けんかとぼく

”お別荘っ子”のガキ大将

 茅ヶ崎には、地元の人たちの家のほかに、東京から夏場だけ人が遊びに来る別荘がある。

 地元の人たちは、その別荘にいる子供を”お別荘っ子”といって、土地っ子と区別してい

た。

 ぼくは、生まれて九ヶ月目から茅ヶ崎に住んでいるんだし、両親も、夏場だけ遊びに来る

けじゃないから、レッキとした茅ヶ崎の住人である。

 しかし、東京生まれであること、親たちが映画俳優であることなどから、ぼくを”お別荘

子”として遇したが、まだヨチヨチ歩きもできないころから、砂浜と太陽の中で育っただ

に、中身は土地っ子とちっとも変わらない。色も真っ黒だし、茅ヶ崎弁も完全にマスター

していた。

 ”お別荘っ子”のくせにちっともお別荘っ子らしくないことが、土地っ子のカンにひどく

さわったらしい。小学校から中学までを通じて、ぼくは”お別荘っ子”の旗頭として、土地

っ子のボスと鋭く対立していた。

 ケンカのデビューは、小学校二年のころ。ぼくの家の近くにポンプ屋のタケちゃんという

がいた。タケちゃんはもちろん土地っ子だ。この子とぼくがある日、つまらないことでい

い合いした。

「お前とオレと、どっちがガマン強いか」

「オレだ」

「うそつけ。オレの方だ」

「じゃ、お前、石で頭なぐられても泣かねえか」

「泣かねえ」

「よ〜し、なぐってやるべえ」

「やってみろ」

硬派のボクにぴったりの軍人役(「戦場に流れる歌」の一場面)

 頭の半分もある大きな石をつかんで、相手の頭をポカッとやったのはぼくで、なぐられて

ーワー泣き出したのはタケちゃんだった。

 この傷は相当ひどく、頭の骨がくだけて、そこのところだけポコンとへこんでしまったほ

どだ。

血だらけになって家へ帰ったタケちゃんをみて、タケちゃんの父親は、カンカンになって、

家へ怒鳴りこんで来た。

 おふくろは、ただただあやまるばかりだ。

ところで、タケちゃんは小さいとき、兄弟が多いため、母親の乳が少なくて、しょっちゅ

腹をすかして泣いていたのを、見かねたうちのおふくろが、ぼく一人で吸いきれないオッパ

イを、タケちゃんに吸わせてやったことがある。いわば、ぼくとタケちゃんは乳兄弟の間柄

であり、タケちゃんの両親は、うちのおふくろに恩義を感じていたわけだ。そんな関係で、

この傷害事件も、親同士の間の話し合いで、案外簡単に決着がついたらしい。

 小学校から中学にかけて”お別荘組”のガキ大将であるぼくは、その立場上、土地っ子と

くケンカした。

 あるときはなぐった奴の兄貴が二学年上にいて、在校中、さんざん追い回されたので、そ

腹いせに、中学を卒業してから、友だちを集めて、その兄貴をふくろだたきにしたことも

る。

 中学校の修学旅行で日光に行ったときは、ぼくの学校と他の学校とが団体でケンカになり、

大きな石ころがブンブン飛び交い、旅館のガラスはこわれるなど、たいへんなさわぎになっ

てしまった。

 集団同士のケンカというのは、おもしろいもので、一方がちょっとでも優勢になると全員

勇敢になってしまい、相手をどんどん押しまくる。ところが、またちょっとしたきっかけ

で、反対側が優勢になると、いわゆる”浮き足立つ”というのか、ただ逃げることばかり考

えてしまう。周囲の状況に敏感に反応する、一種の群集心理なのだろう。

 ぼくは、このケンカの最初に

「やっちまえ」

とみんなをけしかけた張本人で、味方が優勢なときは先頭に立ち、旗色が悪くなるとやはり

先頭に立って逃げるという、まことにズルいガキ大将であった。。

もともとケンカが強いぼくが不精ヒゲを生やすと、一段と強そう? 日ごろの鍛錬がものいった?「姿三四郎」
 高校に進んでみて、まわりの学生たちが、あんまりおとなしいおぼっちゃんばかりなのに

びっくりした。これではケンカにならないので、もっぱら学校以外のところでやることに

た。

 横浜から茅ヶ崎までの電車の中で、よく会う高校生がいた。いつも両方がにらみ合ってい

る。いわゆる”ガンをつけて”いるのである。

 ある日、とうとうむこうから声をかけてきた。

「おい、おれにガンつけやがって・・・」

「そうですか。よく会うとは思ってましたが・・・」

 ぼくは、ちょっとコンタンがあったので、わざとおとなしく下手に出た。

 電車は空いていたので、車内の通路での対決となった。

 ぼくは相手を電車の進行方向に背中をむけて立つようにしむけた。

 当然、ぼくは進行方向にむいて立っていた・

 電車が藤沢の駅構内に入りかけ、ブレーキがかかりはじめたな、というタイミングに合わ

せて、いきなり力いっぱい相手をなぐった。

 電車のブレーキと、ぼくのパンチ力が合わさって、相手の学生は、隣りの車輌まで、とん

でいってしまった。ぼくはゆうゆうと電車を降り、相手が立ち上がったころにはドアがピタ

リとしまっていた。

 しかしケンカは、そういつでも、うまくいくとはかぎらない。

 やはり高校生のころ、二年下級の友人と藤沢で映画かなにか見て、駅前をぶらぶら歩いて

ると、あとで知ったことだが、連れの友人が六人組の他校の生徒にガンをつけたといって、

んねんをつけられていた。ちょっと離れて歩いていたぼくが気づかないうちに、その友人

要領よく逃げてしまった。

 六人組は連れとわかったぼくのまわりを、いきなり取り囲むと、ぼくをふくろだたきにし

た。不意をつかれたため、ぼくはまったく一方的になぐられ、口の中は切る、目のまわりは

レ上がるで、恥ずかしくて家に帰りたくなかったほどだ。

 一番すごいケンカは、やはり高校二年ごろ、七月十四日の茅ヶ崎の祭りの日だった。友だ

の運転する車に二人で乗って茅ヶ崎を走っていたら、酒に酔った若い漁師が二人、フラリ

フラリと道のまん中を歩いている。

 相手が酒に酔っているとわかっていたので、刺激しないようにノロノロと、うしろについ

走っていたが、いつまでたっても道のわきによけようとしない。たまりかねてクラクショ

ンをほんのちょっと鳴らしたのがカンにさわったらしく、ふりむきざま「この野朗」と車の

先を足でけとばした。

 がまんを重ねていただけにカーッと頭に来たぼくは、いきなり車から降りると、むこうは、

とたんに逃げ出し、横丁を曲がった。それにつられて、曲がってみると、おどろいた。威勢

いい漁師の仲間が十五、六人、逃げてくる二人を迎えて

「なんだ、なんだ」

 とこっちを見ているではないか。

 味方はわずか二人。とうてい勝ち目がないとわかったので、すぐ車に引き返し、一目散に

へ帰った。

 しかし、家に帰ってから、どう考えても腹が立っておさまりがつかない。家にいたおやじ

の付き人や、ケンカ仲間を四人集め、こん棒などを持って、もう一度引き返していった。

 こっちが得物をもっているのを見た相手は氷を切る大きなノコギリを持ち出したりして、

ヶ崎の街で大乱闘。このときは、見ていた人が警察に知らせたのでパトカーがとんできて、

ぐに全員捕まってしまった。

 ぼくは未成年だったので叱られただけで済んだが、ほかの仲間は始末書までとられ、さん

んお説教をちょうだいした。

 大学に入ってからは、さすがに少々ひかえ目にしていたが、ぼくは最初から、いわゆる”

派”で通したので、友だちも、ボクシング部、レスリング部、ラクビー部、柔道部、空手

部などという、ごっつい奴ばかり。授業の合間に、近くのすし屋に集まって、腕相撲をした

り、曲げた腕に重いものをぶら下げて「何分間耐えられるか」などという、下らない遊びを

していた。

 早慶戦を見物した帰り、神宮球場の通りで、十人くらいの土工と、肩がふれたとかふれな

という、つまらないことでケンカになったが、そのとき、いっしょに歩いていたのは空手

部の友人二人だった。ぼくは、立ち回りを彼ら二人にまかせて、そばの街路樹のかげにかく

れて見物、形勢が有利に展開したころになって、フラフラになった相手を、うしろからポカ

リとやり、あとは友人と一目散に逃げてしまった。

 白状すると、東宝に入社してからも、実は一度ケンカしている。

 「椿三十郎」に出ていたころだから、東宝入りして二年目の秋、共演の太刀川寛さんと二

で、車に乗って数寄屋橋の裏通りを走っていたら、急に横丁からトラックが出て来て、ぼ

くらの車を道路の端に押し付けたかっこうになった。まっすぐ進めば、そのトラックの鼻先

に、ぼくの車の横腹がこすれることはわかっていたが、相手のトラックが後退しようとしな

いので、急いでいたこともあり、こっちの車もオンボロだったから、あえて強行突破してし

まった。

 自分の車の先端をこすられたトラックの運ちゃんは、車から降りてきて

「車をぶつけておいて逃げる気か」

「交番へ行ったら、君の方が悪いことは、すぐわかる。こっちは気の毒だからだまって見す

したのだ。ありがたく思いたまえ」

「この野朗、おりろ」

「おりてどうするの?」

「なんでもいいから車から降りろ」

 ぼくはだまって車を降りると、機先を制して、やにわに、その運ちゃんを七、八回なぐっ

しまった。

 ぼくはそのまま太刀川さんと別れて銀座の事務所に行った。ところが、しばらくして太刀

さんから電話がかかり

「いま数寄屋橋の交番にいるんだが、さっきのトラックの運ちゃんをなぐった犯人として捕

ちゃったんだ。なんとか助けてくれよ」という。

 ケンカの現場を見ていた人が、すぐに110番へ電話して

「東宝俳優が二人で暴行を働いている」ということになってしまったらしい。結局、車の真

相を説明し、相手の運ちゃんとも話しがついたので、何事もなかったが、もう二度と町中で

の立ち回りはやらないと心に誓っている。

 ぼくはめったに怒らないのだが、一たん怒ると、とことんまで怒らないと気がすまない。

れはウシ年の特徴だろうと思っている。

 いままでぼくのやってきたケンカは、スポーツみたいなもので、一種のウサ晴らしみたい

なものだろう。見たところ、あまり強そうに見えないので、ケンカを吹っかけられやすいこ

と多少運動神経があるので、やれば、ふつうの人より敏しょうに動き回れる自信があるので

、どうしてもケンカのチャンスは多かったようである。

 ケンカは本当に自分が怒ってしまったら負けだ。ぼくも本気で怒ってしまうと血が頭にカ

カとのぼり、目の先がかすんできて、立ち回りどころではない。ケンカもスポーツと同じ

で、まず勝つためには精神と肉体とをリラックスさせること。固くなってしまっては”実力

”の三分の一も出やしない。それから、これもスポーツと同じだが、腰がすわっていないと

負ける。これは人のケンカを見ていてわかったことだが、手ばかり力の入ったヤツはダメだ

 しかし、勝ったにしろ負けたにしろ、ケンカほど後味の悪いものはない。負けたら負け

たでみじめだし、勝っても、いつ仕返しされるかと不安でかなわない。

この項終わり

08年10月02日新設