作詞家・岩谷時子の名前を決定的にしたのは、60年代に一世を風靡した加山雄三との
コンビだろう。作詞・岩谷時子・作曲・弾厚作という一連のヒット曲は、ザ・ピーナッ
ツに書いたものとは違う新しい言葉のセンスで、60年代の青春を彩るBGMとなった。
弾厚作というのは言うまでもなく、加山雄三が作曲する時に遣うペンネームである。
”人生にはその人の生き方を根底から変える大きな出逢いがあるといいますが、岩谷さ
んとの出逢いがなかったら、現在の僕は無いでしょう。そうでなければ作曲家・弾厚作
も、歌手・加山雄三もこの世に存在しなかったと思っています”
加山雄三は、2003年に発売された二枚組CD「岩谷時子作品集 サン・トワ・マ
ミー」に寄せて一文「岩谷時子さんのこと」の中でそう書いている。
「それはもちろんその通りです。<恋は紅いバラ>という曲で初めて出会って訳詞をし
ていただいたんですけど、大ヒットして。それまでは日本語で歌うということに全く興
味もなかったわけですし。英語だったら絶対ヒットしませんからね。それがあったから、
もっと良い曲をということで舟の中で書いたのが<君といつまでも>で、それが爆発的
にヒットしてずっと歌で、ということになったわけですから。岩谷さんと出遭ってなけ
れば、ヒットもしてないしレコードも売れてない。そうなったら、今の僕はないですよね」
加山雄三は、この原稿のための取材の中で、改めてそう言った。
二人を結びつけたのは東宝映画の監督、森谷司郎だった。岩谷時子は、まだ東宝の文
芸部に所属していた。
”ある日、森谷司郎監督から「若大将」の加山君が自分でギターを弾いて作曲しているら
しいのだが、使えるものなら挿入歌にしたいけど、聞きに来てくれませんか」と電話が
かかってきた”
彼女は、唯一の自伝エッセイ「愛と哀しみのルフラン」で、その時のことをそう書
いている。彼女は作曲家の広瀬健次郎と一緒に成城の東宝の撮影所に出かけている。二
人はそれが初対面だった。
岩谷時子は、その時のことをこう言う。
「その監督さんは、音楽にはほとんど興味のない監督さんだったんですよ。ちょうど昼休
みで、監督さんが「加山を呼べ」っておっしゃって。監督屋と言っても小屋みたいなと
ころなんですけど、その扉を加山さんがトントンと叩いて。監督さんも「入れ」「座れ」
ってそれだけで、ギターを持って入ってきた加山さんも「ハア」ってそれしか言わない
の。「さっき歌っていた歌をうたえ」って言われて、歌ったのが<恋は紅いバラ>ですね。
全編英語だったんですよ。お昼の休憩が終わる時間なんで「加山帰れ」。加山さんはま
た「ハア」って(笑)。監督さんが「どうだ」「声もいいしスタイルもいい。良いウチ
の坊ちゃんみたいで嫌みがないから良いんじゃないですか。でも、英語の歌は、まだみ
んなが付いて来れないから。どこかに日本語を入れた方が良いと思います」って、許可
を得ながら日本語を入れたのが<恋は紅いバラ>でした」
”アイ ラブ ユー イエス アイ ドゥ
愛しているよと 君に言いたくて
そのくせ 怖いのさ
君に今度遭うまでに みつけておこうね
その勇気を”
<恋は紅いバラ>は、最初のフレーズで印象が決まる典型的な歌だろう。誰もが知って
いる英語の言い回しと英語ならではの響きが従来の歌謡曲とは決定的に違った。全編英
語で歌われる原曲<デディケイテッド>は、すでに1963年に公開されていた「ハワ
イの若大将」の中でウクレレを手にして歌われていた曲でもある。1966年には「恋
は紅いバラ〜加山雄三アルバム」の中の曲として発売されている。
加山雄三はこう言う。
「最初は日本語をつけるつもりなんか全然なかったですからね。あの曲も学生時代にメ
ロディを書いて英語で作詞して、勝手に歌っていたものなんですよ。自分で曲を書いて
いるということが知れて、みんなに披露したら、藤本真澄という大プロデューサーが、
「英語なんか駄目だ。日本語日本語」って、全く英語を拒絶する人だったので、これを
レコードにする時には日本語にしないと駄目かという話になったんだと思うんですね。
英語版も出てますけど、完全に日本語にしたものが大ヒットしたということですね」
加山雄三は1937年4月11日に神奈川県横浜市幸ケ谷に生まれている。茅ヶ崎に
移ったのは1歳の時だ。父親が天下の二枚目俳優として人気のあった上原謙で、母親が、
明治の名政治家の一人、岩倉具視のひ孫で女優の小桜葉子という名門。8歳でオルガン
を弾き、14歳の時には、作曲とサーフィンを始めている。20歳の時に組んだ、カントリ
ーバンドが最初のバンドと言う。1957年のことだ。
「日本語で歌をうたったことがなかったんですよ。学生時代はカントリー&ウエスタンと
エルビス・プレスリーの曲でしたし。周りには日本語で歌っている人もいましたけど、
馬鹿じゃネエかと思って、ダセエなといういい方で馬鹿にしていたからね。演歌は当時
流行っていたものを鼻歌まじりで歌う程度、バンドで歌ったことは一度もなかった。
だから岩谷さんの詞を歌えと言われた時も最初は苦手というか、どうにもなんねえなと
いう気持ちだったんですよ。初期の頃からそんな気持ちもありながら、でも売れてしま
ったからしょうがないと、実を言うと、こういうことなんですよ、本音は(笑)」
<恋は紅いバラ>のレコーディングは撮影の合間を縫って深夜行われた。外は激しい雨
で、加山雄三は履いていた木製のサンダルを枕に仮眠しながら終えた。岩谷時子は、車
で帰る彼が、同じ方向に帰るスタッフを車で送ると誘った時のことを「愛と哀しみのル
フラン」に書いている。
”並んでいる列の端から順に名前を呼んで、それぞれの自宅をきいていかれたが、なん
と、そのとき、スタッフの中でたった一人の女性である私にだけは、声がかからなか
ったのである。
私はそのとき、加山さんの、芸能界に住みながら未だに世馴れていない清々しい青年
の心を見たような気がして、そのときの印象が今も鮮烈に私の胸に残っている”
ただ、厳密に言うと、岩谷時子は<恋は紅いバラ>の前にも加山雄三に詞を書いてい
る。彼のデビュー曲、1961年<夜の太陽>のB面<大学の若大将>、3枚目の62年
の<日本一の若大将>もある。作曲は広瀬健次郎。そのせいもあるのだろうが、二人の
話に、それらの曲は出て来ない。
そういう意味でも<恋は紅いバラ>から全てが始まったと言って良いのではないだろ
うか。
10年11月11日新設
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