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母の自叙伝 「私の人生(幼少編)」

(注)本文章は、母が八十歳になったのを記念して、いつも母が言っていることを長男の幸一がまとめて製本した『私の人生 おかげさまで八十才 坂東愛子』から幼少時代を抜き出したものです。
  • 目次
    第一章 最初のかあちゃん
    第二章 おとちゃん
    第三章 二番目のかあちゃん
    第四章 学校の思い出

第一章 最初のかあちゃん

 私のお母さんは「佐藤すなお」といいます。私は「かあちゃん」と呼んでいました。いつも優しく、怒ったことがありませんでした。いつでもニコニコしていて決して叱ったり、どなったりしませんでした。私のことを「愛ちゃん」と優しく呼んでくれました。「おまえが生まれてきて本当に嬉しいよ」と言う気持ちが伝わって来ました。私はいつもかあちゃんのそばで甘えていました。
 かあちゃんはいつも裁縫をしていました。その縫ったはずの着物がいつも見当たらないのでいつも不思議に思っていました。時々、かあちゃんが買い物に行った時にタンスなどを調べました。しかし、どこにもありませんでした。あとで分かったのですが、かあちゃんは内職でよその人の着物を縫っていたのです。
 かあちゃんの実家は札幌にあり、多分燃料屋をしていたと思います。小さい頃はよく遊びに行きましたが、かあちゃんが亡くなってからは新しい母ちゃんに悪いので行かなくなりました。多分、かあちゃんの兄弟が家を継ぎ、今はその人の孫が家を継いでいると思います。
 かあちゃんは私が小学校二年の五月五日に亡くなりました。「スナオ シス」との電報を受け取ったとき、おばあちゃんは字が読めなかったので私が読みました。私はおいおい泣きました。直ぐにおとちゃん(私はお父さんのことをおとちゃんと呼んでいました)に連れられて札幌のかあちゃんの実家に行きました。これは私の人生で一番悲しい出来事でした。おとちゃんはかあちゃんが亡くなったとき、大事にしていたバイオリンを投げ捨てました。おとちゃんはかあちゃんにバイオリンを弾いて聞かせることが一番の楽しみだったのです。
 私がまだ物心が付くか付かない中途半端な時期にかあちゃんが亡くなったことは、その後の私の性格に大きな影響を与えました。ある時、長男の嫁から「お母さんは遠慮の固まりじゃない」と言われましたが、私は遠慮している積もりは全くなかったのです。遠慮の固まりって何だろうとよくよく考えた結果、これもかあちゃんが小さいときに亡くなった影響だと思いました。この自分の経験から私は、親は子供が大きくなるまで絶対に死んではならないと強く思うようになりました。
 かあちゃんの写真はただ一枚残っていますが、これも二番目の母ちゃんが生きている間は見せてはいけないものと思い、しまってあったものです。最近はもう出しても良いと思い、家に飾ってあります。

第二章 おとちゃん

 私のお父さんは「佐藤乙松」といいます。私はお父さんのことを「おとちゃん」と呼んでいました。多分、「おとうさん」と「おとまつ」が一緒になって「おとちゃん」になったのではないかと思います。おとちゃんは、明治二十八年に小樽で生まれ、そこで育ちました。おとちゃんのお父さんはおとちゃんが小さい時に亡くなりましたので、子供時代は苦労したようです。
 おとちゃんは日本製鋼室蘭製鋼所で鋳型士(いがたし)をしていました。足に大きな火傷の跡がありましたが、仕事で火傷をしたのです。仕事の腕は良かったようです。その証拠に晩年東京に出て来てある期間私の家に居たことがありますが、近所の鉄工所で働いた時にその職場で大事にされました。
 おとちゃんは社宅に住んでいましたが、偉くなるにつれて社宅も変わりました。最初は輪西の八建長屋、次ぎが御前水の六建長屋、最後が母恋の四建長屋でした。私が生まれたのは輪西の社宅だと思います。お酒が好きだったのでお正月には部下をたくさん家へ呼びました。家からあふれる位たくさん来ました。
 おとちゃんは非常におしゃれでした。鼻の下にちょび髭をつけ、バイオリンを習っていました。髭はいつもハサミで手入れをしていました。歌も好きで「ミミラスドスラ」と歌っていました。私も「荒城の月」などを歌わされました。私が歌を好きになったのはこのせいではないかと思います。おとちゃんは優しく私を可愛がってくれました。おとちゃんは酔うと「ちょん愛子、ちょん愛子、ちょんちょん愛子愛子、ちょんが菜の葉でおっちょちょいのちょい」と歌ってふざけました。私もおとちゃんの膝にのって甘えました。
 おとちゃんはお酒が大好きで毎日晩酌をしていました。私をそばに座らせ、飲みながらその日の会社での出来事を話してくれました。かあちゃんは余り関心がないようで時々居眠りをしていました。景気が悪いときは毎日は飲めないときがありましたが、給料日にお酒を準備しておくと小躍りして喜びました。お酒がある日はおとちゃんが喜ぶので私もうれしかったです。しかし、お酒のない日は可哀想でした。鼻をかんだりしてなかなか箸を付けようとしませんでした。意を決して食卓に付くと急いでご飯を食べ、「ながたさんの家に行って、碁をしに来てくれませんか、と言ってらっしゃい。」と丁寧な言葉で私に頼みました。おとちゃんは碁が大好きだったのです。私には分かりませんが、結構強かったようです。
 また、おとちゃんはおそばが大好きでした。時々、給料日には近くのおそば屋さんに注文しておそばをとって食べました。私もおそばが大好きでしたのでそれが楽しみでした。今でもおそばを食べるとそのことを思い出します。
 おとちゃんがかあちゃんとどうして知り合って結婚したのかは知りませんが、多分恋愛結婚だったような気がします。すごく仲が良かったからです。 子供は五人生まれましたが、二人は亡くなったので実質的に三人きょうだいでした。私は長女の「愛子」で大正七年一月一日生まれです。 私の下に弟が一人と妹が一人いました。弟は既に亡くなりましたが、妹は元気です。

第三章 二番目のかあちゃん

 かあちゃんが亡くなってからは非常に心細くて怖い毎日でした。世の中の全てが怖くなりました。学校から帰っても誰もいないので誰か知らない人が来たらどうしようか、と怖くてびくびくしていました。
 かあちゃんがなくなってから三ヶ月位たったある日、新しいお母さんが来ることになりました。私はうれしくて八建長屋の端から端へ「あした、うちに母ちゃんが来るようー」と叫んで走って回りました。しかし、新しいお母さんが来た時、私はがっかりしました。死んだ母ちゃんとは姿も形も全く違うのです。私は死んだかあちゃんと全く同じ顔をしたかあちゃんが来ると思っていたのです。
 新しいお母さんは浜育ちだったので言葉は荒く、自分のことを「俺」と言いました。 最初はがっかりしましたが、新しいお母さんが来てくれたお陰で心が安定しました。毎日家に居てくれるだけで有り難かったのです。しかし、なかなか「母ちゃん」と呼べませんでした。新しいお母さんも何とか呼ばせたいと思ったらしく、ある日私に食卓でおかずを配ることをさせました。順々に「これはおとちゃんの」、「これはしーちゃんの」、「これはいーちゃんの」、と来てついにお母さんの番になりました。意を決して小さい声で「これは母ちゃんの」と言いました。その後、母ちゃんと言えるようになりました。(以後、最初のお母さんをかあちゃん、二番目のお母さんを母ちゃんと書きます。)
 しかし、自分を生んでくれた本当のお母さんでないと言う意識があるので普通の子供のように心からお母さんに甘えることは出来ませんでした。ある時、母ちゃんが長靴を買ってくれました。それも大きくなっても使えるようにと大き目のものを買ってくれました。しかも男の子用でした。普通なら「こんな大きいの嫌だ、もっと小さいの買って」と駄々をこねて小さいのを買ってもらったでしょう。しかし、子供心に本当のお母さんでないと言う遠慮があるため、それが言えませんでした。また嫌われて家から出て行かれては困ると言う気持ちもあったと思います。それでそのだぶだぶの靴をずっと履いていました。しかし、母ちゃんを恨んだことはなく、いつも感謝していました。
 不思議なもので最初のかあちゃんには「愛ちゃん」と言って貰うのがうれしかったのですが、二番目の母ちゃんには「愛子」と呼び捨てにして貰う方が嬉しかったです。また、悪いことをしたときは叱ってくれた方が本当の親子のようで嬉しかったです。
 母ちゃんはいつも髪結いさんに行ってきちんとした格好をしていました。多分、自分の身分にしては良いところに嫁に来たという意識があったので恥ずかしくないように気をつけていたのだと思います。
 私は漬け物が大好きでした。母ちゃんはそれを知って漬け物を作ってくれました。私はそれをぽりぽり音をたてながら美味しそうに食べました。母ちゃんは「愛子が好きだから漬けたんだ」と言って、目を細めながらうれしそうに私を見ていました。しかし、私はそれを聞くたびに、母ちゃんに忙しい思いをさせて悪かったのかどうかといつも考えました。
 母ちゃんは子供が好きで自分でも子供が欲しくてたまらないようでした。しかし、子宮後屈ということで子供はなかなか産まれませんでした。ある日、母ちゃんはおとちゃんに内緒でお医者さんに行き、手術をしました。それ程子供が欲しかったのです。しかし、結局子供は産まれませんでした。その代わり私たち三人の子供を可愛がってくれました。

第四章 学校の思い出

絵のこと
 絵は小さい時から好きでした。ある日、絵の時間に窓から見える製鋼所の絵を描きました。そうしたら絵の大黒先生が後ろから「佐藤、おまえ絵うまいな」と言いました。佐藤は同じクラスに六人居たのでどの佐藤だろう、と恐る恐る後ろの先生を見ました。そうしたら私のことだと分かりました。生まれて始めて学校の先生に誉められたので私はうれしくなり、夏休みに沢山の絵を描いて先生に持って行き見せました。そうしたらまた誉めてくれました。ますます絵が好きになりました。最初に誉められた絵は卒業するまでクラスの壁に張ってありました。卒業の時にもらえばよかったと今でも残念です。大黒先生は絵だけを教える専門の先生でおかっぱ頭の男の先生でした。
 その後、絵を描く機会はありませんでしたが、いつかきっと思いっきり絵を描きたいという希望だけは心に残っていました。結婚して末っ子が生まれた時に一度描こうとしたことがありました。しかし、面白がって「ちゃーちゃんも、ちゃーちゃんも」と寄って来て自分も描こうとするので駄目でした。自分の希望がかなったのは末っ子が学校を卒業してからでした。そのときやっと思いっきり絵を描くことが出来、自分との約束を果たした気持ちになり、気持ちがすっきりしました。
 小さい時の先生のたった一言の誉め言葉が如何にその人の人生に影響を与えるかと言うことであり、先生は出来るだけ生徒を誉めるべきだと思います。私の場合、大黒先生に感謝しています。

唱歌のこと
 私は歌が大好きでした。特に雨の日は、窓から雨だれが落ちるのを見つめながら歌うのが大好きで、一日中でも歌っていました。これはおとちゃんが歌を好きで、小さい時から歌わされていたためかも知れません。
 おとちゃんは小さいときにお父さんが亡くなったので貧乏な子供時代を過ごしました。しかし、働き始めたときにバイオリンを買って習いました。余程音楽が好きだったのです。私にはいつもカタカナで書いた歌詞を渡して「これを歌え」と威張って命令しました。おとちゃんはバイオリンで伴奏し、私も歌は好きだったので喜んで歌いました。
 学校の科目の中では唱歌の時間が一番好きでした。唱歌の時間の前は出来るだけ声を出さないように静かにしていました。唱歌の時間のために声を大切にしていたのです。小学校の学芸会にはいつも選ばれて出ていましたが、ある時、先生に言われて一度だけ独唱をしました。その情景は今でもはっきり覚えています。15人位で舞台に出て行ったのですが、先生から私だけが前に出て独唱するように言われました。私が歌っている間、他の同級生は緊張した面もちで私の後ろに控えていました。何の歌を歌ったかは覚えていませんが、全然上がらなかったことを覚えています。高校を選ぶときに音楽学校に行きたいと思ったこともありましたが、家庭の事業を考えると言い出せませんでした。
 私の末っ子の小学校のママさんコーラスでテレビに出演したことは良い思い出です。今でも毎日家で一人で歌っています。最近の曲では、谷村新司の「群青」や「いい日旅立ち」、五輪真弓の「恋人よ」などが大好きで一回の食事を抜いてでも聴きたい位です。曲も素晴らしいし、歌い方も強弱を付けて素晴らしいと思います。

忘れ物

 私は小さい時から忘れっぽく、母ちゃんが心配してカバンの名前を書く所に「忘れ物」と書きました。クラスの友達がそれを見て大きな声で「忘れ物」と言いますので恥ずかしかったです。しかし、幸いなことに今まで忘れ物で人に迷惑を掛けるような大失敗したことはありません。

努力賞・優等賞
 自分はそれ程頭が良い方ではないと思っていましたので、人一倍努力をしました。そのせいか努力賞はもらいました。室蘭裁縫女学校は、学科を中心にしたクラスと裁縫を中心にしたクラスがありましたが、私は裁縫を中心にしたクラスに入りました。これは、母ちゃんが裁縫が出来ず、いつもお金を払って人に裁縫を頼んでいるのを見ていましたので、裁縫が出来ないと将来困ると思ったからです。
 裁縫は得意でしたので、クラスで一番になり、優等賞をもらいました。この時はもらえる予感がして呼ばれてもよいように予めいつでも出ていけるように座り方を変えていました。私は小さかったのでいつも椅子に正座していたのです。そうしたら案の定呼ばれました。この時はうれしかったです。

運動会
 私は運動は不得意でした。運動会のかけっこでは、先生は「ちび頑張れ」と応援してくれましたが、一生懸命走ってもいつも離れたビリでした。

好き嫌い
 私は食べ物の好き嫌いは殆どありません。貧乏だったから好き嫌いなんて言っていられなかったからです。それでも大好きだったのはピーナッツです。母ちゃんが買って来てくれた時は、殻で畳を汚さないように新聞紙を敷いてきょうだい3人揃って座って大喜びで食べました。どうしても食べられなかったのはウナギです。気持ちが悪くて食べられませんでした。しかし、結婚して子供達が出来たときは私に好き嫌いがあることを子供達に知られたくないと思い、食べたふりをしていました。だから子供達は私がウナギが嫌いだとは知らなかったと思います。海が近かったので、魚は豊富で毎日売りに来ました。新鮮でおいしく好きでした。ほっけやニシンの干した物はおやつ代わりに食べました。漬け物も大好きで母ちゃんがよく漬けてくれました。また、「コンニャクは腹の砂払いで体に良い」と言ってコンニャクの煮物を作ってくれました。私はこれを食べた後、いつもお腹から砂が出てくるか自分のお腹を見ましたが、出て来ませんでした。

(2004年9月11日)
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