想い出
 
  昭和四七年(一九七二)八月一〇日渡米、五ヶ月前に結婚した妻を日本においての渡米を決意し、渡航に際し片道航空券、三〇万円のキャッシュ、米国領事館から一ヶ月間の観光ビザ、夏服の着替え、道着、鍼灸の鍼箱一つを携行した。 私を保証するものはこれが全てであり、これを以ってこれから先カイロの道を切り拓いていかなければならなかった。 日本を発つ時に、妻には早くて三ケ月、遅くて六ヶ月、遅れついでに五、六年は帰国しないつもりだ、向うの事情が把握出来次第呼び寄せるので待っていてくれと、そして私の代 わりに祖母を大事にしてやってくれと言い残して一路米国へと飛び立った。
  当面の目的地ロスでは、少林寺拳法をやりながらアダルトスクーに通い、一〇ヵ月間程、英語を無償で学ばせてもらった。 当時の米国はベトナム戦争の最中だったが腐ったと言っても鯛は鯛、まだまだ経済的には余裕のあった時代だった。  一年足らずの間お世話になったロスを後に、英語も儘ならないまま、心中はカイロの総本山パーマー大学へ思いを馳せ、新天地へと、夢と希望と不安が交錨する未知の世界へと、カイロの世界へと羽ばたいた。 呼び寄せた妻と共に現地入りし、大先輩である若城弘治先生ご夫妻には学校のことからアパートの事まで諸々百般大変お世話になった。
  一年を迎えようとする頃、パーマー大学に何か物足りなさを感じ始めていたので、新設校シャーマン大学へ転校し、この大学にてB.J パーマー直系のタゴーリコイル、即ちホールインワンをDr.シャーマン、Dr.トムジェラルディに半年間徹底的に学んだ。 が、それ以上のものが無く困惑してしまった。  一時は帰国も考えたが気を取り直してそれならばと開き直り、どこの大学も似たりよったりならば世界最古、最大、最も有名なパーマー大学を卒業するに限ると決意も新たに復学し、昭和五一年一〇月、無事卒業する事が出来た。
  長女がシャーマン時代に、長男がパーマー時代に、二男がロスで産まれ、帰国後三人の男子に恵まれ計六人の子持ちになった。  最後に、今年三月パーマー大学を訪れた時、ダーペンポートの町の片隅に、私が創設したアイオワ少林寺拳法道場が三〇年の風雪に耐え、未だに健在であったのには感慨無量一入であった。 夕間暮、門下の誰にも会う事なくそっと門前を通り過ぎ帰路についた。 武運恒久、永遠なれと祈りつつ。

  カイロタイムスより引用
    冨金原 伸伍

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