歌とぼく

ハートで歌おう

 「しあわせだなあ」「ぼくは君をはなさないぞ」そういって、ぼくが鼻のわきを指でこす

り上げ、頭をかいてニヤリと笑うと、客席から「キャー」「ユーゾーサン」と、ものすごい

カン声が上がる。

「あの、恥ずかしそうにテレるところ、かわいいじゃない」

と女の子はいい

「いい歳をして、歯の浮くようなこといって、自分でテレていれば世話はない。実にクダら

ん」と、これはコワイ批評家先生。

 どう思われても仕方がないが、はっきりいって、ぼくは人の前で歌をうたうのはイヤだ。

 ワンマン・ショーやテレビに出て、もういいかげん馴れただろう、といわれても、相変わ

ずイヤなものはイヤだし、恥ずかしい。

 それも、ふしぎなもので、大劇場の三階席までも埋めつくした大観衆は、かえってくみし

すい。相手が一人一人の個性をもたない、ひとつの塊りみたいなものだからかもしれない。

 テレビ・スタジオなどで二、三十人のファンを前にしてうたうのは実にイヤだ。

 もっといやなのは、せまい部屋などで、四、五人の人を前にうたうとき。

 それよりなにより最高に恥ずかしいのは一人対一人。

 ところが、たった一人で、他にだれも聞いていない、たとえば風呂の中とか、大海をただ

うボートの甲板とかでうたう歌は、自分でもホレボレするほどうまいのだ。一たん人前に

出ると、なぜあれほど下手になるのか、要するに逆上し、アガってしまうのだ。

 最近、つくづく「オレはプロ歌手じゃねえなあ」と思う。

ハートで唄った歌だけ聴衆を感動させるのだ。

 こんなにぼくが人前でうたうのはイヤでテレてるのに

「あのテレているのがいい」なんていわれると、まったく身の置きどころもないほど、困っ

てしまう。

 元来、テレているということは他人には隠しておきたいことだ。”テレかくし”というこ

ばさえあるのだから。

 それを、「テレているのがいい」といわれるのは、相手にテレていることが完全にバレて

しまっているわけだ。それ以上はもはや隠しようがないのだから、まったく逆上し、ろう

いしてしまう。しかも、二十九歳にもなって、「しあわせだなあ」なんて、相手もいないの

に、ひとりでしゃべらなければならない。

 それも宴会の余興かなにかで、一回こっきりのことなら、勇気をふるってやれるだろうが

、一日になんべんもやらされたのではかなわない。

 しかし、ぼくはプロなのだから、そんなことをいってはいられない。どんなに恥ずかしく

ても、テレがバレても、歌がへたくそでも、ぼくは、誠心誠意、歌をうたうだけだ。

 歌はハートでうたえ!というのが、ぼくのモットーだ。 大学時代のカントリー・クロッ

プスのメンバーとして、米軍の基地のクラブへ出演していたとき、よくステージでうたった。

ところが、うまく歌おう、きれいに歌おうと努力しても、客席からはなんの反応もなかった。

逆に、その曲の心を自分の心として聴衆に訴えると、ものすごい拍手がかえってきた。その

とき、ぼくは、歌は技術ではなくて心だ、とつくづく思った。

 歌はうまいのに越したことはない。しかしうまいことより、曲の心をつかむことの方が先

のではないかと、ぼくは思っている。

 歌を受けとるファンの側も、やはり音楽は身体で受け、心で聞く言葉ものではないだろう

か。 人々に愛される曲というものは、自然に人の耳に流れ込み、それを聞いた人が、心と

身体全体でいいと思い、その結果レコードが売れるものだろう。

 ところが、現状は「またまた大ヒット」「驚異的この売れ行き」といった無責任な宣伝文

にあやつられて、本当の曲の良さというものとは全然別のところで、歌が流行し、レコー

ドが売れているのではないだろうか。ちょっと売れ行きのいいレコード、歌手がいると、み

んなで寄ってたかって、実力もないのにムリヤリにコマーシャリズムに乗せてスターに仕上

げてしまう。これは日本と日本人の”貧しさ”なのではないだろうか。

10年01月21日新設