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介護レポート:2007年12月度
「母は急に旅立った」

 母は11月25日に階段から落ち、左側半身を打ち、左手首を粉砕骨折した。それ以来、11月29日までは何とか従来の生活の延長線で過ごすことができた。 ご飯も量は少ないが、ミニおにぎり、煮魚、カステラ、ラ・フランス、バナナなどを食べることができた。26日はトイレも自分で歩いて行った。 しかし、11月29月を境に体力の蓄積を使い果たしたように食事が進まなくなった。そこでお粥、すりりんご、バニラアイスなどをスプーンであげることにした。 以前はスプーンであげると手で払いのけたが、12月に入ってからはおとなしく言うことをきいて、少しずつは食べ、お茶もまあまあ飲んだ。 パンツも紙パンツにしたが、おとなしく交換に応じた。

 しかし、12月5日の朝、当番の妹から電話があり、「息が荒く、苦しそう。お医者さんに往診してもらった方がよいと思う。」との連絡を受けた。私は9時を待っていつも見ていただいている医者に電話をし、 午後来ていただく手はずを整えた。私はいつものとおり、11時半にヘルパーさんと交代した。そのとき母は私を見て、「会社へ行かなくていいの?」と小さい声で言った。 私は、「今日は休みだから行かなくていいんだよ。」と言うと母は安心したように微笑んだ。私は母の手を握ってあげた。

 その後、ずっーと母のそばで様子を見ていたが、午後2時少し前、母は苦しそうに息をしながら、「神様、助けてください。神様、お願いします。」と小さい声で言った。 私は「大丈夫だよ。もう少しでお医者さんが来るからね。頑張ってね。」と言って母の手を握った。 母は私を見て、「どこへ行けばいいの?」と訴えるように言った。私は「ここはお母ちゃんの家だからここに居ていいんだよ。僕は長男幸一だよ。お母ちゃんから生まれたんだよ。」と言うと安心したように握っていた手を自分の胸に押し当てるようにして目を閉じた。 このとき母はきっと私が息子であることが分かり、抱きしめたかったのだと思う。これが私が母と交わした最後の会話であった。

 午後2時頃、先生と婦長さんが往診に来て下さった。診察した結果、「お母さんは従来から心臓が悪いから血液が末端に行かなくなっている。普通なら直ぐに入院するところですが・・」 と言った。私は母が病院嫌いであり、以前に病院から追い出されたことがあったことを思い出し、「妹たちと相談した上で後ほどお電話します。」と言った。先生は、「分かりました。あとでレントゲンを撮りにきます。」と言って帰った。 しばらく母の様子を見ていたが、さらに息が苦しそうになってきたように思えた。そこで再び医者に電話をして、「やはり、入院します。病院を紹介してください。」と頼んだ。 しばらくして婦長さんから、「明日、午後1時に入院できる病院が見つかりました。」との連絡があり、確保をお願いした。その後も母は荒い息をしていたが、しばらくして穏やかになり、微笑むような顔をしてあっという間に逝ってしまった。 まさに回りに迷惑をかけないという母の人生訓そのものの逝き方であり、大往生であった。これと前後してその他のきょうだいや配偶者、孫なども次々と駆けつけた。

 今にして思えば、この1週間、母は本来の性格を取り戻したかのように優しくなり、痴呆も治って元に戻ったように思えた。このことは介護している全員が感じていた。 母はきっと精一杯の気持ちで皆に最後のお別れをしていたのだと思う。私は上に書いたような最後の会話をしたし、妹や女房も次のような会話をしていた。

三女とは11月28日と29日に次のような会話を交わしたと言う。
28日朝には、着替えをしたときに母は三女の手を自分の胸に持っていき、「好きだよ。」と言った。きっと自分の娘であることが分かっていたのだと思う。
また29日には、頭をなでるジェスチャーをして、「みんないい人でーす。いい人ばっかり。凄く嬉しいでーす。皆、いい人ばっかりです。全部いい人ばっかりですよ。」 満面笑みで妹の手を握り、「みんないい人ばっかりでーす。」  そしてバナナ2/3と大きな蒸しパン1個を食べ、吸い飲みでお水を4杯飲み、「お腹いっぱいになった。」と満足そうだった。
私の女房とは、12月1日の当番で体位交換をしてあげたとき、母は女房の頬をなでて母の顔の方に引き寄せて頬ずりをしてくれて、手を握ってしばらく離さなかった。
12月2日私が当番のとき、早朝5時半ごろ、母は目を覚まし、しっかりした声で「私は坂東愛子です。北海道で生まれたのです。」と何回か繰り返していた。
これらはみんなお別れだったのだと思う。

 お葬式は、次の日にお通夜、その次の日に告別式を行った。 お棺の中には、母が片時も身の回りから離さなかった母の三種の神器(私が作ってあげた母の自叙伝『私の人生』、途中まで編んだ編み物、毎日数えていた千円札を入れたお財布)、母が色紙に描いた絵数枚、好物だったカリントウを入れてあげた。 また、母がいつか着たいと言っていた自分で作った仕立て上がりの着物をかけてあげた。

 お葬式は内輪の家族葬という形で行った。私は喪主として遺族を代表して次のような挨拶を行った。

 「本日は故坂東愛子の葬儀のために多数ご参列いただき、まことにありがとうございました。母は11月25日に自宅の階段から落ち、救急車で都立府中病院に運ばれました。検査の結果、左手首骨折と診断され、自宅で通院治療することになりました。 最初の5日間くらいは何とか食事も進み、あとは1ヶ月の辛抱と思っておりました。しかし、12月5日に容体が急変し、帰らぬ人となりました。苦しまず非常に穏やかな最後でした。母は大正7年1月1日に北海道室蘭で生まれました。あと4週間で90歳でしたので、ちょっと残念です。 母は小学校2年のときに実の母を亡くしましたので苦労の多い子供時代でした。しかし、それにめげず、弟、妹の面倒を見ながら一生懸命に生きてきました。 結婚後は家族のために一生懸命に尽くしてくれました。私たちは母の懸命に生きる後姿を見て育ちました。母の楽しみと言えば、60歳ごろ集中的に絵を描いたこと、末っ子の小学校のママさんコーラスでテレビに出演したこと、最後まで続けていた編み物などでした。 17年前に父が亡くなってからは張り合いがなくなったのか、アルツハイマー病にかかりました。それでも不自由な頭脳で一生懸命、前向きに、明るく生きてきました。時には天使のような笑顔を見せてくれました。 介護している私たちはその姿を見て癒されました。母の生き方は、人に迷惑をかけない、人のお世話にならない、医者にかからない、そしてまじめに一生懸命生きることでしたが、それを最後まで頑固に見事に貫き通した一生でした。 これから私たちもこの母の生き方を見習って一生懸命に生きたいと思っております。これからもよろしくご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。」

 母は最後の約6年間、入れ替わり立ち替わりであったが子供たちと一緒に暮らすことができてきっと幸せだったと思う。介護した私たちも幸せでした。お母ちゃん、ありがとう。安らかにおやすみください。合掌。

 最後に、一人暮らしの認知症の母に対して在宅で理想的な介護を全うできたのは、きょうだい5人の各々の配偶者全員の絶大なる協力があったればこそでありましたのでここに深く感謝の意を表します。 また、武蔵野共立診療所のケアマネージャーさん、ニチイ学館のたくさんのヘルパーさんにも大変お世話になりました。感謝申し上げます。

今月の生活行動状況徘徊実績等

○亡くなる6日前の母(2007年11月29日撮影)

11月29日、母は大変機嫌が良かったので介護当番だった三女が撮ったものです。三女の手を握っています。

(2007年12月23日)
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