鼻歌だった<旅人よ>
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加山雄三の父親が、天下の二枚目俳優、上原謙であることはすでに触れた。そういう 意味ではサラブレッドであり、子供の頃から注目されて暮らしていたと言って良いのだ ろう。ただ、それが、必ずしも追い風になるとは限らない。時には、屈折した反発や拒 絶の対象になることもある。 「物心ついた時から、オヤジが周りからチヤホヤされるのを見ながら育ちましたからね。 それに比べて、僕は出来損なったなあと思ってましたし。出来上がった映画を見ても、 やっぱり駄目だなあと思って、放りっぱなしにしてたんですよ。何か嫌だった。テレビ ドラマなんかひどいもんですよ。台本を読まないで自分の台詞しか覚えてゆかない。助 監督が飛んできて「台本読んでないだろう、ニュアンスが違うんだよ」って言うから 「じゃ、やってみてよ」って、そいつにやらせて、その通りやったりね。だって、スト ーリーをテレビ見てから知るんだもの。黒澤監督の作品は違いましたけど」 映画と音楽。 彼が初めて組んだバンド、カントリー・クロップスは6人編成のカントリー系のバン ドだった。 1957年というのは、日劇ウエスタンカーニバルが始まる前の年だ。そういう意味 では、エレキギターすら珍しい時代。彼は慶応の学生で20歳だった。 加山雄三の音楽との出逢いは、8歳の時に叔母の弾く「バイエル」の75番に惹かれ た時だという。彼女の指の動きだけを見て、自分で弾けるようになったというエピソー ドは一種の天才伝説だろう。1945年、日本が戦争に負けた年だ。1950年、13 歳の時に通っていた茅ヶ崎第一中学の通学路に、有名なピアニストの家があり、それが 縁で正式に習い始めるようになった。14歳の時に初めて作曲したのが、<君といつま でも>のカップリングに入っていた<夜空の星>だったと言う。 「あれが処女作ですね。元々はピアノの練習曲。バイエルのようなつもりで書いていた んですよ。<夜空の星>は全然イメージが違いますよ。<君といつまでも>の時にB面 がないんで、これをやりましょうかって持って行ったら、渡辺晋さんがサビのところを 変えたら良いんじゃないかって。じゃ、変えますとラテンコードというのをつけて、全 く違うメロディを鼻歌交じりにつけて渡したら、これいいじゃないかということになっ た。そのまま岩谷さんに渡したらすぐに<夜空の星>というタイトルもついてきました ね。元の曲はおよそイメージが違うと思いますよ。2006年にやった45周年コンサ ートの中で一番最初に、<夜空の星>を最初の形でやろうと思って、ただピアノを弾い たりじゃつまらないからチェンバロで作った当時の音を再現して始まったんですけの、 それがエレキになって詞がついて、今でも歌えるような曲になるとは、その頃は夢にも 思わなかったですね」 音楽は新しいジャンルだった。何をやっても父親と比較されてしまう映画と自分の好 きなように創作も出来る音楽。1961年に東宝映画30周年の記念パーティのために 音楽好きな俳優やスタッフを集めて組んだバンドがザ・ランチャーズだった。船が進水 するという意味がある。 1965年12月に<君といつまでも>と同時発売されたシングル盤<ブラック・サ ンド・ビーチ>はB面の<ヴァイオレット・スカイ>ともどもインストゥルメンタルの 作品だった。クレジットは、もちろん”加山雄三とザ・ランチャーズ”である。 バンドを通して手にした絆。それは、父親を通して見ていた”大スターとその取り巻 き”という人間関係とは違うものだったに違いない。 彼の”バンド志向”を物語っているのが、1966年に出た<旅人よ>ではないだろ うか。そのジャケットにはザ・ランチャーズのメンバーとともに写っている。歌詞カー ドにも”加山雄三とザ・ランチャーズ”となっている。 加山雄三のデビュー45周年を記念して、ファンから募ったリクエストの一位となっ たのが<旅人よ>だった。 ”そうなんですよ。「幸せだなあ」じゃないんですね。「君といる時が一番幸せなんだ」 って結婚した団塊の世代の人たちが、しみじみと旅をしたくなるような時期なのかなあ って思ったりしますよ。もちろん推測ですけど” 加山雄三と岩谷時子のコンビというだけでなく、日本のポップスのスタンダードとし ても歌い継がれているのが<旅人よ>だろう。加山雄三は、作曲に関してのこんなエピ ソードを披露してくれた。 ”茅ヶ崎から東京に<夜空を仰いで>のレコーディングに行く途中でしたね。ランチャ ーズの喜多嶋兄弟が同じ茅ヶ崎でしたから、一緒に車に乗ってたんです。レコーディン グに行くのにB面の曲がないっていうんで、車の中でランチャーズの連中に聞かせなが ら一生懸命作って東京に着くまでに出来上がって、出来たから、これで良いよなって、 鼻歌を歌って、そのテープを岩谷さんに渡して、翌日にこの詞がついて来ましたね。も うたまげました(笑)。曲というのはノリで作った方が良いことが多いですね。中には 作ろうと思って構えて作ることもあるんですけど、そういう時はたいてい理屈っぽいで す。聴いてつまんない、ということもあります。<旅人よ>もそんな曲ですね。あった のは鼻歌だけですから。岩谷さんのすごいのは譜面を見てキチッと言葉を載せてもらえ るし、しかもストーリーがあったり、心に訴える深いものや情景があったり、天才です ね。ジーニアスですね。僕には絶対に出来ないね。” <旅人よ>は、当初<夜空を仰いで>のB面だったものの、AB面を入れ替える形で両 A面として発売されている。 ”そう、レコード会社の人は、B面はカスで良いですからという言い方をしていたんで、 俺は嫌だと。A面もB面もなく両方A面で出したいんだ。カスみたいな曲っていうのは 聞く人にも失礼だし。作る側にもなってくださいよ。これは絶対に良い曲だからって出 したんです。そうしたら、先に<夜空を仰いで>がトップになって、しばらくしてその 後に<旅人よ>がトップになった。「ホラ見ろ」って言ってたら岩谷さんも「そうよね、 ホラ見ろよねえ」って二人で言っていた記憶がありますね” ”風にふるえる 緑の草原〜” <旅人よ>の冒頭のそんな一節は、歌の持つ想像力の強さを凝縮しているだろう。”風” ”ふるえる””緑の草原”という三つの言葉だけで、目の前に広大な草原が浮かび、誰 もが”若き旅人よ”としてはるかな空の下にいるような気持ちにさせられる。 岩谷時子は、実生活では、どんな旅をしていたのだろうか。彼女はイタズラを告白す るような笑顔で「ハワイが唯一の外国なの」と言った。 ”あんまり出かけない方なんですよ。その時も最初はもっと人の行かないような熱帯に でも行こうかと思ってジャカルタかな、手続きまでしたんです。そうしたら阪急の人に、 そんなところ行かない方が良いよ、雨は降るしヤモリも降ってくるって言われてハワイ にしたんです。それが唯一の外国(笑)。「ハワイの若大将」か「お嫁においで」かど っちかの後くらいでしょうか。一人で行ったの、偉いでしょ(笑)。私、泳げないの。 でも、空気はきれいだし、のどかだし、住みやすそうでしたね。良かったですね。何を 食べたかは覚えていない。ホテルは覚えてますね。モアナ何とかというところでした。 でも、ハワイが元になって生まれた詞はないです(笑)」 岩谷時子と正反対だったのが越路吹雪である。1953年、まだ海外渡航が制限され ていた時代にパリに行った時の日記は「越路吹雪メモリアル・夢の中に君がいる」で読 むことが出来る。 ”彼女は勇敢だし自立心が強いし、私より倍の倍くらいたくましいですから。だって、 ピアフに逢いに行ったくらいですからね。私はパリに行ったことがないというと驚かれ る方もいらっしゃるんですけど、私のことを知ってらっしゃる人は行けるわけがないと 思うんじゃないでしょうか(笑)” もちろん実際に経験しないと詞が書けないということではない。だとしたら<旅人よ> のイメージはどこから来たのだろうか。彼女は、穏やかに微笑みながら”父も旅人でし たよ”と言って、こう続けた。 ”人間は、誰でもが旅人じゃないかしら。今も昔も” 10年12月09日新規作成 |
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