| 終章 高齢者医療の未来 「医療崩壊」現象の背景をどう読むか 「医療崩壊」と呼ばれる現象について、もう一度筆者なりに考えてみよう。 まずこれらの現象は国と厚生労働省が推し進めてきた「医療制度改革」によってもたらされたものであり、構造改革という社会制度や経済構造の大きな変革に直面したことによって生じた過渡的現象であるということだ。この崩壊現象を、改革は必然であり、生みの苦しみだと見るか、改革の進め方に根本的欠陥があると捉えるか、改革それ自体が誤りだったと考えるかは、判断の分かれるところだろうと思う。 この一〇年、筆者は特別支援教育、障害者福祉、高齢者の医療と介護、障害者をめぐる司法などの現場を取材しながら、そこで働く人々が社会変容の圧力をまともに受け、混乱と困惑と葛藤の渦中にあるさまを見てきた。そして障害をもつ人びとや高齢者自身が、まず真っ先にそのツケを支払わされている、という現実を幾度となく目にしてきた。 その一つに「応益負担」という考え方がある。障害者自立支援法や後期高齢者医療制度などはその典型だが、障害当事者も、高齢者自身も、応分の責任を担うという考えで、小泉改革以降、おおむねこの方向で社会保障の制度がつくられてきた。筆者のなかでは現在進行中の課題なのだが、社会保障の基本理念と「応益負担」という考えは、果たして矛盾なく両立するのか。 たとえば多く持てる者にとっての「応益負担」と、わずかしか持たない者にとっての「応分負担」のもつ意味合いはまったく異なる。持たざるものであればあるほど、負担は重くのしかかることになる。 ところが一方、いま広くこの国に蔓延しているのは、自分だけが割を食っているという「不公平感」である。そしておそらくこの不公平感こそが、自分よりも持たざる者に対して「応益負担」を当然とするモチーフとなっている。しかし弱者に求める応分負担は、とどのつまりは自分自身に返って来る。跳ね返ってくれば、応分負担を求める感情はさらに高まり、ますます不公平感を募らせていく。 筆者は経済学や社会保障の専門家ではないので、ただ現場を回って感じてきたことを述べているのだが、極論を言ってしまえば、これまで作り上げてきた社会保障制度それ自体が、いまや「不公平感」を生じさせる主要因となっているのではないか。高齢者医療や福祉の充実が必要なことは、みな知っている。しかしその充実のためは、自分自身の負担ばかりが重くなるという「不公平感」を伴ってしまう。充実させたとしても、その利益を享受できるのはごく一部の層だけだ、――多くの人々が、どうもそうしたジレンマの蟻地獄に陥っているのではないか。 取材中、感じ続けてきたことがもう一つある。これらの現場で起きていることは、単に仕組みが変わるとか制度が変わるということ以上に、もっと大きななにかが変わろうとしている、それは何か、ということだった。思い切り雑駁に言ってしまえば、この間の変容はつぎのようになる。 これまでの日本社会が、独特の家族主義的で共同体的な価値観をもってつくりあげられてきたことは、いまさら指摘するまでもない。どうすればそれをアメリカ型の競争原理や自己責任といった「個」を単位とする価値観につくり変えることができるか。「小泉改革」とはそのような改革だったこともすでに明らかである。大事なことは、その結果、非常に重要なものを解体させることとなったということだ。 六〇年代から七〇年代の高度成長期の日本を支えてきたのは、世界に類を見ない良質で、充実した中間層であった。サラリーマン社会だけではない。教育も福祉も介護もおそらくは医療も、その実質を担ってきたのはごく一部のトップエリートではなく、厚みのある中間層だった。中間層こそが、日本社会の生命線だった。そしてこの中間層を成りたたせてきた価値意識が、熾烈な個人原理や競争原理とはむしろ対極の、家族主義的な共同体原理である。筆者は教育の現場にいたから実感としてよく理解できるのだが、ある時期より、こうした価値観が好まれなくなった。 中間層の存在はロスが多く、その割に成果が出ているのかどうか曖昧である。評価が求められず(自らもせず)、意欲があるのかないのかもはっきりとしない(アピールするなどの目立つ振る舞いは厭われる)。競争主義とは反対の横並び主義である。物事の白黒をはっきりさせず、グレーにしておいたまま、そのときどきの場の空気によって白になびいたり黒になびいたりする。力のある人間が表だっては評価されにくく、本人も周囲も内心では分かっていても口にはしない(出る釘は打たれる)。結果、責任の所在があいまいとなる。――たしかにそのようなところがあった。 しかしこれらを反転させたところに、日本の中間層集団は価値を見出してきた。曰く、ロスや無駄にもそれなりにいいところがある、競争一辺倒や完璧主義は息苦しくさせるだけだ。曰く、白黒をはっきりさせないことは、失敗したときに自然治癒的、自然解決的な効能を発揮し、ダメージを受けることが少なくて済む。曰く、一人だけが突出して目立つ必要もヒーローになる必要もなく、重要なのはチームの結束力である、云々、といったように。特筆すべきは、こうした価値観が中間層の成員にとっての、様ざまなセーフティネットとして機能してきたことである。 この中間層集団を徹底して合理化すること。個としての輪郭の曖昧な成員を、成果至上の「勝ち/負け」のゲームに耐え得る「個」に変貌させること。家族主義的価値観を、自助努力・自己責任型の「個」の価値観に変えること。これがこの一〇年の「改革」だった。改革が押し進められた結果(当然ここには抜き差しならない財政事情があったわけだが)、この中間層集団は、ほぼ崩壊、解体した。結果、社会とその成員が「勝ち/負け」に二分され、固定化した二極となった。ワーキングプアとか格差社会と呼ばれる現象となって現われていることは、改めて筆者が指摘するまでもない。 メディアで喧伝される「医療崩壊」も「介護崩壊」も、この文脈上で見てよい。市場原理や競争原理の導入を目的とした改革の過程でもたらされた、医療と介護の二極化現象が生じているのであり、中間層の崩壊現象である。医師不足や地域医療の崩壊は(介護・福祉の現場から若い担い手が去っていることも)、この中間層の解体によるものである。かつてはシステムとしても構成集団の心理としてもそれなりに機能していた相互扶助のメカニズムが、中間層の崩壊により機能不全となり、結果、孤立と競争の常態化を余儀なくされたことによる。 しかし、ではかつての中間的共同体が再生できるのか、あるいは再生を求めるべきかといえば、それはもはや不可能だろうと思う。改めて述べるまでもないが、筆者は、病院や福祉・介護(ここには教育も加えたいが)の競争を無制限に奨励するものではない。これらの領域における規制緩和はそれなりに必要だが、一定の条件下で進めるべきだと考える。 本文でも述べてきたように、医療や福祉のリーダーにいま求められているのは変革に対応する力である。人や地域をコーディネートする力、医療をもとにして雇用を生み出す力、本来の意味での経営の力である。何もしないことが一番の対応策だといった役人的発想や、旧来の右肩上がりの箱もの的発想からどう脱却するかは、もはや避けられない流れになっている。本書で取り上げた医師たちはその先駆的な例である(もちろん本書以外にも、優れた医療サービスを提供している医師たちは多く存在する)。それぞれの取り組みについては賛否があろうかとは思うが、貴重なモデルケースとなっていると感じた病院・診療所を紹介してきた。 「国に言われる通りにやればやるほど、食えなくなっていく」。米作り農家からよく聞く言葉であるが、医療や介護・福祉においても同様である。一定の制約の中でどこまで自由で柔軟な発想ができるか、以降、病院経営んみとってはさらに重要な論点となるだろう。 (以下略) |