一流企業に入り、会社員として将来を嘱望されても、自分の意志をつらぬくためにはあっさり
退職して、ドロップアウトすることも辞さない。(ブラボー!若大将)
若大将はあくまでも自らを信じ、自己実現を果たすために、常に新しい世界に目を向けている真の自由人である。
パンフのポスターと写真については
こちらからどうぞ

08年11月20日新規作成