海とぼく

海はわがふるさと

 およそ、迷信、ジンクス、占い、などといったものは信じたことはないが、ただひとつ、

いまでも信じているのがある。それは”胎教”だ。ぼくが生まれたのは横浜の港が見える山

のテッペンの家だ。それまで茅ヶ崎の実家にいた両親が、新婚のうちは二人きりで生活した

方がいいだろうと、まわりの人にすすめられて三間の小さな家を借りて移り住んだのだそう

だ。

 そのころ、ぼくをお腹の中にかかえたおふくろは、毎日、山の上の家から横浜港に出入り

る船や、そのむこうにひろがる海を見て暮らしていた。ぼくがその後、もの心つくと同時

に、海や船に限りない愛情を感じるようになったのは、このときの母の”胎教”のせいだと

思っている。

 生後九ヶ月まで、横浜の山のテッペンにいたぼくは、田園調布に引越した。おやじの親友

の大日向伝(元俳優)さんに誘われたのだそうだ。ところが、おふくろは、この田園調布の

閑静なお屋敷街が気にいらなかった。

「このへんのお子さんたち、そりゃ上品で、きれいな着物着て、おとなしいけど、なんだか

弱くて”ヒヨヒヨ”してるわ。これじゃ、うちの子まで”ヒヨヒヨ”しちゃう」

 とうとうおふくろは、おやじを口説いて、一年後に、茅ヶ崎へ家を建てて逆戻りした。ぼ

くが二歳のときだ。

「まず身体をつくってから、しつけなり勉強なりをはじめるべきだ」という、おふくろの方

針で、ぼくは、茅ヶ崎へ来てから、ほとんど毎日、家のすぐ前の砂浜でころがされていたら

しい。

海と砂浜と太陽は、ぼくの生活に欠かせないもの
(茅ヶ崎海岸で)

 四月から十月ごろまで、おふくろは、ぼくといっしょに、浜辺で遊んでくれた。おやじは

そのころ、「西住戦車隊長」などのロケで、よく中国や韓国へ出かけたりして、二、三ヶ月

間も家を留守にすることが多かった。ねえやとぼくと三人だけだったおふくろは、ひたすら、

ぼくを育てることだけ考えていたようだ。

 ヨチヨチ歩きのぼくが、波うちぎわで、はじめて海水の洗礼をうけたのも、このころのこ

だ。こうして、海と浜辺と太陽と、ぼくの間には、切っても切れない”きずな”が出来上

がっていった。

 正式に、自分で泳げるようになったのは小学校四年のとき。案外遅いと思われるかもしれ

いが、茅ヶ崎はもともと荒磯で、泳ぎには適していない。プールでもあったら別だが、四

年生ごろまでは体力的にも、海で泳ぐのはムリだったようだ。

 五年生になると、ちょっと長距離が泳げるようになり、年上の友だちにつれられて、五百

ートルほど沖にある平島という岩礁まで泳いでいったりした。

 ぼくの泳ぎは、高校を卒業するころまで、見よう見まねので平泳ぎしかできなかった。そ

れが同じ年のいとこで、湘南高校の水泳部にいたヤツから、はじめてフリー・スタイルの泳

ぎを教わった。こいつは平泳ぎにくらべて、速く進むし、楽だし、第一かっこいい。その点、

平泳ぎは遅い上に、長く泳いでいると首が疲れてかなわない。さっそく、この便利な泳法に

転向して、そのころ出来たばかりの、同じ茅ヶ崎の叔父の家のプールで、夏休みの間、毎日、

三千から四千メートルぐらい泳いで練習した。

 ぼくは速く泳ぐのはニガ手で、長く泳ぐ方が得意だ。正式に先生について習ったことはな

し、水泳部に籍を置いたこともない。もちろん公式の競技に出た経験もない。泳ぎは、い

わば歩くのと同じ生活の一部で、泳げな人間などいないと思っていた。だから大学へ行って

から友だちに

「オレ、泳げないんだ」などといわれると

「なんだお前、人間か」 などと、悪態をついたものだ。

 ちなみに、ぼくは水泳の記録は、速さでは二十五メートルが14秒、百メートルが1分1

6秒、千五百メートルが24分台。距離では大学一年のとき、茅ヶ崎の遠泳大会で十五キロ

完泳した。

 潜水は長さが65メートル、深さが13メートル半、息を止めて潜っている時間が4分

秒。おもりの石を抱いてプールに沈んでストップ・ウォッチではかるのだが、3分ごろから

苦しくなり、4分ちかくで目の前がまっ暗になってくる。世界記録は12分だそうだ。

 潜水のコツはいっぱいに息を吸い込んで、そのまま吐き出さずにじっとしていること、そ

れから「もう何秒かな」などと考えると心が動揺するから、全然関係のない、たとえば「銀

座を散歩して、あの店であれを買おう」といった、たわいのないことなどを頭に浮かべると

いい。

 遠泳はからだ中にグリースをぬり、水中めがねをかけて、三人一組で泳ぐのだが、途中、

ートから砂糖をくれたり、”ピンチ・ミルク”といって、コンデンス・ミルクを飲ませて

くれる。それでもクタクタになり、最後に浜辺へ上がったときには腰が立たない。見物人の

手前、かっこ悪いが、どうがん張ってみてもヘタヘタと腰が抜けてしまう。

 実はその前に中学三年のころ、学校で山中湖へキャンプに行ったときに、友だちと五人で

相談して「山中湖横断遠泳会」を計画した。

 五人のうち、一人を救急班としてボートに乗せ、四人で泳ぎ出したが、水は冷たいし、海

とちがって身体は浮かない。おまけにモが足にからみついたりして散々だったが、結局ぼ

くが一着で、一人は途中で落伍してしまった。

クロールは楽だし、かっこいい。長距離ならお手のもの(写真上)

アクアラングをつけての潜水も得意の一つ(写真右)

 泳いでいて溺れたことは一度もないが、波のりで危うく溺れかけたことがある。

 中学三年のころ、ちょうど波乗り−といっても、いま流行のサーフィンではなく、小さな

板ッペラを腹の下に当てる純日本式波乗りに凝っていた。この波乗りに絶好なのは台風が来

二、三日前か後だが、台風の当日、海へ出かけて行った。沖へ出るのに大波が来ると、波

の下へ板をもって潜り、波が通り過ぎるのを待つのだ。何回か波をやりすごして、かなり疲

れてきたころ、ものすごい大波が通り、身体が下へ巻きこまれて、どうしても水の表面に浮

かび上がれない。とうとうがまんできず、思わずガブリと一口水を飲んだからたまらない。

ものすごくムセて、窒息寸前まで行った。もう、これでダメか、と思ったとき、偶然、下

ら押し上げる波に乗ってポッカリと表面に出られ、命びろいをした。

 二度目はモーター・ボートに凝っていたときだ。大学に入学した年の夏、自分で作った

「ブレーブマン号」という長さ四メートルぐらいのモーター・ボートで、やはり台風の中を

倉まで行った。その帰り途、波にのって茅ヶ崎の海岸に乗り上げようとしたところ、岸の

前で、みごとに船が転覆、ぼくの上に裏返しになったボートがスッポリかぶさってしまっ

た。なんのことはない、砂浜で、おわんをかぶせられたカニみたいなもんだ。

 一人の力ではどうにも起こせない。波が来ると鼻や耳の穴にドロドロの砂がとび込んでく

る。地面を掘っての脱出を試みたが、いくら掘っても砂浜だから水がわいてきてダメ。この

ま砂の上で溺れるのかと観念したとき、大きな波が来て船体が持ち上がった。すかさず板

切れを間にさしこんでスキ間をつくり、外をのぞくと運よく、イヌの散歩に来ていたおじさ

んが見えた。

「ちょっと、すいません。助けてくれませんか」

「あんた、そこでなにしてるの」

「船の下敷きになっちゃったんです」

「そりゃ、たいへんだ」

 おかげで、やっと脱出に成功した。

10年03月18日新設