「湘南SURFJOURNAL

 (vol。07 2010年12月15日発行)

湘南の情報誌、フリーマガジン「湘南surf journal」に、加山さんと岩倉瑞江さんのトークが掲載されてましたので、ご紹介いたします。

”アニー”さんを通して、”パットーラのスタッフH”さんからご提供いただきました。ありがとうございました。

クリックすると紹介文が大きくなります。
司会)今日はお二人に湘南にちなんだ思い出話をお聞かせいただければと思います。

あまりにも近いから、話し尽くせないほど思い出はいっぱいあるよね。

司会)幼い頃から一緒に遊んでました?

岩倉)私はいとこの中でも結構下の方だものね。みそっかすだった。可愛がってもらったって感じ。幼稚園くらいからずっと。

司会)どんな遊びを?

この人のうちに25メートルプールがあって。
幾つの時からあった?

岩倉)三つの時からあったと思う。

だから、しょっちゅう泳ぎに行ってたし、よくパーティーもあったよね。

岩倉)うちで合宿もしてたよね。

俺の同級生たちが集まってね。
みんなでギターを演奏したり、夏場だったら船で烏帽子岩に行ったり、いい思い出がたくさんある。僕は今の茅ヶ崎第一中学校出身だからね。
瑞江ちゃんはどこだっけ?

岩倉)平和学園。辻堂と茅ヶ崎の間にあります。

小さい頃は徒歩で通って?

岩倉)自転車。小学校の時は、バスか歩きだけど。小学校から高校までのんびりと。今、娘も同じ学校にいます。

何年生?

岩倉)中学一年。もう一丁前で面白い。

1953年12月9日生まれ。生粋の茅ヶ崎っ子。明治時代の政治家、岩倉具視の玄孫(ひ孫の子)加山雄三の従妹。70年代に湘南のサーフカルチャーシーンの発信源となった「ブレッド&バター」「セミーズカフェ」を仲間と一緒につくり、当時のサーフシーンの中心的存在だったマドンナ。
1979年に、その後大人に愛される湘南ファッションの代名詞ともなった「スポーティフ」を立ち上げる。今では茅ヶ崎店の他、青山店、ララポート横浜店、通信販売など事業を広げている。現代を生き抜くビジネスウーマンとしての手腕はもちろん、海のある暮らしを自らがずっと実践し続け、その素晴らしさを実感している女性だからこそできるやり方で、いつの時代も女性が望むものを表現し続けているクリエイターでもある。

司会)御自身のその頃と比べると、どうですか?

岩倉)今の方が断然進んでる。私なんかボーッとしてた方だから、全然違います(笑)

そりゃ、情報がこんなに多いと進歩すると思うよ。

岩倉)そう。でも私はわりと遅い時に子供を産んだから、歳の差があるのが逆に面白い。私が聴いている音楽にも、今の世代なりの感性で「いいじゃん、この曲誰?」とか言ってくるからね。

音楽は今や氾濫と言っていいほどあるから、何でも自分の好きなものを選べる時代になってる。買いに行かなくてもダウンロードできちゃうしさ。

岩倉)時代は変わるよね。

子供の頃から溢れるような音楽があると、音楽に対する感性ももの凄く違ってくる。俺の船を預かってもらっている造船所の社長の孫がね、4歳なんだけど、俺がこの間出した「座・ロンリーハーツ親父バンド」、全部歌うんだよ。

岩倉)えっー(笑)、凄い!

一字一句間違えないんだよ。俺のほうが危ないくらい。4歳だぜ。ちょっと驚いたね。それだけ子供って情報を吸収するんだ。

サーフボードだって、カヌーだって
 遊ぶ道具は大抵、自分で作ってたからね。
  時代背景と環境で、工夫することを覚えた。
司会)加山さんは、どんな子供時代でした?

我々はのんびり育っているし、吸収する材料も少ない。良いか悪いかは別として、物がある過ぎると自分で選ぶということはできても、反面何かこう自分で工夫するということが非常に少なくなってくるね。俺たちの時代は何もないから、自分で工夫してた。

岩倉)自分で見つけたりね。

楽しみを見つける。サーフボードだって自分で作ったくらいだ。

船だって自分で作っちゃう。そうしなきゃ何にも楽しみがないから。ゲームがないんだから。俺の時代は、テレビだってなかった。あんたの時代はあったけど。記憶にあんまりない?

岩倉)私の時はあったけど、最初からはなかったね。

長いこと生きてると、その違いたるや凄いとわかるよ。

司会)サーフボードはどうやって作ったんですか?

今みたいにウレタンなんかで作る方法は知らないから、模型の飛行機の羽みたいなフレーム、ストリンガ−は真ん中に丸く木を切ったのを張り付けていって、少し反らして、5ミリのベニヤ張りつけて作ったんだ。瑞江ちゃんのプールの所に立てかけていたでしょ。

岩倉)あったよね。

誰もサーフィンやってない頃だったけど、日本でもハワイみたいにサーフィンできるはずだと確信持って作った。

岩倉)乗れたの?

乗れたんだよ(笑)。俺、新聞に出たもん。ハワイスタイル波乗り第一号って。写真付きで。絶対にどこかに残ってるはず。

岩倉)学生の時?

高校生だったかな。

岩倉)サーフィンの情報は、ハワイから?

そうだね。結構うちに外国人が出入りしていたので、そういう人達が持ってくる新聞・雑誌からや、英字新聞の記者の人からの情報がたくさんあった。一番最初のレコーディングシステムだって、おそらく誰も知らないと思うけど、ワイヤーレコーダーだったんだから。テープレコーダーなんてできる前だった。
髪の毛のように細い針金みたいなので録音する。マイクロホンで喋ると録音できる。それで俺、録音する面白さを覚えた。それは親父がどこからか手に入れてきたんだけど、今でもあるよ。すぐ後にテープレコーダーができたら、また親父が買ってきた。で、2台を使うとピンポンというのだけど、コーラスも入れられる。音楽は何でも自分で録音していくというを覚えて、どんどん進化させて、楽しくオーケストレーションにしていった。

岩倉)何でも器用だよね。

時代背景と環境でさ、工夫することを覚えてんだよ。
あなたもこういう仕事をするようになっったのは、洋服を自分で作るってことから始めたんでしょ。作って楽しんで。

岩倉)着たい服がなかったから作り始めて、自分でミシン踏んで、三十何年前にブレッド&バター(店)で壁にピンアップしてやったのが始まりです。

与えられるものがない、ということから始まるからできること。すべて俺のライフワークは全部そうです。絵を描くこともそう。デッサンを習ったわけでもないし。

岩倉)ほんと?!

俺、作曲も習ったことないよ。

司会)ギターなどの楽器は?

ギターは習ったことないというと、ちょっと言い過ぎかもしれない。最初は同級生にスリーコードを教わったからね。ピアノは先生について小学5年生の時から中学2年まで習った。それも最悪な生徒だった。不真面目。宿題をしなかった。他の曲ばっかりやってる。「やる気がないのですか?」「はい、ないです」と。

自分で作った初のモーターボートで
  江ノ島を越えて鎌倉の方まで行ったり、
    羅針盤なしで伊豆大島まで行ったりしてた
司会)サーフボードを作られた頃の湘南の波はどんなでした?

台風の前後、もの凄くいい波が立つんだよ。それがどの辺にいるか、今みたいに情報がないんだけれど、だいたいわかる。烏帽子岩で潜ってると、自分の体でわかる。岩が動き出したら、アッ、どっかに台風があるなと。来るぞって。今じゃ考えられないかもしれないけど、昔は茅ヶ崎周辺も遠浅だった。非常に不思議な海岸だった。北風になって遠くのほうでシケてくると、ハワイのワイキキみたいな波になる時だってあった。だってさ、波も水も今よりずっと綺麗だった、波がピューッと上がって、透き通った所を魚の大群が泳いでるのが見えるんだから。そんな時代です。潜ると貝もたくさん採れたしね。

岩倉)烏帽子岩までは泳いで?

自分で作ったカヌーだよ。中学2年生の時に作った。それは友達にあげたけど、中3の時に作った2台目は今でも置いてあるよ。
材木屋にあった薄木の板を買ってきて、カンナで削って、面白い独特な作り方をした。誰もあんな工夫、考えも及ばないと思うよ。

岩倉)パドルは?

パドルもちゃんとちょうどいい大きさにした。板と板の間、どうやって水がもらないようにするかも考えて、ラッカーと布の裂いたので一滴も水が入らないようにした。最初画用紙で模型を作って、ロウを刷毛で塗ってどれくらい復元なるかと鉛を結構重くしてみて、これだけ復元あるから大丈夫かなと。あんまりそれは関係なかったけど。傾いた時は自分も落っこちているから(笑)。
1号艇が成功したため、毎年1隻ずつ作って、とうとうモーターボートまで作っちゃって、その頃には加瀬邦彦がいて、加瀬が一緒に進水式の時に付き合って、乗って走り出して左にハンドル切ったら船が右に曲がりやがった。要するに、エンジンに繋がっているワイヤーの巻き方が反対だったわけだ。帰ってくるの大変だったよ。加瀬が大笑いして・・・。マーキュリーの40馬力なんてもの凄いスピードの出るエンジン、米軍の人から中古を譲ってもらったのを積んでるから、江ノ島なんてすぐ傍だって感じになって、鎌倉まで行ったり。鎌倉の浜辺に乗り上げて、ほったらかしにして友達の家に泊ったりしても、ぜんぜん平気だったからね。誰も何もしない。台風が来ていて、ちょっと帰るのは大変だからと、3,4日経ってから帰ったり。
伊豆大島まで行った帰りとかは、曇って見えなくて方角がわからなくなって、「だいたいこっちだろう、波を背にしてこう行けば・・・」なんて行ったら大きな橋がある平塚に着いたり。

岩倉)そのボートで大島まで?

行っちゃう行っちゃう。羅針盤も積んでないんだよ。バカじゃないかね。

岩倉)そうだね(笑)。

こんな思い出もあるよ。テントや食料とかを積んで引っ張る、四角い箱みたいなキャリーボートに12人乗って、うしろにカヌーも引っ張って、一番先頭のモーターボートで江ノ島のもっと向こうへ行って、どこか良さそうな場所でキャンプしようということになったんだ。そしたら山に凄いカッコイイ松の木があって、芝が植わっている所を見つけた。

「すげえ、いい場所だな」なんて言いながら、浜辺に船を着けて上がっていき、みんなでテント張って、夕食作ろうという話になった。そこへ変な親父がすっ飛んできたなと思ったら、貴様たちは何をやっとるかと言う。「見りゃわかるだろ。テント張ってキャンプだよ」と答えたら、ここをどこだと思っているのかと問うから、「知らねえよ。どこだ、ここは?」って。そしたら、立石御休憩所、天皇陛下のご領地でありますと。
もちろん「とっとと出て行け」と言われたわけ。
でもそこで、「だけど、おやじさんさ、天皇陛下いつ来た?」と訊いたら、4日前までおられたと。「4日前?じゃあ、今日はもう来ねえよ。明日朝出て行くからよ」と、泊っちゃったんだ。そしたら見事に罰が当たったね。もの凄い夕立。雷がバリバリバリバリ鳴ったと思ったら、ザーッ。四つ張ったテントのうちの一個の真ん中の支柱が折れちゃった。テントの中には水がどんどん流れてきて、下のキャンパスはブヨブヨ。そこへ三葉虫が家族連れでゾロゾロやってきて寝られたものじゃなかった。

その次に着いた所も、どなたかの皇室のお家だった。そういう所はいい所ばっかりなんだよ。その隣の浜辺はパブリックだったから問題なかったけどね。そこへテント張って、水上スキーやったり、サザエ獲ったり、すげえ楽しかった。

岩倉)その頃はどこにテント張ってもよかったんだものね。今は怒られちゃう。

1937年4月11日生まれ。茅ヶ崎市育ち。茅ヶ崎第一中卒業後、慶応義塾高校へ進学。幼少から水泳、カヌー、サーフィンなど様々なスポーツを楽しむ。
慶應義塾大学法学部在学中にはスキーで国体にも出
場。卒業後、東宝と専属契約し、俳優活動を開始。すぐに映画デビュー、翌年には歌手デビューも果たす。「若大将」シリーズを始め、数多くの大ヒットソングと名作映画を生み出し、また作曲作詞でも才能を発揮。近年は絵画や陶磁器、漆器などの芸術作品を集めた画集も刊行されるなど芸術家としても注目されており、深い知性とピュアな人間性が生み出す能力はとどまるところを知らない。今年はデビュー50周年を迎え、「座・ロンリーハーツ親父バンド」をリリースし、コンサート活動も行っている。

大変だよ。今は制限が多すぎてね。我々の若い頃は、ほんとうに自由だったというか、もの凄くいい時代だったな。今生まれたくねえな、って感じ。別の楽しみがあるだろうけどね。天皇陛下のご領地にテント張った奴は・・・。

岩倉)いないでしょ。

司会)新聞に載っちゃいますね。

今だったらホント大変なことだ。いくら開かれた皇室といっても、それは無理だ。不可能だ(笑)。

司会)現在の湘南で良いと思われることは?

西湖バイパスができたことです。茅ヶ崎から江ノ島や鎌倉の方までもう一本通した方がいいね。夏場の渋滞はどうにもならない。フロリダなどを見ても、海岸沿いと、もう少し入った所とに、2本のハイウェイがちゃんとあって結ばれている。

司会)茅ヶ崎や湘南エリアの環境に対して、こうしてほしいと思われることはありますか?

岩倉)みんなが遊べる海があって、これだけのサーファーがいるし、パドラーもいるこの環境をもっと整えたいと思います。駐車場のことや、海遊びの環境を。もっともっと海遊びの文化が広まればいいなと思う。自分も最近スタンドアップパドルをやるようになってから、特にそう思うんだけど。

僕は昔からやりたかったんだけど、烏帽子岩を電球で飾りたくてさ・・・。

岩倉)ライトアップして?

景色いいじゃん。その電気もちゃんと太陽パネルにして。だって真っ暗の中、浜辺歩いていてもロマンチックじゃないから。江ノ島の夜は、ライトアップされてるから綺麗なんだよ。烏帽子岩がライトアップされたら、海の上に大きな船がぽっかり停まってるみたいな光景になると思うよ。

司会)ソーラーパネルでできますかね?

1平方メートルで180ワットとれるから、10枚で1.8キロ取れる。そしたらそれだけでもって、電池を置いて充電しておいて、あとはちっちゃい24ボルトの電球をパッパッパッパッとある間隔で置いて。で、スイッチは陸に置いといたほうがいい。夜になったら、ハイ点けるよ。パァーッ!面白いね。ぜったい誰かやるよ。高くないもの。陸から電気を運ぼうとかコードを海の中に通そうなんて考えたら大変な金がかかるよ。ソーラーパネルを使って、今は電池だって改良されてきてるから2〜3年は持つし。塩害対策や運搬、風や波で飛ばされないように固定したりはしなきゃいけないけどね。

司会)ぜひ茅ヶ崎市に提案してみましょう!

茅ヶ崎一中通りを活性化して、もっと海遊びが環境になれば  湘南での楽しい生活を知ってもらえる
司会)これからのお二人の夢をお伺いしてもよろしいですか?

岩倉)私は、この茅ヶ崎一中通りを活性化して、いろんなものを作っていきたいなということと、この辺にもうちょっと文化をもたらしたいなということです。もっと湘南をみんなに知ってもらって、スポーティフというお洋服も知ってもらって(笑)、ここの楽しい生活を知ってもらいたいという夢ですね。そのために施設を作ったり、いろんなことをやっていきたい。海遊びがもう少ししやすいステーション。東京の人が皇居の周りだけを走るんじゃなくて、海の辺も走ってみようかという時に、ロッカーがあれば便利でしょうし、ヨガのスタジオとか、泊るところを作ったり・・・。

司会)それは世代を超えていろんな人達が集える場所ですね。

岩倉)ここが好きで、ずっと住んじゃってるから。

司会)一生ずっとこの茅ヶ崎に?

岩倉)今のところはそう思ってる。また何を思い出すかわかんないけど・・・。

僕も東京で仕事をすることになってなきゃ、ずっとここにいたと思う。

司会)加山さんの夢は?

ヒット曲をたくさん作ること。ヒット曲というよりいい曲!それといい絵を残したいということです。
やっぱり、アートの世界に生きてるから。あと、エコシップを作りたい。一切、化石燃料を使わないで走れる船。もう頭の中では構想ができていて、この間も関係者と話し合いをしたんだ。結構いいアイデアがでてきた。世界に先駆けて、世界初の完全エコシップを作って、世界中回ったら面白い。

どこか企業が手を組んでやろうということになれば、いいパブリシティにもなる。今、「チャレンジ25」(温室効果ガス25%削減のための国民運動)のキャプテンをやっているのですが、1990年に企画して2020年までに、二酸化炭素を25%削減しようという取り組みです。それで考えていたらそんなアイデアが浮かんできて、面白いかなと思ってね。

岩倉)スゴイ。

いろんなこと考えるのも、何もない時代に育った背景があったから。無から湧き出た自分のアイデアを何かに反映させようと願うのかな。

司会)そういう専門的な知識も全部、探究心から得られるのですか?

ただそれだけですね。やっぱり興味をもつということは、気持ちの問題で、興味をもてば勉強することができるし、できたらヒントも出てきて、凄く良い結果を生むことが可能かもしれない。

「念ずれば花開く」という言葉が僕は凄く好きで、長い間の人間の知恵が生んだことだとい思う。

岩倉)念じてみます。

今や、もうお互いにいい歳だから、急がないと(笑)。相手あれば言えば必ず!

岩倉)そう、こうやって夢を語っていくことも大事。

有限実行でね!

                           終わり

11年01月23日新設