| 「ルポ 青年期の発達障害とどう向きあうか」―「目次」と「はじめに」(7・28更新) 〈目次〉 はじめに 特別支援教育はなぜ始まったのか 第T部 特別支援教育の現状 第一章 「地域」で行う大学生の発達障害支援 ―― ある国立大学附属養護学校支援部の試みから 第二章 「学級崩壊」と特別支援教育 ―― 小学校の崩壊事例を追いながら 第三章 特別支援教育は「高等学校中退」の救済になるか ―― 千葉県立船橋法典高等学校の取り組みに触れながら 第U部 発達障害と特別支援教育 第四章 発達障害をどう考えるか ―― 育ちのおくれはなぜ起こるのか 第五章 特殊教育から特別支援教育へ ―― 戦後六〇年、何が変わったのか 第V部 青年期の発達障害とその支援 第六章 「働きたい若者」がなぜ就業できないのか ―― 佐世保工業高等専門学校の就労支援 第七章 キャンパスライフでの「ヘルプ!」を支える ―― 宮城教育大学での取り組みから 第八章 戦略的相談システムのつくりかた ―― 富山大学のトータルコミュニケーション相談室 第W部 社会的逸脱行動と「生き直し」の支援 第九章「性的な逸脱行動」と自尊感情の育て直し ―― ある養護学校高等部の取り組みから 第十章 「生き直し」のための生活支援 ―― 知的障害者更生施設「かりいほ」の取り組み おわりに ―― 被災地にて はじめに 「特別支援教育」はなぜ始まったのか 本書は、「発達障害」や「特別支援教育」について書かれている。あるいは発達障害をもつ子どもや青年に、どのような支援がなされているか、筆者の目に先駆的な取り組みだと思われた例が紹介されている。 小・中学校を中心とした「特別支援教育」が始まったのは、二〇〇七年四月からであり、これは教育全体において大きな転換点となった。詳細は本文に譲るとして、ここでは次のことだけに触れておきたいと思う。 これまでの養護学校は特別支援学校と名称が改められ、地域の特別支援教育機関として、センター的役割を担うよう定められた。「特別支援教育」という名称は浸透しているようにも感じられるが、しかしそれがどんなものであり、従来の「特殊教育」とどこがどう異なっているのか。なぜ改正しなければならなかったのか、といった点については、一般的にはほとんど知られていないのではないかと思う。 文部科学省のホームページを見ると、二〇〇一(平成一三)年一〇月に、「特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議」が設置され、〇三年には、最終報告が次のようにまとめられた。 1 障害のある幼児児童生徒一人ひとりについて個別の教育支援計画を作成すること。 2 盲学校・聾(ろう)学校・養護学校はもとより小学校・中学校に特別支援教育コーディネーター(仮称)を置くこと。 3 (行政関係の部局について―略) 4 地域における障害のある子どもの教育のセンター的な役割を果たす学校としての盲学校・聾(ろう)学校・養護学校を特別支援学校(仮称)に転換すること。 5 小学校・中学校における特殊学級や通級の指導の生徒を、通常の学級に在籍した上で必要な時間のみ「特別支援教室(仮称)」の場で特別の指導を受けることを可能とする制度に一本化すること。 おおむねこの方向で特別支援教育は制度化され、実施されていくことになる。 ところで、筆者が養護学校教員を辞したのは二〇〇一年三月。遅まきながら、この少し前ごろから「アスペルガー症候群」「ADHD(注意欠陥多動性障害)」「学習障害(LD)」といった名称が、文献資料などに目につくようになった。ちなみに調べてみたところ、筆者の所属する学校には、上記の診断名をもつ児童・生徒は在籍していなかった。 退職後、小学校教員で開かれていた勉強会に出席する機会があった。特殊学級の担任が中心となって現状の報告がされ、臨床心理士や養護学校教員がスーパーバイズするという、二,三〇人ほどの会だったが、そこではじめて深刻な現状に触れることになった。児童精神科医・滝川一廣氏へインタビューをした『「こころ」はだれが壊すのか』(洋泉社・新書y。二〇〇三年)において、その様子を報告しているが、筆者たちの主意は、「普通学級」にいる発達障害の子どもたちは、十分に教育の機会が保障されているか、という訴えだった。 こうした時期に、文部科学省は、特別支援教育に制度を移行するための準備をすでに進めていたことになる。いわば教育の機会を奪われかねない児童たちの存在が、やっと教育関係者の間でも周知されてきたのであり、それが新制度導入の大きな理由である。 本書の構成について 以下、簡単に本書の構成について述べておきたいと思う。 第一章から第三章までは、小学校から大学までの、「特別支援教育」とその周辺に発生するテーマが拾いこまれている。 第四章と第五章は、発達障害や特別支援教育について筆者自身がどう考えているか、何人かの方の力を借りながらまとめている。 第六章から第八章までは、高等学校教育以降の、先進的に学生支援にあたってきた高等工業専門学校と大学の取り組みがルポルタージュされている。 第九章、第十章は本書では異色の組み合わせとお感じになるかもしれないが、社会的逸脱行動を余儀なくされた青年の実情と、彼に対する支援の何であるかについて、現場からの取り組みが報告されている。 「発達障害と刑事事件」というフィールドは、筆者にとっては主戦場ともいうべきテーマである。特別支援教育に関心を持っておられる多くの方がた、あるいは教育現場の方がたに、筆者がこのテーマをどう考え、どんなふうにして社会に投げかけようとしているのか、少しでも知っていただきたいと考えてこのような構成とした。 とはいえ、「発達障害だから、反社会的事件の加害者になる」、などと述べたいのではない。また「発達障害だから、その罪をともかく免じてほしい」と訴えているのではない。 事件が生起するときには、重大事件であればあるほど、さまざまな要因が複雑に絡み合っている。絡み合いながら、あるときに一つのきっかけとともに、起こるべくして起きた必然と、何か一つでも欠けていれば事件とはならなかっただろうという偶然とが、まるで区別のつかないあざなえる縄の如く∴齠_に集中し、事件として生起していくのである。本書では、事件化するプロセスを追いかけるというよりも、事後の支援をどう組織するか、支援者はどう臨めばよいのか、といった点に力点が置かれて記述されている。 以上のように、本書の特色は発達障害をめぐる教育的支援と、福祉的・社会的支援とをつなぐように書かれている点にあるのだが、最初に、いくつかのことをお断りしておきたい。 まずは発達障害の特徴を知るところから いっとき「モンスターペアレンツ」なる言葉がマスメディアを賑わせた。そう呼ばれる人びとのなかに、このタイプの人が少なくないのではないか、と言われることがあった。あるいは数年前の、東京都内のC大学の教員刺殺事件の加害者も、このケースではないかと危惧する声を、複数耳にしたし、元厚生官僚を刺殺した加害者にも。 ありえないことではない、と筆者にも思えた。元々は決して攻撃的な人たちではない。しかし、ちょっとした行き違いが激しい思い込みを生み、そのことによって被害感情を強くさせてしまう。そしてそれをうまく発散し、解決することができず、転じて強い攻撃感情を向けていくことは、このタイプの人たちにあってときに見られる(当然ながら、発達障害の人々ではなくとも、こうした心理機制は存在する)。 しかしまたこんなふうにして、あれも思い当たる、これも思い当たる、と挙げていけば、それらしい事件や犯罪はいくらでも数えあげられる。その結果、「何でもかんでも発達障害。それで事が済むのか」という批判を頂戴することになる。 筆者の意図からすればそれは誤解である。「とにかく診断をつけよ」と言いたいのではないし、無用のレッテル貼り(ラベリング)は差別や排除の原因となりかねず、発達障害=犯罪者予備軍とか、発達障害=トラブルメーカーといった、短絡的誤解も招きやすい。 「障害特性」、つまりは、彼らがどんな特徴を持っているか、それがどのような事情で生じているのか、できるだけ多くの人に知ってもらうことが本書の大きなねらいである。なぜ知ることが大事かと言えば、無益な誤解や、ボタンの掛け違いによる対立、そして排斥を減じることにつながるからである。 くり返すが、筆者の意図はレッテル貼りが目的ではないし、すべてを「障害」のせいにして一件落着としたいのでもないこと。彼らの特徴を理解しておくことは、お互いのミスマッチ≠減らすための第一歩であり、ある場面においてなぜそんなことを言ったりやったりするのか、その心理的特性を理解しておくことは、お互いのストレスや緊張を緩和させるだろう。そうした相互理解の一助となることが、本書の最大の目的である。 その上で、発達障害支援という課題のなかでも、思春期以降の、青年期と呼ばれている時期に特有の特徴やら、課題やら難しさやらが、いくらかなりとも浮かび上がってくることを、次の主題としている。したがって「就労・労働」といった「社会参加」に関する課題も取り扱っており、それが本書のもうひとつの特色であると言っていいだろう。 文中、「発達障害」ではなく、「発達障害的傾向」といった曖昧で多義性をこめた語彙が使われているカ所がある。できるだけ文脈を説明しながら使用するように心がけたが、基本的には、発達障害支援がもつ社会的意義や、「青年期における社会性」といった課題において使用されていることをご了解いただきたいと思う。 |