アドリブ<君といつまでも>
|
|||
加山雄三と岩谷時子のコンビの中でも、最大のヒットは<恋は紅いバラ>に続いて1 965年12月に発売された<君といつまでも>だった。 「そういう意味では一発目からいきなり売れましたからね。どうしてこんなに売れたん だと思うと、やっぱり日本語ということなんだろうなと。<恋は紅いバラ>は、厳密に 言うと訳詞ではあるけれど、歌というのはメッセージですから、やっぱり詞が問題なん ですよ、すげえなと思って。僕は曲を作り貯めてましたし、ストックもあったりするん で、次から次へと曲をお渡しすると、こちらからは何にも注文つけないのに「これでど うかしら」と持ってこられて、それが見事に的を射ているというか。メロディで感じる のかな、すごい良い詞があがってくる。それでいてすごく謙虚な方だったから「もし気 に入らなかったら変えても良いのよ」「いやいやとんでもない」とか言いながら、片っ 端からレコーディングしていきましたね。僕には全く出来ないことを最初からやってく れてました」 岩谷時子の許には、加山雄三の方からギターでメロディを入れたテープが、まるで電 報が届くように次々とまとめて送られてくる。彼女はそれに一晩に何曲も言葉をつける。 <君といつまでも>も、そうやって生まれた。加山雄三はこう続ける。 ”あのタイトルは、おふくろが「若さをいつまでも」という本を書いた時に、占い師に 「いつまでも」という言葉はほんとに良いんですよ、と言われたことがあったらしく、 その話を何となく岩谷さんとしていたことがあったんですよ。それを覚えていたんでし ょうね。” ただ、<君といつまでも>の中で、何よりインパクトがあったのが、間奏での彼の台 詞だろう。 ”しあわせだなあ 僕は君といる時が一番しあわせなんだ 僕は死ぬまで 君をはなさないぞ いいだろう” はにかんだような笑顔で指で鼻の横をこするようにして口にする、そんな台詞は好青 年・加山雄三のイメージを確立した。 ”加山さんは、日本男子の古風な厳しさと、おおらかで明るい西洋の男の良さを併せ持 った男性である。” 岩谷時子は、「愛と哀しみのルフラン」の中で、加山雄三をそんな風に評している。 日本的な古風さと西洋的なおおらかさ。<君といつまでも>のあの台詞は、まさしく 後者だろう。当時は、そんな風に率直に自分の気持ちを言葉にしないことが、日本の男 性の美徳でもあった。俳優の三船敏郎の「男は黙ってサッポロビール」というキャッチ コピーが流行るのは1970年に入ってからだ。そんなことは言わずもがなであり、加 山雄三のあの明るさは、保守的な人たちにとっては”軽薄”以外の何ものでもなかった だろう。加山雄三はインタビューで「女性の作詞家だから書けたんでしょうかね」とい う質問を何度となく受けている。 ”実は、あれは俺が出任せで言った言葉だったんですよ。宝塚で映画の撮影をしていた 時で、毎日放送のスタジオを借りてレコーディングしたんですね。ギターやピアノでデ モテープを作った時には大した曲じゃないと思ったんだけど、スタジオに行ってみたら、 アレンジャーの森岡賢一郎さんがあそこまでフルオーケストラっぽく仕上げていて、こ んなに良い詞もついちゃって、これはすげえや、いやあ、これは幸せだなって思わず口 に出してしまったのね。その時、マイクがオンになっていて、スタジオ中に聞こえてし まったんですよ。そうしたら、みんな「それ行きましょう、それ行きましょう」って大 喜びしてましたよね。岩谷さんも、大喜びしてたね。エルビス・プレスリーの歌の中に は、語りの入った曲が結構あるんですね。それに憧れてたから、日本語でちょっとやっ てみようと思ったら、それが馬鹿受けしちゃったね(笑)”
<君といつまでも>は、1965年から翌年にかけて最大のヒットになった。とは言う ものの、1966年のレコード大賞は、橋幸夫の<霧氷>が受賞している。下馬評では 圧倒的に加山雄三であり、同時に聴き手の一人だった筆者の個人的な疑問でもあった。 それに対して、雑誌「週刊サンケイ」1966年12月19日号が、こんな記事を載 せている。 ”レコード大賞に橋幸夫の<霧氷>が決まった。本命と見られていた加山雄三を、見事 に押さえた逆転劇である” そんな見出しのついた見開き2ページの記事は、”累計三百万枚突破記念”<君とい つまでも>出版記念””映画「お嫁においで」完成記念”と、相次いで開かれたパーテ ィで加山雄三が「本職は映画俳優」と言い切って、「僕は歌が下手で」と言ったことが 相手側の逆宣伝に利用され、審査員の心証を害したことで大賞を逃したのだろう、と推 測していた。 加山雄三の中の二つの要素ー。 岩谷時子は、それを”西洋的おおらかさ”と”日本的古風さ”と表現した。 趣味でやっている音楽なのだから、そんな大それたことまで考えない。レコード大賞 を巡るそんな彼の謙遜した発言は、プロの仕事に対しての”古風な厳しさ”の現れでも あったのではないだろうか。加山雄三はこう言う。 ”というよりも自分がやっていることに対して、どこかで無責任だったかもしれない。 映画に対してもそうだったんですよ。ちゃらんぽらんだった。自分の作品が嫌だったこ とがありましたからね。<君といつまでも>でも、映画の中で歌うシーンがどうしても 納得できなかったりしましたし。「お嫁においで」なんか、映画も見ていないんで、内 容も知りません。あれは、曲がヒットしてなかったら、生まれなかった映画ですからね” <君といつまでも>が大ヒットしていた1966年、加山雄三に岩谷時子が詞を書いた 作品は19曲にも上っている。その中には、今でも多くのアーティストにカバーされて いる<お嫁においで>や<旅人よ>も含まれている。特に<お嫁においで>は井上陽水 や福山雅治、槙原敬之などの大物男性アーティストもこぞって取り上げている人気曲だ。 ”<お嫁においで>の時はビックリしましたよ。おれ、まだ結婚する気なんかないのに、 もし、<お嫁においで>というような人が出てきたら、どうしようって思ったのは本音 です(笑)” 先ほどの例で言えば、岩谷時子は、加山雄三と自分の違いを「加山さんは西洋の男組 で、私は日本の女組」という例えをする。<お嫁においで>は、”日本の女組”の代表 選手が描いた、60年代の女性が理想とする夢のプロポーズソングだったのかもしれな い。 ”そんなに深く考えて書いてはいませんでした(笑)。でも、”ぬれた身体で駆けてこ い”とか、ちょっといやらしい言葉を使ったんですけど、加山さんは「これ、何のこと 」って素っ気なくて、こちらが拍子抜けしてしまいました。” 岩谷時子は、<お嫁においで>について、そう言う。シングル盤ジャケットは、ハワ イを思わせる南国の空を背に、上半身裸の日焼けした加山の健康的な笑顔である。彼に とっては初めてウクレレを使った曲であり、アレンジは日本のハワイアンの草分けの大 橋節夫。カップリングも<アロハ・レイ(さよなら恋人)>というトロピカルムード満 載のシングルだった。曲のヒットは、同名の映画となり内藤洋子が恋人役に起用されて いる。 それでも加山雄三は映画になったことすら忘れている、と言った。そして、それは、 「きっとオヤジに対してのレジスタンスでもあったと思う」と言った。
注)「内藤洋子が恋人役に起用されている」とあるのは、妹役の間違いです。 10年11月20日新規作成 |
|||