「今を生きる(わたしの見方・考え方)」 尽くして得る喜び(PHP 11月号) |
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人生は、まさに修行。 |
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◆苦しみのない人生などない 高校生の頃、私は祖母と連れ立って、よく大雄山最乗寺に行きました。頭を丸刈りにして 滝に打たれたり、僧侶の話を聞いたりすることが好きでした。「人間って何だろう?生きる ってどういうことだろう」祖母と二人でそんな話をすることが楽しかったのです。別に宗教 に凝っていたわけではなく、取り立てて辛いことがあったわけでもありませんが、そういっ た哲学的なことを考えることが好きだったのでしょう。一時期は真剣にお坊さんになろうか と考えたほどです。 人間が生きるということは、それ自体が修行である。もしもそう考えるのなら、現実社会ほ ど修行に適した場所はありません。なぜなら、人間ほど多種多様な悩みや問題を与える存在 はいないからです。例えば雨や嵐などの自然現象は、ある程度は条件が決まっています。雨 にあえば傘を差せばいいし、風が強ければ家の中に逃げ込めばいい。ところが人間は、一筋 縄ではいきません。「どうしてこの人はこんなことを言うのだろう」「どうしてこの人はあ んなことを平気でするのだろう」予想だにしない苦しみが次々と襲ってくる。まさに日々修 行といったところでしょう。 一九七〇年、結婚した当時、私は四十三億円というとてつもない額の借金を抱えていました。 それも私がつくった借金ではなく、親戚の連帯保証人になったがゆえに背負わされたもので した。何度逃げ出してしまおうと思ったかわかりません。「若大将」などと呼ばれ、さぞ華 やかな生活をしているかに思われていたでしょう。しかし現実には、明日食べるのにも心配 するほどの生活でした。トップスターと言っても、竿の先っぽに乗っているような、そんな 不安感を常にもっていました。いつまでもスターでいられるはずがない。 やがては下がっていくもの。それは父親(上原謙)の姿を見ていましたからよくわかります。 それでも私はその苦しみから逃げてはいけないのだと思いました。苦しみのない人生なん てないんだ。その苦しみを乗り越えてこそ、そこに喜びが生まれるんだ。そう自らに言い聞 かせて頑張ったものです。「苦しみは幸せを幸せに思う心を与えてくれる」。今でも私は書 にそう書き記します。高校生の頃、祖母の家へ行ったときに一枚の書が出てきました。そこ にはこう書かれていました。「荷が重いのではない、自分の力が足りないのだ」と。十代の 頃の祖母との時間が、私の心の基礎を育んでくれたと思っています。 |
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◆一隅を照らせる人間になりなさい。 「どんな場所に生きていても、そこを照らせる人間に なりなさい」これは天台座主を務めた山田恵諦さんの 言葉です。誰もが総理大臣になれるわけじゃない。そ れぞれが自分の生きている輝きを放つ。そういう人間 になるために努力をすることだと。私はこの言葉が大 好きです。ならば輝きを放つ生き方とはどういったも のなのか。もちろん仕事で成功したり、目標を達成さ せたりすることも一つでしょう。しかし、人間として 一隅を照らすということは、誰かのために尽くすこと ではないかと私は思っています。 |
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人間にはさまざまな欲望があります。その欲望を叶えたとき、脳のなかにはβエンドルフィ ンという物質が分泌されるそうです。それは「喜びの物質」と呼ばれ、つまりは幸福感の元 となるものです。ところがいったん欲望が満たされると、脳は満足して「もうこれ以上はい らない」というシグナルを送ります。たとえば食欲にしても、お腹がいっぱいになれば、こ れ以上食べたいとは思わないでしょう。睡眠欲にしても十分に眠れば、もうそれ以上は眠た くはなりません。脳の中で欲望のリミッターが働くわけです。 誰かのために尽くして、喜んでもらえる。そうした瞬間にも、同じように脳内には喜びの 物質が出てきます。幼い頃に母親の手伝いをして褒められる。母親が喜ぶ姿を見て、本当に 幸せな気分になる。そんな経験は誰にでもあるでしょう。不思議なことに、この人に尽くし て得る幸福感には、他の欲望のようなリミッターが存在しないのだそうです。誰かのために 尽くす喜びには、それこそ際限がありません。「もう満足したからいいよ」というシグナル を脳が送ることはない。人間は誰かのために尽くせば尽くすほどに、果てしない幸福感を得 るようにプログラムされている。これは神(私は”サムシング・グレート”と呼んでいる。) が人間に与えた最高の贈り物だと思います。 自分は何のために生まれてきたのだろう。自分が一隅を照らすためには何をすればいいの だろう。それはきっと、みんなに喜んでもらうことではないか。私の歌を聞いて、元気にな ってくれる人がいる。私の描いた絵を見て、爽やかな気分になってくれる人がいる。 そんな人たちがいてくれることで、私自身も幸せな気持ちになれる。それこそが私に与えら れた役割なんだ。自分はそのために生まれてきたんだ。そう気づいた瞬間がありました。そ のときから、私の人生観は変わったような気がします。「一隅を照らす」という意味が腑に 落ちたとき、人は一歩成長することができるように思えるのです。 |
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みんなを喜ばせることで 自分自身も幸せになれる。 |
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ここ三十年、私は朝と晩に必ず冷水を浴びます。真冬であろうが、その習慣を欠かすこと
はありません。そして毎日冷たい水を身体に浴びながら、私は心の中心に向かって問い続け ています。「お前はいったい何がしたいんだ。お前の一番大切なものは何なんだ。」と。日 々、自分自身に問いかけることで、生き方がぶれなくなってきます。 私が一番大切にしているもの。それは「愛」です。妻への愛。子供への愛。友人の愛。ま た、大きな意味では人間愛でしょう。その愛情を大切にすることが自分にとっては幸せなの だと。そして自分の役割は人に楽しんでもらうこと。そのためにさらにいい歌を歌い、いい 絵を描く。日々に努力を重ねることで成長していきたいと思っています。 思い返してみれば、小学生の頃の私は音楽と図工だけがいい成績でした。他は大してでき なかったけれど、この二つだけは誰にも負けなかった。そう考えると、もしかしたら人の可 能性は小さい頃から見えているものなのかもしれません。そこにこそ、一隅を照らすヒント が隠されているとも思えます。人間は思うとおりに生きるそうです。”運命は性格なり”と 古代ギリシャの哲学者アリストテレスは言ったそうです。 もしも思春期に祖母との触れ合いがなければ、私は心の中心に問いかけることがなかった かもしれません。「若大将」という名前の上に胡坐(あぐら)をかいていたかもしれない。 余りに重たい荷物から逃げ出していたかもしれない。祖母に対しては「感謝」の二文字しか 浮かんできません。 |
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09年11月19日新設
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