品切れ号復刻シリーズ

小浜逸郎氏との対話
 (vs.佐藤幹夫)


  「オウム」という問いその1(樹が陣営14号・1996・3掲載)
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オウム事件の全体的感想から

佐藤 今回は「オウム真理教」についてお話をうかがえれば、と思います。それで進め方ですが、まず全体的な展望や印象についてお話いただいて、そのあと宗教と信仰について、オカルティックな現象や超能力について、麻原彰晃という人物についてまで第一部とし、そして特に当事者である小浜さんと吉本隆明さんとの応酬を中心にしてオウムをめぐる言説について第二部として、という順番で進められればと大枠を考えています。

 またこの12月に小浜さんは『オウムと全共闘』(草思社)というタイトルの本の出版を予定されています。ぼくは既にゲラの段階で読ませていただいているので、そこで得た感想なども交え、特に山崎哲さんの言説に触れた部分の末尾、「たいせつなのは、むしろ過度の倫理や理想を暴発させることよりも、退屈と豊かさにたえる知恵と論理を、みんなでじっくりと編み直すことなのだ」と述べられているところについて、もう少し具体的に踏み込んでいくことができればと思います。

 それでは最初に、この事件の何がもっとも肝心なところだと考えておられるかを中心に全体的な印象からお話いただければと思います。よろしくお願いします。 

小浜 「地下鉄サリン事件」が起こったのは95年の3月20日ですね。ぼくはこの事件が起きるまで、新・新宗教と呼ばれるものがもっている、特に若者たちの心をとらえている力の秘密のようなものについて、あまり真面目に考えていなかったんですね。要するにびっくりしたわけです。最初は普通の視聴者と同じようにこれはエライ事件だなという感じだったのです。それ以前にも統一教会や幸福の科学が色々トラブルを引き起こしたり、マスコミで話題になったりしていました。そこからの連続性もあるにはあるんでしょうが、新・新宗教のなかに漠然とオウム真理教も含めて何となくひとくくりに考えていましたから、これほど突出しているとは思ってもみませんでした。しかしこんなにすごいところまでいっているのかというわけで、とにかくびっくりしましたね。

 それで一番考えたことは、特に理系を中心とした優秀な能力をもった若者たちが入信して、結果的に大量殺人を担っていくという事実ですね、どうしてそうなってしまったのか。既成宗教を中心に考えていたこれまでの宗教の存立基盤とは違うということ。これは新・新宗教一般に言えることなのでしょうが、それは戦後五十年の後半の二十五年の社会の変化というものの中でその必然性を探っていかないと見えてこないのではないかという気がしました。

 だから本には既に書いたことですが、二つの問いをたてて、一つはなぜ優秀といわれる若者がかくも大量に、あのようないかがわしい宗教にイカレていくのかという事実への驚きですね。それに対して答えを見付けたいということ。もう一つは、戦後の日本は戦争に巻き込まれずに平和と豊かさを積み上げてやってきたけれども、その平和と豊かさと言われていることのなかに、ああいう破滅的なものをもたらす反社会的宗教集団を生み出す土壌が、いかにして作られたのかということですね。なぜこの日本で、こういうことがあり得たのかということを考えていかなくてはいけないと思いました。佐藤さんの方はいかがですか。

佐藤 ぼくは三点ほどありまして、一つはこの事件を引き起こしたのが宗教団体であるということ、その内実はさておいてもとにかく宗教団体であるということが問題の解明を複雑にしているということですね。言ってしまえば、宗教だからこそここまでやるんだという感じがあるのです。逆に、ここまでやってしまう宗教というものは、いったい何なのかという問い直しをしたいというモチーフをつよく持たされたということです。

 二つめは「サリン」を使用したということについてです。『樹が陣営』前号のぼくのノートでも引用したのですが、石川好が「原爆とサリン事件から見た世界」というエッセイを書いています。原爆は国家解体のために使用されたが、サリンはナチスドイツが地上から一つの民族を根絶するために開発したもので、そのサリンが同じ国民に向けてまかれたという主旨のものです。これはたいへんすぐれた見解だという印象を持ちました。つまりいたずらとか騒がせようとかではなく、はっきりした目的をもってこのサリンを使用したということに象徴されている彼らの持つ無知の極みといいますか愚劣さの極みといいますか。人間であるならば誰でも、ある状況に長くおかれれば、何事もなし得る存在なんだとは思いつつも、この由来に少しでも迫ってみたいということですね。

 小浜さんも『オウムと全共闘』のなかでも触れておられますが、これまでこつこつと積み上げてきた人間的な営為に対して一挙に足払いを食わせられたような、何ともいわく言いがたいものをぼくも感じました。小浜さんは「歴史を断ち切ろうとする無意識的な意志」をそこに見ています。ぼくは『樹が陣営』の前号で、異なる価値観を持つ集団が仕掛けてきた戦争なのだと書いたのですが、たぶんここは接続するような気がします。

 つまり彼らにとって、どれだけ麻原の課す修行に耐えられるか、そのことによってどれだけ精神のステージが高まり、またどれだけの超能力が得られたのかということが、人間を推し量る唯一の目安になっている。従ってそれ以外の者は下道と呼ばれ、ポアされるべき存在だ、ということになります。そして実際に彼らはそれをやってしまった。このことに小浜さんは憤りや悔しさとともに歴史の断絶を感じられたのであり、ぼくは戦争を仕掛けてきたと感じたのだと思います。

 ぼくは超能力とか彼らのいう「超人願望」「人間の可能性」などというものに、無反省に面白がる性向があるのですが、冗談半分にいっているうちはまだしも、そのことを真剣に信じ、現実としてこうした事態がもたらされたことを目のあたりにすると、やはりきちんと相対化し、言葉を与えなければいけないと感じています。

 もう一点は、小浜さんも先ほど触れておられましたが、なぜこうした宗教を必要とした若者がいたのかということです。信者は数としては一万人程度とはいえ、その裾野にはオウムの予備軍がかなりの数で存在していると推測されます。きょうの時点で、麻原の公判の延期をめぐってごたごたしたり、弁護人をどうするかとか、教団に解散命令が出されたりしています。しかしこのごたごたが終わり、信者たちに刑が下されたとしても、3年もしくは5年もすると服役してきます。そうするとまた第二次オウム真理教はよみがえるんじゃないか、ちっとも解決にはならないんじゃないかという気がして仕方がないのです。現在残っている信者たちの信仰も、決して揺らいでいないですしね。

小浜 そうですね、揺らがないとぼくも思いますね。それから組織的機能的に他のかたちを模索せざるをえないだろうということはあるでしょうが、内面の部分は個人個人の契機として、戦後の後半期の社会がもっている必然からくるものがあるから、それは揺らがないだろうなという気がします。オウム教団の統一性が崩れたとしても、オウムの信徒たちがかかわるかどうかは別にしても、オウムで出現した奇怪さやグロテスクなものというのは、ゲリラ的であれ、何らかのかたちでまたどこかに集中するだろうなという感じはあります。

 それから今の佐藤さんのお話の、宗教だからこそということはとてもよく解ります。ただしそれを単に既成宗教からの縦のつながりだけで解釈すると無理があるということですね。あとでこの点は出ると思いますが、オウム真理教は仏教の流れを引いているということで、仏教の教義のなかには元々、人の生死をどうでもよい軽いものにみなしてしまう思想があるんだから、そこからは当然無差別殺人を根拠づける考え方が引き出せるはずで、そこに焦点を合わせずに犯罪的側面ばかり問題にする見方はみんな駄目なんだみたいなことを言う人がいますが、それもどうかと思います。

 佐藤さんの言われる「宗教だからこそ」という言い回しの中には、たぶん一人ひとりの〈信〉が、とても孤独でばらばらなものであるがゆえに、それが共同化されたように見えても、かえって各自の意識のなかでは、自分の〈信〉と、共同組織として何であるかということとのつながり具合が、地つづききのプロセスとしては展望できなかったということも含まれるような気がするんです。それがあの宗教の現代的な特徴の一つでもあると思う。そうすると宗教であるということの特殊性と、日本の高度消費社会の現実が人々のなかに生み出したものと切り結んだところで、初めてああいうものが出てきたという考え方をしなければいけないという気がしますね。

佐藤 はい、そうですね。おっしゃるとおりだと思います。


全共闘運動とオウム―戦後五十年を分けるもの

小浜 それで本に書いたことと重複してしまうんだけれど、ぼくは戦後五十年を二つに分けていて、戦後二十五年の終わりに全共闘運動というものが出てきた。そこにはぼくも自己体験としてかかわった世代なので、複雑な思い入れがあるわけです。我々にとっての全共闘体験が、今の世代にとってのオウム体験として重なり合うと同時に、戦後の前半期の一種の総括としての全共闘と、後半期の日本社会の新しい曲面の総括としてのオウム、というように時代の違いを分けて考えることができるような気がするのです。

 共通点から言いますと、若者が現実にあきたらずそこから超越していこうという志向を持つということは、古今東西共通しています。全共闘の場合にはそれに先立つ敗戦後の二十数年間が、あらゆる意味で社会のなかに落差や欧米からの立ち遅れや敗戦の痛手という、埋めていかなくてはならない部分があって、そこに自分たちの理想を投影させていく情熱の根拠なり意味なりがあったと思うのです。つまり上昇期であった。

 いろいろな社会統計を見ますとはっきりしていることで、一番顕著なのは都市社会化ということがものすごいスピードでおこなわれた。二十年間で二十数パーセントの割合で都市人口が上昇している。しかしちょうど全共闘運動が終わるころからがくっとカーブが鈍って、七○パーセントを超えてから、九十年までの二十年間でわずか6パーセントくらいしかあがっていない。それに付随して、いろいろなことをグラフに書くと、戦後の前期ではこう上がっているものが、七十年から七五年にかけてカーブががくんと弛むとか下がるとか、そういう指標がたくさんあるわけです。

 戦後五十年を振り返るということがいろいろな場所で言われているのですが、今の時代を生きる人たちにリアリティを持つのは、高度経済成長以降の後半の戦後社会の実態がいったい何であったのかということをきちんとつかむ。そしてそれは前半期と何が違っているのかということが大事だと思うんですね。その視野の中でのオウムという視点で見る必要があるのではないか。

 全共闘の場合には自分たちの超越的な理想が、社会というものをキーポイントとして、社会変革の理想というところに自分をこめていくということが基本だった。それも甘っちょろい幻想だといえば幻想に過ぎないんだけれども、曲がりなりにも街に出て、物にかかわって物と物との関係を変えていくというような理屈がついていたところがあるわけです。

 それからもう一つは、そこでみんなが感じている共通の社会矛盾を、共同で解決していこうという一種の理想のベクトルが統合される要素があった。それは幻想ではあったんだけれども、後半の戦後社会においてはそういうものを共同性の幻想として、青年が自分たちの理想形態として生きることの目標と結びつけて、そこで一つの共同性を作って社会に問うていくようなパターンは成り立たなくなった時代だということを一つの背景として押さえておきたいわけです。

佐藤 いまの戦後五十年の後半の二十五年の変化、というお話で、一つ自己史的にといいますか、何かその変化を象徴するかなと思える体験があるんですね。ぼくは連合赤軍の事件があった年に、七二年ですか、その年に学生としての生活を始めています。既に全共闘運動というものは終わっていて、限りなく泥沼のような内ゲバが始まった時代でした。そこでは無意味な「死」が繰り返されていきます。笠井潔さんが二年ほど前に書かれたエッセイを今回読み返してみたのですが、まさにそこで指摘されているグロテスクな「死」が、ぼくらの前に政治運動の退廃した光景として残されていました。

 そんな中でぼくは文芸のサークルに所属していたのですが、酒を飲んでは議論というやつをサークルの仲間とするわけですね。そこでは革命という言葉もときどき出てくるのですが、あるとき、その言葉が社会変革とか政治的な意味合いでのそれではなく、人間という存在自体が変わること、多分にそうした意味合いで使われていることに気が付いたのです。存在の革命と言ったのは埴谷雄高でしたか。でもむしろ埴谷的であるよりも、きわめて恣意的ではありますが、そこに宗教的なヴィジョのようなものが投影されていて、革命という言葉でもって、『聖書』のマタイ伝なんかを話しているんです。内容は与太話に毛のはえた程度の拙いものであったでしょうが、戦後が後半期に移っていくちょうどその変わり始めた頃の出来事として、一般化はできないにしろ、あるいは関連があるかもしれないなと、お聞きしながら感じました。

小浜 それは社会というものに対して、最初はちゃんと両手を出していたと思っていたのが、連合赤軍の事件があったりして、段々ちぢこまって出さなくなっていく、観念化していくというプロセスだったのかも知れませんね。このあとに全共闘のような社会変革の運動によって超越性を解決していこうとする志向が、頭打ちになってだめだと感知されるようになってから、中沢新一さんが出てきたし、サブカルチャーになったし、宗教ブームになるというように移っていく。社会を変えるのではなく、自分の身体を革命するという志向になっていくわけですね。とても孤独な匂いがします。「連帯」なんていうスローガンはかっこうのうえだけでも出せなくなっちゃったんじゃないでしょうか。


身体について

佐藤 身体がオウムの解読のキーワードになるということを小浜さんは書かれていましたし、芹沢俊介さんや山崎哲さんも強調されていましたね。

小浜 あの頃から宗教ブームになって、その新・新宗教ブームというのが、それまでの宗教が基盤にしていた「貧・病・争」とか、現世での救われない苦悩とかいった深刻な問題に対して解答を与えてくれるというものとは違ってきたなという感じがありました。このことと並行してオカルトや超能力のブームがあって、ユリ・ゲラーが来日したりして、スプーン曲げなんかがはやったりしましたよね(笑)。

 これが何かというと、自分の身体に重なり合う能力を拡張するとか、あるいは直接的な技術、自分が何かを使って自分自身とか周りの世界を直接変えることができるというようなことですね。つまり人間の超越性が、自分の身体及びその周辺に逆流していくということ、そのことによって世界につながるんだという幻想のあり方ですね。そういう傾向があちこちに出てきました。また人格改造講座やあの手のものがすべてそうですが、ある修練を課すことによって自分を変えていき、人間関係のトラブルを解消していこうということが流行になりましたよね。

 これは昔でしたら外面と内面という分け方があって、肉体が美しくないとか金銭的にも豊かではないといったマイナスの条件を抱えていて、そういう不遇の意識をどう乗り超えるかというときに、そうした外的なことは価値が低いのであり、むしろ内面を豊かにしていくものだったと思うのです。文学青年というものはまさにそうだし、自分の直接的なところにある欲望をうまく実現できない状態を、精神を上手に磨いていくことによって超越していく。あるいは現在実現されていないことを未来に託して、刻苦精励してやがて輝き出でようという(笑)、理想のパターンがあったわけです。そこには現在とか肉体を鋭く精神に対立させて、精神そのものを高めることによって、現実の不幸や矛盾の意識を無化していこうという傾向があったわけです。「名もなく貧しく美しく」とか「顔じゃないよ、心だよ」とか「結婚まではきれいな体でいようね」とかね(笑)。もちろん基本線は変わっていないけれども、物質的な豊かさが当たり前の状態になってくると、そういうことはリアリティを失っていく。

 それはいろいろな面でも言えますね。例えば教育の世界では、貧しい子どもたちは、教育の機会が貧しさのために奪われている、ということがリアリテイをもっていた時代があったのだけれども、みんな高校に進学できるようになると、それはリアリティを失った。そこから教育の世界での倦怠現象のようなものが起きてくるわけです。性の世界だと処女性、純潔性の価値のようなものが意味をなさなくなってしまった。

 それならばすべて心が満たされるのかといえばそうではないわけです。何か無形の虚しさのようなものが、いくら豊かになってもかならず残る。その虚しさをどういうかたちで解決、あるいは解消していこうか、宮台真司さんのように言えば肥大した自意識を何によって充填するかということですね。そのとき身体を変えるとか、毎日の気の持ち方を変えるというように自己の身体に逆流させて、エネルギーをそこに振り向けるという志向になってきましたよね。

 こうした後期戦後社会の問題を、よく「物質が満たされたあとは精神の問題に移ってきた」みたいなとらえ方で言う人が多いのですが、ぼくはちょっとちがうと思うのです。実態はもっと感覚的、直接的で、むしろ「精神一般」というようなものへの価値転倒や代償満足のルートが断たれて、より個体的に問題を主題化する傾向が目立ってきたように思うんですね。自己解釈や世界像が媒介するものが、精神と物質というような古典的な二元対立の装置でとらえられるものとはちょっとずれたところにあるようになってきたと思います。

佐藤 問題が個体的に主題化されざるをえなくなったとき、身体を変えたいという欲望は、端的に言えば超能力を獲得したいという欲望、超人願望のようなものに傾斜していきますね。これは既に指摘されていることですが、修行によって超能力を獲得できることを最初にうたい文句にした宗教が阿含宗の桐山靖雄です。麻原彰晃がこの阿含宗の信者だったということも、既によく知られている通りですし、たしかにそうした流れはあったと思います。

 しかしまた新・新宗教ブームといわれていた中でもう一つ注目したいのが、アメリカのニューエイジ運動と呼ばれるものの流れを汲んだものとか、あるいはユングの心理学の一部から流れてきたトランスパーソナル心理学を背景とした意識の変容ということをうたった宗教ですね。つまり人間の意識はある修練を課すことによって高次化するものである。そして高次化することによって最終的には宇宙の原理と自己意識は合一化する、ということをセールスポイントにしていた新・新宗教もあったと思うのです。チャネリングとかヒーリングなどという言葉が盛んに散見していましたし、幸福の科学なんかまさにそうだと思うんです。

 つまり、新・新宗教のもう一つの柱であるこの意識の変容や高次化ということも、小浜さんが戦後の二十五年を凝縮させようとした身体という言葉で包括できるのかという疑問を感じたのです。むろん小浜さんが身体というとき、心身の二元論的な対立を超えた、むしろ心身が相関する総体としての身体だということは解るのですが。

小浜 たしかに身体といってもまだ不十分かもしれません。こうは言えませんか。つまり身体の概念そのものが社会の高度化にともなって単なるこの肉体ではなく、むしろ広がっていった、膨張していったということですね。でもそれはやはり飛躍だという気がぼくはするんですよ。そこはオウムに対する批判にもつながってくると思うのですが、それは自閉的な循環ですよね。

佐藤 自閉的循環ということは社会へ向かわないということですね。

小浜 そうですね、高度化し、膨張した身体といっても、それはやはり身体の意識、あるいは身体という幻想ということであるわけです。それは、物を具体的に動かす過程とか生体のオーガニックな機能とか、こういう欠如を抱えた場合にはかくかくの手段を講じなくてはならないといった「生きる必要」の問題とか、要するに唯物論的な下部構造の問題を、むしろ意識しないですむ度合いに比例して膨張しているんですね。ですから当然、システムとしての「社会」そのものは、個人のなかでは無意識化してゆくということになると思います。

佐藤 飛躍だということをもう少し……。身体の概念が広がったということは、身体を意識したり実感したりする意識も広がったということで、そのことは精神の高次化ということと相関していますね。飛躍するのはそれがまさに宗教だからこそであり、厳密な線は引けないにしてもそこには臨界があって、たとえば簡単な道具の使用からくる身体の広がりとそれがもたらした精神のありようは飛躍ではないですよね。しかし道具もどんどん高次化していく。

小浜 その通りだと思いますね。道具の高次化は産業構造の高次化や情報社会化と見合っていますね。そうすると、変わってきていることというのは、要するに、「空」を相手どって何かしたり考えたりする部分の増大ということだと思うのです。それを何か「精神的な」「高尚な」ことのように錯覚しているところがあります。誰もが一丁前に「魂」や「宇宙」の問題と格闘するみたいな気分を与えられている。でもやっぱりメシを作ったり掃除をしたりしてくれている人は誰か(笑)。あるいは自分でやっている場合には、自分のどの部分がそれをやってくれているのか、そういうことにたえず気づかせられる契機というものが必要な気がします。


科学技術の高度化と魔術的感性

小浜 それからこれも指摘しておかなくてはならないのですが、科学技術の発展によってどういうプロセスでハイテク機器ができあがっているのかということが、一部の専門家以外だれにも解らない状態になってきましたね。それは一種の魔術、手品のようなものになって、ぼくたちの日常生活の中に突如出てくる。専門家の頭のなかにある合理的なプロセスがあるからこそハイテクノロジーの産物というものは生まれてくるわけだけれども、しかし素人には全然解らない。このギャップの大きさがどういう意識を押し開くかというと、魔術的なことの可能性に対して幻想を与えているような気がするんですね。だから科学技術が進めば進むほど合理的な思考過程が大衆化するかといえば必ずしもそうではなく、生活のなかに技術の産物そのものは浸透していくのだけれども、プロセスそのものは非常に神秘化する。

 従って科学技術は逆に神秘的な能力に対する関心や可能性を、ものすごく広げる作用を果たしている気がするんですね。こんなこともできるかもしれない、というような、「かもしれない、かもしれない」という積み重ねが、逆にオカルトブームを支えていることになっているとぼくは思います。科学技術の合理性と宗教の神秘性を対立させた考え方というのは古典的な考え方だけれども、必ずしもそうではなく、科学技術そのものが神秘性の意識を肥大化するのを助長しているという感じですね。

佐藤 ハイテクの産物そのものがパソコンやファミコンですが、そこがいまオカルティックな現象の舞台になっている、ということも今のお話に関連づけられると思うのです。例えばパソコン通信というものがある。ぼくはまだ手を染めていないのですが、これほど浸透する以前からのめり込んでいたぼくの友人が、パソコン通信というものが、目下うわさ話の発生源や宝庫になっているというんですね。怪情報珍情報がとめどなく流れている。今回のオウム事件でもそうでした。テレビでも取り上げられましたね。うわさ話というものは、伝達されるにつれて神秘性や怪奇性、不合理性を増幅していく、そしてそのことによってさらに遠くまで広がっていく、という特性をもっていると思うのですが、その舞台としてパソコンが使用されていることは、ハイテクと神秘性か感受性として地続きになっているということでしょうか。

 あるいは文学作品でも、数年前に笙野頼子という作家が芥川賞を受賞しました。彼女の作品にも、ワープロから紡ぎだされる文字や言葉が幻想を生み、増幅されて一つの悪夢のような幻想的作品世界になっていくというものがあります。言葉の持つ呪術性とハイテク機器の神秘性がうまくミックスされているといえるでしょうか。また子どもたちのファミコンにしても、新しいソフトが出ると、そこにはうわさ話が生まれるんですね。ステージが上がるにつれて高度なテクニックが要求されるわけですが、そこがなかなか突破できない限界のようなものだと感じられるところに生まれる憶測が、何かうわさ話のように広がっていくという感じですね。

 それでちょっといま思いついたのですが、新しいソフトが出て誰よりも早く最終ステージをクリアした子というのは、何か超能力者のような称賛のされかたをする、といった感じなのです。走ることや水泳がずば抜けて得意な子がいたとしても、単にスポーツが得意な子であるし、成績が抜群に優秀でも単に勉強ができるやつとかガリ勉だという日常的な感性のなかに回収されるのですが、ファミコンの達人とか、ゲームセンターでの伝説的な達人に対する称賛とか憧れ方というのは、日常性を超えた、超能力者に対するそれに似た子どもたちの感受性を感じるのです。

小浜 ああ、なるほど。それはとても重要な指摘ですね。ハイテク機器は、単に製造のプロセスの高度化によって神秘性とドッキングするのではなくて、それをユーザーが使いこなすスタイルのなかに〈魔〉的なものを押し開いてゆく秘密を隠しているということになりそうですね。逆に言えば、それは原始的な権力形態(ヌミノーゼ、英雄崇拝、シャーマニズム、宗教的畏怖など、心情に訴えて作り出される秩序形式)の再生産とも言えるわけで、人間なんて変わらないもんだなという感じもしてきますね。

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