音楽とぼく

ゆりかごで聞いたデキシーランド・ジャズ

 「お宅のお子さんは、こんな音楽で眠るんですか」

 ぼくがまだ赤ん坊のころ、家へ遊びに来た近所のおばさんたちは、みなさんこういって目

を丸くしたらしい。

 小さなベッドの中にいるぼくの枕もとで、大きな音をたてているのは、デキシーランド・

スタイルの「セントルイス・ブルース」か、さもなければジョー・ダニエルスのドラム・ソ

ロだったのだから。

 ぼくの家の中は、むかしから音があふれていた。

 おやじは、学生時代、食うものを節約してもレコードを買ったというクラシック・マニア。

いまも古めかしいアルバムに、バッハ、モーツァルト、ベートーベンがぎっしりつまって山

されている。

 一方のおふくろは、大のポピュラー・ファン。それもデキシーランド・ジャズ、ハワイア

ンから民謡までと、幅が広い。

 おふくろが松竹大船の女優だったころ「オーフナ・プリーズ・サンシャイン・セレナーダス」

という長ったらしい名前の楽団に所属していた。

 斉藤達雄さんがサックスでバンド・リーダー。おふくろはドラムで、現在松竹の桑野みゆ

さんのおかあさんの桑野通子さんと二人でタップ・ダンスをやる専属踊り子でもあった。

 また、ふしぎなことに民謡が大好きで、水木流日舞の名取(水木歌秀)で、三味線なども

ひく。だからぼくの子守唄は、時に「セントルイス・ブルース」であり、ドラム・ソロであ

り、時にはハワイアンや「相馬盆唄」になることもあった。

 いずれにしても、幼少時代のぼくの音楽的環境は、かなり恵まれていたといっていい。

 ぼくが生まれて初めて、はっきりと意識して音楽に興味

を持ったのは小学校二年のときだ。

 叔父(母の弟の岩倉具憲)がまだ未婚で、当時許婚だっ

た叔母といっしょに家へ遊びに来て、叔母がオルガンでバ

イエルの74番をひいた。その曲を聞いたぼくは、自分で

その曲が無性にひきたくなり、とうとう音符を見ないで、

指の動きだけで全部覚えてしまった。当時はまだピアノを

買ってもらえなかったので、小さなオルガンでひいて得意

になっていたものだ。

 ぼくの家の並びの二軒先に、有名なピアニスト、レオニ

ード・クロイツァーさんの家があった。

おふくろと二人でギターとウクレレの合奏もやる

 中学は、そのクロイツァー邸の土手の間を通って通っていた。毎日、ぼくが通りかかると、

家の中から、世にも妙なるピアノの旋律が流れてきて、思わず立ち止まり、子供心にも、す

らしいなあと感じいってしまった。

 ある日、ぼくが、いつものように土手の前を通りかかると、ちょうど庭の花の手入れをし

いたクロイツァーさんに「坊やはいつもそこで聞いているが、そんなにピアノが好きかい」

ことばをかけられた。もともと思い立つと矢もタテもたまらなくなる性分は子供のころからの

ことで、ぼくはおふくろに

「どうしてもクロイツァーさんにピアノを習いたい」と申し入れた。

 おふくろと二人で、クロイツァー邸を訪れて入門をお願いしたところ

「坊やはまだ小さすぎる。でも、いい先生を紹介してあげよう」

 とお弟子さんの、そのまたお弟子さんの、ある女性を引き合わせてくれた。

 それから中学を卒業するまでの三年間、ぼくは自宅での出げい古でピアノを習い、ハノン、

ツェルニーなどの教則本までいった。

 ぼくが音楽に関して、先生について正式に習ったのは、後にも先にも、これが唯一のもので

ある。

 高校へ上がってからは、独学でショパンの「ポロネーズ」やベー

ーベンの「ピアノ・コンチェルト第五番」ハチャトリアンの「ピ

アノ・コンチェルト第二番」などを部分的に覚えて、ひとりで楽し

んでいた。

 高校二年のとき、スキーで志賀高原の石の湯へ行ったとき、友人

がウクレレをもってきて、いまでもおぼえている「タフワフワイ」

をひいているのを聞いて、すっかりウクレレに魅せられてしまった。

 その友人にせがんで教えてもらうと、約一時間もたたないうちに、

どうにか基本をマスターしてしまった。

 翌年の冬、こんどは同じ友人がギターをもってきて、たしか「ア

イ・ドント・ハウ・トウ・エニ・モア」という曲をひいていたら、

んどはギターのトリコになってしまった。

ひまさえあれば、ぼくはギターをかきならす(東宝撮影所で)
 ひとがいじっている楽器をみると、すぐ自分もやってみたくなるというのは、ひどく自主性

がないようだが、いったん、ある楽器に打ち込むと、トコトンまで極めてみたいという”執念

”が、ぼくにはあるようだ。 しかし大学に入ってからは、音楽は”趣味”より”実益”に転化した。

 毎年夏には、友人をぼくの家に集めて、船を作ったり、魚を突きに行ったりする。

 冬にはスキー場のヒュッテに泊まりこんで、スキー部の合宿まがいのことをやる。こうした

遊びにはかなりの金がいるが、とても親からもらう小遣いだけでは、まかないきれなかった。

なんとかして”ゼニもうけ”をしよう。そういう切実な願いから大学二年のとき生まれたの

、グループの中で楽器のできるヤツを集めて結成した学生バンド「カントリー・クロップス」

だ。

 編成だけはプレスリーのバンドと同じで、エレキ・ギター、ドラム、ベ−ス、サイド・ギタ

ー2、バイオリンの合計六人。

 ぼくはサイド・ギターと専属歌手の二役を演じていた。演目はロカビリーとウェスタンの両

刀使いだ。

 ぼくらのバンドは、いわゆる”トラ”(エキストラ)の略称で呼ばれる四流バンドで、自動

事故で急にバンドが出演できなくなったとか、メンバーが病気で演奏不能になったときなど

急にお座敷がかかる”穴うめ屋”だ。

 それでも銀座の東京温泉の前の地下にある貸しダンス・ホールの専属バンドに雇われ、一週

間に二回、定期的に会社や学生たちのダンス・パーティーの伴奏をやった。そのほか各大学の

パーティーに呼ばれたり、米軍横田基地に”巡業”に行ったりして、けっこう忙しかった。

 そのころのギャラ(出演料)はワン・ステージ六千円。うっかりタクシーなどで、ちょっと

遠いところへ出張したら足代でフッ飛んじまう額だ。

 もっともひどかったのは、例の貸しホールのギャラで一晩に五、六ステージやらされて週

回で一回がなんと五百円。六人で分けると八十円だ。そのかわり、パーティーの余りもので

い放題、飲み放題。これが楽しみで、結構よろこんで出演していた。

 ギャラも安いだけに、ぼくらの演奏もひどかった。なにしろ、最初の投下資本が少ないの

、一そろい金五百円の質流れのドラム・セットや、古道具屋でみつけてきた六百円のギター

使っていた。

 演奏の途中でタイコが破れて、ドラムなしで演奏をつづけたり、ギターの弦が突然切れてし

まい

「すいません。最初からもう一度やります」

 とバンド・リーダーが頭をペコペコ下げたり。

 それでも、学生ということで、暖かい目で見てくれたし、三人ほどのファンーそれも若い

性ーもついた。

 ただし、彼女らのお目当ては、ぼくではなく、ぼくと交代で歌手をつとめた緑ちゃんこと鈴

木緑郎で、彼女たちの姿がみえると

「おい、またファンが来たから、お前うたえよ」

 と、緑ちゃんをマイクの前にムリヤリ立たせておもしろがっていた。

 ぼくらのバンドには、ユニホームはなく、みんなヨレヨレのワイシャツ姿で、楽器も全員が

たいていの楽器を扱う。ぼくもベース、ドラム、スチール・ギターとをこなす”よろずや楽

”だった。

 作曲は中学二年のとき、ピアノにむかって、なんとなく指を動かしていたら「夜空の星」が

出来上がった。これがぼくの作曲の処女作だ。

 それから思い出したころにポツリポツリと作っていった。

 どういう風にして曲ができるのか、作曲の秘密は自分にもよくわからない。ヒマにまかせて

ピアノに向かったり、車の中でギターやウクレレをかかえているとなんとなくできてしまう。

 しいて説明すれば、ぼくの曲は伴奏が先に出来上がる。

 簡単にいうとメロディーというのはいくつかの単音がつながって出来上がっている。

 その単音のひとつひとつに、よく調和する和音(コード)がある。逆にいうと、ひとつの和

音の中から、それに適したいくつかの単音が存在するわけだ。

 しかも和音には”コード進行”がきまっていて、Aの和音のつぎにBの和音をつなげると快

いメロディーになるが、AとDをつなげると不快なメロディーになるといったようなことだ。

 そこで、ぼくの作曲はコード進行の法則に従って、まず和音をいくつかつなげ、それぞれの

和音の中から、調和する単音をさがし出し、それを組み立てる。コード進行の組み合わせは非

常に数が多いが、その中から、選ぶわけだ。

 ぼくの曲には、ご存知のように、流行歌あり、ハワイアンあり、ラテン、フォークソング、

ロックからスロー・バラード、それにクラシックと、まったく多種多様なので、一定の傾向と

呼べるようなものはまったくない。

 しかし、これまた、しいていえば、いままでの日本の流行歌のコードではなくて、アメリカ

やヨーロッパのポピュラー音楽のコードを使っている。

 最近、アメリカなどのポピュラーのコードに耳がなれた若い音楽ファンには、ぼくの曲が同

族のものとして響くのだろう。

 ぼく自身も、世界中の音楽ファンに通用するコードでありたい、と常に心がけている。

 そのために、といっても、それだけのためではないが、でき得る限り広い世界を見聞きした

と思っている。

 たとえば、さまざまな外国を旅行して、人間の風俗、習慣、感情、価値観、人情などに直接

触れ、自分の感覚を国際的なものにすることは絶対必要なことだ。

 ところで、ぼくの作曲家のペンネームは弾厚作。著作権協会にも正式に登録してある。

 読んでおわかりになると思うが、弾は団伊玖磨先生の団、厚作は故山田耕筰先生の耕筰を、

それぞれ音だけ拝借した。日本の過去と現在の代表的な作曲家の姓と名前をちょうだいしたわ

で、ずいぶんと欲張ったものだ。

(上)ピアノの前で作曲に苦しむこともある
(右)岩谷時子さんは、ぼくの曲を最高に生かす詩を書いてくれる
 ついでに映画の芸名、加山雄三の由来も説明しておこう。

 べつに由来というほどのものでもないが、東宝入社がきまったとき、ぼくとおばあちゃんが

中心になり、おふくろや親せきの者が知恵を出し合って、いくつかの芸名を出した。たしか加

山がおばあちゃん、雄三はぼくの出した候補作だと思う。

 どちらも絶対に他の読み方ができないのが気にいった。まさか加山を「クワエヤマ」とか

「カサン」とはいわないだろうし、雄三も「ユウサン」とか「オゾウ」とは発音しないだろう。

それからむつかしい字が、ひとつもはいっていないのがいい。

 ぼくが東宝に入社した昭和三十五年の秋に、東宝撮影所で全国の東宝系上映館の館主大会が

ひらかれ、その席で、ぼくはニュー・フェースのひとりとして紹介され、ステージで歌をうた

った。

 その時、撮影所長をしておられた柴山氏が、まことに、うまいコジツケの紹介をしてくれた。

「新人の加山雄三君をご紹介します。彼の名前は加賀百万石の加、富士山の山、英雄の雄、小

林一三(東宝の創始者)の三であります」

 実をいうと、ぼくには池端直亮、加山雄三、弾厚作のほかに、もうひとつ名前がある。

 清貴(きよたか)−これが、ぼくが私生活で一番数多く呼ばれる名前なのだ。

 まだ小学生のころ、直亮という字はなかなかむつかしくて、小さい友だちはもちろん、おと

なたちも、正しく”なおあき”と読んでくれる人は少なかった。”ちょくりょう””なおりょ

う”などは、まだ素直な方で、一番多いのは”なおすけ”と、苦心の末にやっと読んでくれた

ような読み方をする人が多い。

「”なおすけ”なんて、なんだか”四谷怪談”に出てくる直助権兵衛みたいで、いやあねえ」

と、おふくろが嘆いているのを聞いた、おばあちゃんが

「それじゃ、あたしが、いい名前をつけてあげよう」

 と、つけてくれたのが、この清貴。

 戸籍にもなんにも関係のない、ただの”通称”だが、ぼくは、小学生のころから、この名前

が一番なじみ深い。

 たぶん、おばあちゃんは、清らかで、高貴な精神の持ち主に育ってほしいと願ったのかもし

れない。

 ついでに、ぼくの家族の間の呼び名をご紹介すると、両親はぼくに、絶対パパとかママとか

呼ばせなかった。おとうさん、おかあさんである。

 逆に、両親はぼくのことを”おにいちゃん”または”坊や”おばあちゃんは”坊や”と呼ん

でいた。

 大学生になると、さすがに”坊や”はまずいので、直亮とか清貴。おふくろは第三者には

「うちの加山」という。ぼくの方も、おやじ、おふくろ、と、ややぞんざいになった。

 ぼくは、以前は作詞も作曲もいっしょにやったが、最近は、よき先輩であり、パートナーで

もある岩谷時子さんに歌詞の方はまかせている。

 つぎつぎに二人のコンビで、新しいレコードを発表しているので、おたがいに、しょっちゅ

うあって、打ち合わせしているだろうと思われるだろうが、実をいうと、ほとんど会ってはい

ない。ぼくが作曲したメロディーを岩谷さんのもとへ届けると同時に、電話で

「こんどの曲は、タヒチの海岸に立って夕陽をじっと眺めているような感じです」

と、漠然とわけがわかったような、わからないようなことを説明する。

「はい、わかりました」

 こう簡単にこたえる岩谷さんは、しばらくすると歌詞をつけてこられる。うたってみると、

まったく、ぼくの曲にピッタリで、文句のつけようもない。なかに、ほんの部分的に手直しし

てもらったものもあったが、そのほとんどが、そのままぼくの気に入ってしまう。

 音楽には、ことばでは説明できない、心と心との通じ合いみたいなものがあるようだ。

この項終わり

08年11月19日新設